トリックスター
音は、なかった。
否、あったはずなのに、星風の耳には届かなかった。
どこか遠くで何かが倒れるような音と、しぶきのような生々しい水音。
それでも彼女の脳は、それを“現実”と認識するのに時間がかかった。
――さっきまで、すぐそこにいたのに。
森園由梨花。
さっきまで笑っていた。
幻影を退けて、誇らしげに刀を掲げていた。
「心臓に悪いわよ」なんて、冗談を言っていた――。
その彼女が、目の前で――“肉の塊”になっている。
体が、中央から縦に割れていた。
まるで紙を裂くように、すっぱりと。
切断面は異様なまでに滑らかで、そこから滲み出る鮮血が、床に赤黒く広がっていた。
制服が、皮膚が、内臓が、床に落ちる音だけが妙に鮮明だった。
だが、それを見ている自分自身が“今、何を見ているのか”がわからなかった。
(……え?)
思考が、止まる。
目の焦点が合わない。
さっきまで目の前にいたはずの彼女の姿が、もうそこにはなかった。
ただ、斬られた断面と、滴る血があるだけ。
「……森園……さん?」
星風の口から、震えるように名が漏れた。
返事は、ない。
その静寂を破ったのは、乗客の叫びだった。
「きゃああああああああああっ!!」
一人の悲鳴が、炎に火をつけたように広がった。
「ひっ……なんだ!? な、なにが起きたんだ!?」
「逃げろ!! 逃げろおおおおっ!!」
「うわ、うわあああ!!」
乗客たちが、パニックに陥る。
床を蹴る音、座席をなぎ倒す音、誰かが転び、誰かが泣き叫ぶ。
誰もが本能で「ここは死地だ」と悟っていた。
秩序は消え去り、生存本能だけが支配する空間と化した。
誰もが、森園の亡骸を「見てはいけないもの」として避けた。
視界に入った瞬間、恐怖が限界を超え、理性が崩壊していた。
星風だけが、その場から動けなかった。
喉が詰まり、足がもつれ、視界が揺れる。
(うそ……こんなの、うそ……)
目を覆おうとして、手が震えてできなかった。
嗚咽が込み上げてくる。
でも、泣いたら本当に“死”を認めてしまう気がして、泣くこともできなかった。
“あの森園さん”が。
冷静で、知的で、頼れる先輩が。
たった一瞬で、血まみれの肉片に変わってしまった。
「う……そ……だ……」
呟きは、誰にも届かない。
目の前の現実に、星風の意識はついていけなかった。
逃げ惑う乗客。
その光景を、まるで演劇の観客のように見つめている一人のピエロな男。
異様なまでに冷静で、愉悦に満ちたその微笑みだけが、まるでこの惨劇を楽しんでいるかのようだった――。
「てめぇ……っ!!」
鷹野の怒声が、血まみれの車両に響き渡った。
その声は怒りというより、悲鳴に近かった。
星風が呆然と立ち尽くす中、鷹野は男に向かって怒りのままに突進する。
足元には血が広がっている。仲間の――森園の血だ。
その上を踏みしめながら、それでも鷹野は迷わず駆けた。
「ふざけんな……ふざけんなあああああッ!!」
顔は憤怒に歪み、全身の筋肉が怒りに震えていた。
握り締めた武装刀の柄が軋む。
今にも崩れそうな足取りの中、それでも、彼は止まらなかった。
「森園を……よくも……よくもッ!」
怒りと悲しみと、自責と後悔のすべてを刃に乗せて、振り下ろした。
目の前の男は、ただ笑っていた。
だが――
男は軽く、右手の指を一本立てただけだった。
そのまま、まるで煙を払うかのように、「ピッ」と、空中を弾いた。
――その瞬間だった。
ズシャッ。
何かが切れる音がした。
鋭利な刃物が、骨も肉も神経もすべてを一瞬で断ち切ったような感触。
鷹野の右腕が、肘から先ごと吹き飛んだ。
「――え?」
一瞬、何が起こったのかわからなかった。
振り下ろしたはずの右腕がない。
視界の端で、何かがくるくると宙を舞っていた。
血が、花のように車内へ散っていく。
そして次の瞬間――
「が……ああああああああああああッッ!!」
激痛が脳を貫き、鷹野は膝をついた。
抑えようとした左手に、噴き出す血が叩きつけられる。
呼吸が乱れ、全身が痙攣する。
倒れ込みながらも、なおも彼は吠えた。
「てめぇ……一体何者だ……っ!!」
男は、穏やかな声で答える。
「いやあ、ごめんごめん。本気じゃなかったんだけどなぁ。ちょっと、拍子抜けしちゃってさ」
足元に倒れた鷹野を見下ろすその顔には、まったく罪悪感がなかった。
「怒りって、いいスパイスになるけど、加減って難しいんだよなぁ。次から気を付けよう」
ピエロの男が、まるで他人事のように呟いた。
その横には、右腕を失い、血を流しながら倒れ込む鷹野の姿がある。
その前には、二つに裂かれた森園の亡骸。
――そして、立ち尽くす星風。
彼女の瞳は、焦点を失っていた。
鼓動が激しく鳴り、喉がカラカラに乾いている。
指先が震え、視界が波打つ。
(まって……なに、これ……なにが……起きてるの……?)
自分の思考が自分のものでないように感じる。
耳の奥では、森園の笑い声が残響のように繰り返されていた。
そしてその声が突然ぶつりと途切れ、真っ赤な死体がフラッシュバックのように脳裏に焼き付く。
「い……いや……」
喉の奥からかすれた声が漏れた。
それは、祈るような、縋るような、小さな否定だった。
だが目の前の現実は、残酷なまでに静かに、そして確かに――彼女に“死”を見せていた。
恐怖が、ようやく現実として身体を支配しはじめる。
「ひっ……あ、あ……っ」
星風は後ずさる。
背中が椅子にぶつかり、身体が跳ね返るように震えた。
指が、足が、口が、すべて別々に震えている。
泣きたかった。
叫びたかった。
でも、声が出なかった。
(殺される……)
それだけが、はっきりと脳に浮かんだ。
殺される。
次は自分だ。
この化け物は、森園を、鷹野を、そして――自分を。
「……やっと、気づいた?」
ぬるり、とした声が、すぐ目の前から聞こえた。
一瞬にして星風との距離を詰めると、顔を覗き込むようにこちらを見ていた。
白塗りの顔。
仮面のように貼りついた笑顔。
おどけた化粧の奥に潜む、悪意と狂気の目。
「怖いよねぇ……うん、そうだよねぇ。普通、そうなる」
男は、ゆっくりと手を伸ばす
指先が、星風の頬に触れそうになる。
「でも、大丈夫。痛いのは、一瞬だけだよ」
その声は優しかった。
けれど――だからこそ、気味が悪かった。
星風の全身が硬直する。
体温が指先から抜けていく感覚。
冷たい汗が背中を流れ、口がカタカタと震えた。
「や……やめて……やめてください……っ……」
必死に声を出した。
けれど、それはあまりに弱々しく、誰にも届かないかのようだった。
「ふふふ、いい声だ」
男は、星風の目を覗き込むように顔を寄せた。
「……その顔。ゾクゾクするね。もう助からないと知ったその絶望的な眼差し。なんてたまんないんだろう」
その瞬間だった。
ブチン、と何かが切れた。
それは、精神の糸か、膀胱の抑えだったのか――
ぬるり、と温かい感触が星風の太ももを伝った。
「あ……」
彼女自身も、すぐには気づかなかった。
けれど、スカートの内側から染み出た液体が、床にぽたりと落ちたとき、
それはあまりにも“決定的”だった。
失禁していた。
恐怖が限界を超え、身体が完全に崩壊していた。
「うわぁ……まさか漏らすとはね。いや、でもそれもまた、リアルでいいよ。ほんと、舞台の上の女優みたいだ」
男は、楽しげに拍手をする。
その姿は、あまりに異常だった。
星風は、崩れ落ちるようにその場にへたり込んだ。
腰が抜けて立てない。逃げる事も出来ない。
涙が溢れ、震えながら自分の膝を抱きしめる。
「いや……いやぁ……こないで……いやぁ……っ……!」
嗚咽が、叫びが、恐怖が、すべて混ざり合い、声にならない声が響いた。
――怖い、怖い怖い怖い
死にたくない死にたくない死にたくない―――!!
その瞬間、彼女は叫んでいた。
「誰か――誰か助けてええ!!」
星風の悲痛な叫びが車内にこだまする。
しかし、その声に応えてくれる者は――誰もいない。
「いいね……その絶望の声。最高のフィナーレだ」
ピエロの男はその声を愉快そうに聞きながら、ゆっくりと口角を吊り上げた。
「――じゃあね!」
男が指を鳴らそうと、ゆっくりと腕を上げ――
――次の瞬間。
「――重力断罪」
その身体が、地面に大きく沈んだ。




