閑話:泥に塗れた悪逆の救世主
閑話その2です。
関ヶ原の敗戦後、主人公の過酷な命令に従って大坂の地下へ潜伏した明石全登の視点となります。
敬虔なキリシタンであり、常識的な武士であった彼が、秀家の常軌を逸した狂気をどのように解釈し、やがて来る決戦に向けて牙を研いでいるのか。
暗躍する影の忠臣の姿を描きます
慶長八年。
徳川家康が征夷大将軍の宣下を受け、江戸に幕府を開いたこの年。世間は、長きにわたった戦乱の世がいよいよ終わりを告げ、天下泰平の御代が訪れたと喜びに沸き返っていた。
大坂城には依然として豊臣秀頼公が君臨しているとはいえ、もはや天下の趨勢が徳川にあることは、誰の目にも明らかであった。
だが、大坂の華やかな町人文化の裏側、光の届かぬ地下深くで、決して消えることのない怨念の炎を燃やし続けている者たちがいる。
「……硝石の質が落ちているな。これでは、児島党の遺した『早合』の規格を満たせぬ。堺の商人には、金はいくらでも積むゆえ、南蛮渡りの最上品だけを回せと伝えよ」
大坂の地下に密かに掘られた、広大な土蔵の中。
明石全登は、油紙に包まれた火縄銃の束を冷徹な目で検分しながら、傍らに控える町人姿の部下に低い声で命じた。
「は、はいッ。しかし全登様。すでにこの土蔵には、二千丁を超える種子島と、莫大な弾薬が備蓄されております。これ以上集めましても、隠し通すのが難しく……」
「足りぬ」
全登は、部下の言葉を冷たく遮った。
「あの老狸の分厚い皮を剥ぎ、その喉笛を噛み千切るためには、こんなものでは到底足りぬ。あの方が戻られた時、即座にあの『鉄と鉛の暴雨』を再現できるよう、五千……いや、一万の種子島を揃えよ。金は、加賀の前田家から密かに流れてくる。出し惜しみはするな」
部下を下がらせた後、全登は土蔵の隅に置かれた粗末な木箱の上に腰を下ろした。
周囲には、むせ返るような鉄と油、そして硝石の臭いが充満している。
それは、彼にとって「信仰」の匂いと同義になっていた。
全登は胸元から十字架を取り出し、目を閉じて祈りを捧げた。
ゼスト(洗礼名)。彼は敬虔なキリシタンである。かつては、神の教えに従い、武士としての名誉と誇りを重んじる、ありふれた戦国武将の一人に過ぎなかった。
己の信じる正義のために戦い、潔く主君のために命を散らすことこそが、最も美しい生き様であると信じて疑わなかった。
だが、その薄っぺらい常識は、三年前の関ヶ原で、主君・宇喜多秀家によって根底から破壊された。
◇
冷たい雨が降り頻る、伊吹の山中。
味方が総崩れとなり、圧倒的な絶望の中で切腹を望んだ若い兵士の顔面を、秀家は泥まみれの足で容赦なく蹴り飛ばした。
『ふざけるな。てめえらの安い自己満足のために、命を捨てるな』
その言葉は、全登の魂に強烈な楔を打ち込んだ。
武士としての名誉ある死を否定し、天下の嘲笑を浴びてでも泥水を啜って生き延びろと命じた主君の瞳。そこにあったのは、もはや人間のそれではなく、豊臣への異常なまでの狂信と、徳川家康への純粋な殺意の結晶だった。
世の武将たちは、己の欲や名誉、あるいは一族の存続のために戦う。
関ヶ原で西軍を率いた石田三成でさえ、自らの理想とする「正しい統治」という大義名分に殉じた。
だが、秀家は違った。
彼は最初から、自分が地獄に落ちることを受け入れていた。豊臣の黄金の世を守るためならば、自らが悪鬼外道に堕ち、味方を欺き、身内を惨殺し、戦国武将としての誇りを泥の中に投げ捨てることも厭わなかった。
(……あの方は、全てを背負われたのだ)
全登は、暗がりの中で十字架を強く握りしめた。
キリシタンの教えにおいて、神に逆らい、人間を殺戮する者は悪魔のそしりを受ける。
だが、全登の目には、秀家の姿が、まるで「この世の全ての罪と泥を自ら被り、豊臣という名の神の国を守ろうとする、悪逆なる救世主」のように映っていた。
関ヶ原において、秀家は一切の感情を排した「殺人機械」たる児島党を率い、小早川や福島を物理的に粉砕した。その戦いぶりは、古き良き武士の誉れとは無縁の、ただ無機質で凄惨な「作業」であった。
全登は、その圧倒的な効率性と冷酷さに恐怖すると同時に、底知れぬ美しさすら感じていたのだ。
だからこそ、全登は秀家の呪いのような命令に従い、大坂の地下へと潜った。
「……全登様。新たに牢人どもが数十名、我らの誘いに乗って大坂へ流れてまいりました」
暗闇の奥から、別の連絡係が声を潜めて報告してきた。
「腕の立つ者たちですか?」
「はっ。関ヶ原で改易された西軍の生き残りや、徳川の世に不満を持つ血気盛んな者たちばかりにございます。皆、一刻も早く刀を振るい、己の武勇を天下に示したいとうずうずしておりますぞ」
全登は、暗がりの中で皮肉げに口元を歪めた。
「武勇、か。……愚かなことだ」
全登は立ち上がり、油紙に包まれた種子島を一丁手に取った。
「その牢人どもに伝えよ。我らが求めているのは、個人の武勇を誇る古き時代の剣客ではない。剣を捨て、感情を殺し、ただ命じられた瞬間に火蓋を切り、引き金を引く『歯車』になれる者だけを残せ、と」
「は、歯車、ですか……? しかし、それでは彼らの誇りが……」
「誇りで飯が食えるか。誇りで、あの狸の分厚い陣列が突破できるか」
全登の眼差しが、かつての秀家を彷彿とさせるような、絶対的な零度の冷たさを帯びた。
連絡係の男は、背筋に悪寒を走らせて言葉を呑み込んだ。
「名乗りも要らぬ。一番槍の功名も要らぬ。我らが造り上げるのは、備前中納言(秀家)様が関ヶ原で生み出された、あの鉄と鉛の無慈悲な機構だ。それに従えぬ者は、大坂の堀にでも沈めておけ」
「……御意にございます」
男が怯えたように去っていくのを見送りながら、全登は再び静寂の土蔵に一人残された。
徳川の世は、盤石に見える。
だが、秀家は予言した。家康は必ず、大坂城の秀頼公を消しにかかると。
その日が来るまで、全登は己の魂を悪魔に売り渡し、この地下で無数の毒牙を造り続ける。
秀家は今、絶海の孤島・八丈島にいる。
死罪を免れたとはいえ、生涯本土の地を踏むことを許されぬ、地の果ての流刑地。
吹き荒れる暴風雨と、監視の目。与えられたのは、粗末な六畳一間の牢獄だと聞く。
世間の者たちは、かつて五十七万石を誇った大名が、そのような狭く惨めな六畳一間で余生を終えることを哀れみ、あるいは嘲笑しているだろう。
だが、全登は知っている。
あの狂犬の牙は、決して折れてなどいないことを。
あの狭い六畳一間の闇の中で、秀家は毎日、己の肉体を鋼のように鍛え上げ、徳川への憎悪という名の莫大なエネルギーを圧縮し、限界まで発酵させているはずだ。
妻である豪姫からの密かな資金援助を受け、島民を心理的に支配し、誰の目にも触れぬ場所で、必ずや反逆の刃を研ぎ澄ましている。
「……お待ちしておりますぞ、我が主君」
全登は、南の遠い海へ向けて、祈るように呟いた。
「この明石全登、大坂の地下にて、数万の死兵と一万の鉄砲を揃え、閣下が暴れ回るための最高の『死地』を構築してご覧に入れます。……どうか、その六畳の墓標から蘇り、再び我らを、あの血塗られた修羅道へと導いてくだされ」
大坂の町は、今日も泰平の空気に包まれ、人々の笑い声が響いている。
だが、その足元で、歴史の因果を物理的に喰い破るための巨大な顎が、ゆっくりと、しかし確実に開かれようとしていた。
時が満ちるのを、影の忠臣は泥の中でじっと待ち続けている。
すべては、大坂の空を真っ赤に染め上げる、あの大炎上の夜のために。
明日より1日1話の18時10分で更新いたします。
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