第10話:屈辱という名の生
第一章「因果の泥濘を断つ」の最終話となります。
凄絶な突撃の末に敗走を余儀なくされた宇喜多軍。絶望の底、伊吹山中で切腹を望む将兵たちに対し、主人公は戦国武将の常識を根底から否定する「生き地獄」を命じます。
復讐のための屈辱を受け入れる、血の別離をお楽しみください
慶長五年、九月。
関ヶ原の激闘から数日が経過した伊吹の山中は、太陽の光すら届かぬ分厚い雨雲と、骨の髄まで凍りつくような冷雨に支配されていた。
俺たち宇喜多軍の敗残兵は、道なき獣道を這いつくばるようにして西へと逃げ延びていた。
一万七千を数えた精強な軍勢は、家康本陣への特攻と、その後の凄惨な退却戦によって完全にすり潰され、今や俺の周囲に付き従う者は数百名にも満たない。
皆、一様に幽鬼のような有様だった。
甲冑はひしゃげて泥にまみれ、武器は折れ曲がり、全身に受けた刀傷や鉄砲の弾傷からは、膿と悪臭が漂い始めている。食糧などとうに尽き、兵たちは道端の泥水をすすり、木の根や虫を咀嚼して辛うじて命を繋いでいた。
俺自身も例外ではない。
秀吉様から賜った黄金の陣羽織は、自らの血と敵の返り血、そして幾重にもこびりついた泥によって、すでに元の色が判別できないほどの黒ずんだボロ布と化していた。右脇腹には槍で抉られた深い傷があり、一歩足を踏み出すごとに、焼け火箸を突っ込まれたような激痛が脳髄を駆け巡る。
「……閣下。もう、歩けませぬ。追手の声も、すぐそこまで……」
ふらふらと歩いていた若い兵士が、ついに力尽き、ぬかるみの中に倒れ込んだ。
彼は、俺が手塩にかけて育て上げた「児島党」の生き残りだった。顔の半分は火縄銃の暴発で焼け爛れ、残った片目からは、絶望と疲労の色が色濃く滲み出している。
「これ以上は、無様に敵の手に落ち、嬲り殺しにされるだけです。……我らは、十分に戦いました。関ヶ原において、宇喜多の武勇は天下に轟いたはず。どうか、ここで腹を切るお許しを……ッ」
その言葉を皮切りに、周囲を歩いていた数十名の兵たちが、次々とその場に膝をつき、短刀や折れた脇差を震える手で抜き放った。
彼らの瞳には、死への恐怖はない。ただ、これ以上の屈辱に耐えられないという悲痛な哀願と、武士としての最後の「名誉」を守りたいという、戦国時代特有の美学が宿っていた。
戦に敗れ、主君が逃げ延びる見込みがないのであれば、潔く自刃して果てる。それが、この時代の武士にとっての常識であり、最も美しいとされる死に様だ。
俺は、無言のまま倒れ込んだ若い兵士の前に歩み寄り、立ち止まった。
彼は泣き笑いのような表情を浮かべ、自らの腹に短刀の切っ先を突き立てようとした。
その瞬間。
ガンッ!! という鈍い音と共に、俺は泥まみれの足で、兵士の顔面を容赦なく蹴り飛ばした。
「がはッ……!?」
兵士は泥水の中を数メートル転がり、折れた歯と血を吐き出した。
周囲の将兵たちが、信じられないものを見たというように息を呑む。
俺はゆっくりと刀を抜き、倒れた兵士の首元に、冷え切った切っ先を突きつけた。
「誰が死んでいいと言った」
俺の声は、自分でも驚くほど低く、そして絶対的な零度の殺意を帯びていた。
兵士が、恐怖と混乱に目を見開く。
「閣、下……? なぜ、です……。我らはもはや、逃げ切ることは……」
「武功を立てたから満足か? 名誉を守って死にたいか? 綺麗に腹を切って、あの世で父祖に褒めてもらいたいか?」
俺は、心の底からの軽蔑と怒りを込めて、彼らを睨み据えた。
「ふざけるな。……てめえらの安い自己満足のために、命を捨てるな」
俺の言葉は、戦国武将としての威厳を完全にかなぐり捨てた、四百年後の現代人としての、いや、秀吉の狂犬としての剥き出しの呪詛だった。
「名誉? 誇り? そんなものは、俺があの狸の喉笛を喰らい千切るための何の役にも立たない。お前たちがここで死んで、誰が喜ぶ? 家康だ。あの老狸が、豊臣の忠臣がまた一つ消えたと腹を抱えて笑うだけだ!」
俺は刀を泥に突き立て、周囲の座り込んでいる兵たちの胸倉を次々と掴み上げ、無理やり立たせた。
「俺たちは負けたんだ! 小早川のクズを処理し、福島を挽き肉に変えても、最後は数の暴力に押し潰されて、無様に尻尾を巻いて逃げ出した敗残兵だ! その絶対的な『事実』を、死んで有耶無耶にしようとするな!」
雨が激しさを増し、俺の顔にこびりついた血泥を洗い流していく。
俺の視界は、怒りと、それ以上の凄絶な執念で赤く染まっていた。
「生きろ。……泥を啜り、草の根を噛み、這いつくばってでも生き延びろ。生き恥を晒し、天下中の人間から『無様に逃げ延びた腰抜け』と嘲笑されようとも、絶対に命を捨てるな。それはお前たちの命じゃない。……俺が、あの狸親父を殺すための武器だ」
兵たちは、俺の狂気に完全に圧倒され、震えながら言葉を失っていた。
名誉ある死すら許されない。ただ、底なしの屈辱を味わいながら生き延びろという、悪魔の命令。
だが、俺の瞳の奥で燃える黒い炎を見た彼らは、ゆっくりと、短刀を鞘に収め始めた。死ぬことよりも、俺の命令に背くことの方が恐ろしいと、本能で理解したのだ。
「……閣下。御意にございます」
傍らでその光景を見ていた明石全登が、自らの折れた腕を庇いながら、深く、深く頭を下げた。
彼は全てを悟っていた。俺が、この先の途方もない復讐の道筋を、すでに冷徹に見据えていることを。
「全登。……お前は、ここで俺と別れろ」
俺の言葉に、全登が弾かれたように顔を上げた。
「な、何を仰いますか! 私に、主君を見捨てて逃げろと!?」
「そうだ。生き残った兵を連れて、山を下りろ。農民に化けるか、商人に紛れるか、キリシタンの伝手を使って地の底に潜伏しろ。……そして、大坂へ行け」
俺は全登の肩を、血まみれの手で強く掴んだ。
「家康は遠からず、豊臣の天下を完全に奪い取るために動く。大坂城にいる秀頼様と淀殿を、必ず消しにかかる。五年後か、十年後か、十五年後かはわからない。だが、あの狸は絶対に牙を剥く。……お前はそれまで、地の底で息を潜め、来るべき日のために兵と武器を集め続けろ」
「閣下は、いかがなされるおつもりですか!?」
「俺は、家康の裁きを受ける」
全登が、絶句した。
西軍の主力であった俺が捕らえられれば、本来ならば斬首は免れない。
だが、俺には現代の知識がある。史実において、宇喜多秀家は島津家への潜伏を経て、妻・豪姫の実家である前田家などの助命嘆願により、死罪を免れて八丈島へと流罪になっている。
家康は、前田家や島津家といった巨大な外様大名を完全に敵に回すことを避けるため、俺の首を刎ねることができないのだ。
「俺という最大の標的が生き恥を晒して家康の前に引きずり出されれば、お前たち残党への追及は必ず緩む。……全登。俺は死なない。絶海の孤島に流されようが、四肢をもがれようが、必ず大坂の陣に舞い戻る」
俺は、全登の目を見つめ、ニヤリと、死神のような笑みを浮かべた。
「俺が再び豊臣の旗を揚げるその日まで、お前は俺の『牙』を大坂で研ぎ澄ませておけ。……これは、命令だ」
全登は、大粒の涙を泥まみれの顔に溢れさせながら、泥水の中に両手をつき、額をこすりつけた。
「……御意、御意にございますッ! この全登、命に代えましても、大坂の地で閣下をお待ち申し上げております!!」
全登と、生き残った兵たちが、声を殺して泣き崩れる。
俺は彼らに背を向け、一人、山道を下り始めた。
これより先は、歴史の勝者である家康の前に引きずり出され、天下の嘲笑を浴びる、極限の屈辱の道だ。
五十七万石の大大名から、六畳一間の罪人への転落。
だが、俺の心に絶望はなかった。
八丈島。
そこは、俺が老狸の喉笛を噛み千切るための軍艦を造り、肉体を鍛え上げ、純度百パーセントの狂気を発酵させるための、最高の「要塞」になるだろう。
『待っていろ、家康。……俺の本当の反逆は、ここから始まる』
降り続く冷雨の中、豊臣の狂犬は、これから始まる数十年の地獄を前にして、ただ一人、心底楽しそうに笑っていた。
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