閑話:ひ弱な夫が、豊臣の狂犬になるまで
閑話その1です。
関ヶ原で西軍が壊滅したという報せを、遠く加賀・金沢の地で聞いた妻・豪姫の視点となります。
彼女だけが知る、天下を震撼させた「豊臣の狂犬」の脆く優しい素顔と、その狂気を共に背負う女の凄絶な覚悟を描きます
慶長五年、九月。
加賀国、金沢城。
秋の冷たい雨が、鉛色の瓦を絶え間なく打ち据えている。
庭先の木々が風に揺れる音すらも、どこか遠くの戦場で兵たちが上げる悲鳴のように聞こえる、ひどく陰鬱な日だった。
「……申し上げます。美濃国・関ヶ原にて、西軍、完全に瓦解。石田治部少(三成)殿をはじめ、諸将は散り散りとなり、勝敗は完全に決したとのこと」
襖の向こうで、前田家の家臣が泥にまみれた声で凶報を告げた。
同席していた私の兄、前田利長をはじめとする前田家の重臣たちの間に、重苦しい沈黙が落ちる。皆、天下の趨勢が完全に徳川家康という老狸の手に落ちたことを悟り、そして、西軍の主力として戦端を開いた私の夫――宇喜多秀家の末路を思って、一様に顔を暗くしていた。
「……して、備前中納言(秀家)殿は、いかがなされた」
兄の問いかけに、伝令はさらに声を落とした。
「味方が総崩れとなる中、宇喜多勢のみが一歩も退かず、あろうことか内府(家康)様の本陣へ向けて凄絶な突撃を敢行。……数万の敵兵の真っ只中へ単騎で斬り込み、本多平八郎殿と刃を交えたのち、伊吹山中へ敗走したとのこと。深手を負っておられ、十中八九、山中で落命なされているかと……」
その言葉を聞いた瞬間、周囲の者たちは「あぁ」と悲痛なため息を漏らし、ある者は「見事な最期よ」と涙を拭った。
だが、私――豪姫の心は、不思議なほど静かに澄み渡っていた。
涙は一滴も出なかった。
私は、冷え切った畳の上に正座したまま、ただ静かに、口元に微かな笑みすら浮かべていた。
(死ぬはずがありません。あの人が、あの老狸の喉笛を噛み千切る前に、己の命を投げ出すはずがないのですから)
世間の者たちは、私の夫を「戦の天才」「感情を持たぬ冷酷な死神」、あるいは「豊臣に狂わされた狂犬」と呼ぶ。
宇喜多騒動において、長年家を支えてきた老臣たちを一晩で虫けらのように惨殺し、関ヶ原においては味方の小早川や福島を容赦なく物理的に粉砕し、最後は勝敗を度外視して家康の首ただ一つを狙い続けたその異常な姿は、確かに狂鬼そのものだろう。
けれど、彼らは何も分かっていない。
宇喜多秀家という男が、本来は血を見るのも恐れる、ひどく臆病で、優しく、ひ弱な心を持った人間であることを。
それを知っているのは、幼い頃から秀吉様(殿下)とねね様(おね様)の庇護の下、大坂城で共に育った私だけだ。
◇
幼い頃のあの人は、いつも何かに怯えていた。
夜になると決まってうなされ、ひどい汗をかいて目を覚ました。私が背中をさすってやると、あの人はガタガタと震えながら、意味の分からない世迷い言を口にしたものだ。
『……太閤殿下が死ぬ。狸が天下を盗む。豊臣は滅びるんだ。そして俺は、八丈島という果ての島に流されて、五十年も幽閉されて……』
未来の幻視。あるいは、悪夢の託宣。
あの人の魂は、私には到底理解できない「遠い未来の絶望的な因果」の重圧に、常に押し潰されそうになっていた。
戦国武将の子として生まれながら、あの人は争いを好まなかった。合理的な思考と、誰も血を流さずに済む平穏な世界を望む、戦国という血生臭い時代にはあまりにも不釣り合いな、硝子のように繊細な心の持ち主だったのだ。
あのひ弱で優しかった夫の心が完全に壊れ、別の何かに生まれ変わってしまったのは、ある冬の夜のことだ。
恐怖と重圧に耐えかね、大坂城の隅で一人、凍えるようにうずくまっていたあの人の前に、太閤殿下がふらりと現れた。
殿下は、何も聞かずにご自身の温かい陣羽織をあの人に掛け、そして、自らの手で握った不格好な「握り飯」を差し出した。
『泥を啜ってでも生きい。お前のことは、わしが守ってやる』
その言葉を聞いた瞬間、あの人は、子供のように声を上げて泣き崩れた。
己を縛り付けていた絶対的な絶望の運命ごと、殿下の底抜けの温かさが全てを包み込んでくれたのだろう。
だが、それは同時に、悲壮な「呪い」の始まりでもあった。
翌朝から、あの人の瞳から「弱さ」と「恐怖」が完全に消え失せた。
代わりに宿ったのは、殿下への絶対的な恩義と、豊臣の世を脅かすあらゆる不確定要素を排除するための、凍てつくような冷徹な知性だった。
あの人は気付いたのだ。己が「未来の知識」という異常なものを持っているのなら、それを最大限に利用し、自らの人間性を完全に殺してでも、殿下の創る黄金の世を守り抜かねばならないと。
優しく、臆病だった私の夫は、あの夜に死んだ。
代わりに産声を上げたのが、天下の因果を物理的にねじ伏せるための怪物――「豊臣の狂犬」だった。
◇
狂犬の皮を被った夫の覚悟がどれほど凄絶なものであったか、私はこの肌で知っている。
あれは、慶長四年の冬。「宇喜多騒動」と呼ばれた、凄惨な身内の粛清の夜のことだ。
長年宇喜多を支えてきた戸川や岡といった重臣たちの屋敷を強襲し、自らの手で彼らを惨殺して帰ってきたあの人は、大坂の自邸の奥の間で、一人静かに刀の血を拭っていた。
表向きは、逆らう者を躊躇いなく切り捨てる冷酷無比な当主の顔をしていた。
だが、私がそっと背後から近づき、その背中に腕を回した瞬間。
血と硝煙の臭いにまみれたあの人の身体は、かすかに、だが確かに小刻みに震えていたのだ。
「……豪」
血に塗れた手を私の手に重ね、あの人はぽつりと呟いた。
「俺は、地獄へ落ちる。長年尽くしてくれた者たちを、俺は俺の都合で、虫のように殺した。……豊臣を守るためだと言い訳しながら、結局は、自分が安心したいがための殺戮だ」
その声には、冷酷な死神の響きなど微塵もなかった。
ただ、自らの手を血で汚してしまったことへの拭い去れない罪悪感と、本来のひ弱な魂が上げる悲鳴が隠されていた。
「これより先、俺はもっと多くの血を流す。味方も、敵も、無数の命を効率のいい道具として使い潰し、あの狸親父の喉元へ迫るための死の山を築く。……俺は、人の心を捨てる」
振り返ったあの人の瞳には、深い、深い絶望の海が広がっていた。
「お前を、こんな血まみれの泥沼に引きずり込みたくはなかった。……すまない。豪、俺を軽蔑してくれて構わない」
私は、震えるその顔を、両手でしっかりと包み込んだ。
べっとりとこびりついた他人の血が、私の白い小袖を赤く汚したが、そんなことはどうでもよかった。
「何を仰いますか。あなたは、私の夫です」
私は、あの人の冷たい唇に自らの唇を重ねた。
「あなたが地獄へ落ちるというのなら、私も共に参ります。あなたが人の心を捨て、泥を啜り、修羅となって豊臣を守るというのなら……私は、そのあなたの狂気を、この命に代えても愛し抜いてみせます」
あの人は目を見開き、そして、糸が切れたように私を強く、痛いほどに抱きしめた。
血と泥の匂いの中で、私たちはただ静かに、互いの体温だけを頼りに夜明けを待った。
それが、私が狂犬の「共犯者」となった夜だった。
◇
「……豪姫様。お気を確かに。備前殿は、立派に戦い抜かれました……」
家臣の慰めの言葉で、私は我に返った。
金沢城の冷たい雨は、いまだ降り続いている。
私は、静かに頭を下げ、そして凜とした声で家臣たちに告げた。
「ご案じには及びませぬ。私の夫は、決して死んでなどおりません」
兄の利長が、驚いたように私を見た。
「豪よ、しかし……」
「兄上。あの人が、家康ごときに討ち取られるはずがないのです。万が一捕らえられたとしても、あの人は絶対に生き延びる道を選びます。たとえ這いつくばってでも、泥水を飲んででも、あの人は生き恥を晒すでしょう。すべては……次にあの狸の寝首を掻く、その日のために」
そう、あの人は計算しているはずだ。
徳川家康は、西軍の首魁である宇喜多秀家を捕らえたとしても、即座に首を刎ねることはできない。
なぜなら、秀家の背後には、他ならぬこの「前田家」という巨大な外様大名の影があるからだ。
家康は、豊臣恩顧の筆頭である前田家を完全に敵に回すことを恐れ、私と秀家の命を天秤にかけ、最終的には「死罪を免じ、遠島(流罪)」という温情の形をとらざるを得なくなる。
あの人は、私が前田の姫であることすらも、家康の殺意から逃れるための「防刃の鎧」として計算に入れているに違いない。
「……恐ろしい男だ」
兄が、誰にともなく呟いた。
「私は、待つつもりです」
私は立ち上がり、雨の降る庭園を見下ろした。
家康の裁きが下り、あの人が地の果ての孤島へ流される日が必ず来る。
ならば私は、前田の姫というこの立場と財力を最大限に利用しよう。
あの人が流された絶海の孤島へ、監視の目を掻いくぐり、密かに黄金を送り、武器を送り、あの人が牙を研ぎ澄ますための絶対的な「拠点」となってやろう。
世間の者よ、家康よ、せいぜい安心するが良い。
絶海の孤島に押し込められた哀れな敗残兵だと、たかくくって笑っていればいい。
あの人は必ず帰ってくる。
六畳一間の牢獄から、豊臣への狂信と、この私が注ぎ込む莫大な血と黄金を喰らい、天下を焼き尽くす本物の化け物となって、大坂の地へ帰還する。
「待っておりますよ、旦那様」
私は、遠い伊吹の空へ向けて、愛おしい狂鬼の顔を思い浮かべながら、ひっそりと微笑んだ。
私たちの本当の戦いは、これから始まるのだ。
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