恐怖の象徴
その瞬間、乗客たちが一斉に凍りついたように動きを止める。
そして、前方の車両から響いてきた重い音。
何かが叩き壊されるような音とともに、機関室で車掌が何かを叫んでいるのが聞こえた。
「……どうやらこの任務、簡単じゃなかったようね」
森園が声を震わせながらつぶやく。表情は険しく、呼吸が少し荒くなっている。鷹野も、幻影という言葉に緊張が走り、刀を握りしめた。彼らの表情には、幻影と対峙したことのない者特有の恐怖と不安がありありと浮かび上がっていた。
車内が混乱と緊迫に包まれ、前方車両から次々に悲鳴が響き渡った。星風はその場に立ち尽くし、両手で耳を塞ぐようにして顔を背けたが、その震える指先は刀の柄に手を掛け、なんとか冷静さを保とうとしているのが伝わってきた。
そして、彼女たちが目を向けたその先に、ついに黒い影が姿を現した。
――幻影。
その姿は、悪夢そのものだった。
黒くうねる霧をまとい、影の中からにじり出るように現れたその体は、見る者の理性を削る。
赤く光る双眸がゆらりと星風たちを見据えた瞬間、空気が重く沈みこむ。
喉の奥から響くような唸り声。
それは、意思でも怒りでもなく、「人間を狩る」ことが本能であると告げるようだった。
「おいおいおい……! 幻影避けの護符は!? どこ行ったんだよっ!」
鷹野が、冗談めかして叫ぶ。
その声はいつものように軽く、場を和ませるための彼らしい振る舞いにも見えた。
けれど星風は気づいていた。
彼の声が、少しだけ裏返っていたことに。
鷹野は、自分のことを「戦闘慣れしてる」と言っていた。
経験豊富で、いざというとき頼れる存在。
しかし、それはあくまで模擬戦での話。
実戦で幻影を見たのは、3人共今日が初めてなのだ。
彼の肩越しに見える手は、わずかに震えていた。
星風自身も、動けなかった。
心臓の鼓動が耳を打ち、足が地面に縫いつけられたように感じる。
これまでの訓練や模擬戦が、今目の前にいる“現実の幻影”の前では、まるで紙の盾のように脆いと悟る。
「星風、下がってろ!」
鷹野が怒鳴った。
その声音には、恐怖を必死に押し殺すような、張り詰めた緊迫感があった。
「まさか、こうも早く実戦の日が来るとは思ってもいなかったわ……!
森園が前に出る。
刀を抜き、幻影と対峙するが、その刃先はわずかに揺れている。
幻影は、ただじっと彼らを見ていた。
だがその沈黙が、叫び声よりも恐ろしく感じられる。
「……くそっ、来るぞ!」
その瞬間、幻影が跳んだ。
信じがたいほどのスピードだった。
黒い稲妻のように地面を裂き、一直線に鷹野と森園に襲いかかる。
鷹野が即座に身を引いた。
だが避けきれず、幻影の鋭利な爪が彼の肩を裂いた。
「っ……ぐっ!」
鮮血が宙を舞う。
その場に膝をつきそうになるのを、歯を食いしばってこらえる鷹野。
傷の痛み以上に、自分がまるで通用しない現実が、彼の目に焦りを浮かべさせていた。
「効かねぇ……こいつ、硬すぎる……!」
刀を振るっても、幻影の外殻には深く入らない。
斬撃はかすり傷をつける程度で、むしろ幻影の怒りを煽るだけだった。
森園が背後に回り込む。
二人でタイミングを合わせて同時に攻撃を仕掛けるが――
幻影は動きを読んでいた。
獰猛な咆哮をあげながら、体をひねり、森園へ跳躍。
その爪が、森園の胸をかすめる。
「ぐあっ……!」
吹き飛ばされた森園が、背後の木に激突し、崩れ落ちた。
鈍い音が響き、彼女の身体がずるりと地面に滑り落ちる。
「……っ…………」
倒れたまま呻く彼女に、幻影がゆっくりと歩を進める。
爪の先から黒い霧が滴り、口の奥から唸り声のような咆哮が漏れている。
それは、まるで“狩り”を終える獣の儀式のようだった。
動け、動け動け動け―――。
星風の頭の中で、叫びが渦巻いていた。
なのに、手も足も、体のどこも動かなかった。
恐怖が神経を握りつぶし、視界が揺れ、ただ森園が殺される光景だけがスローモーションのように目に焼きついていく。
──その瞬間だった。
「おらあああああああああッ!!」
鷹野が、叫び声とともに幻影に飛びかかった。
彼の手には、白く輝いた武装刀。
「させるかよ、この化け物がッ!!」
鷹野の一撃が、幻影の頭部に直撃。
その刀身から青白い火花が散っていた。
硬質な表皮をこじ開けるようにして刀がめり込み、幻影の動きが一瞬止まる。
その隙を逃さず――
「……さっきはよくもやってくれたわねこの化け物……!」
森園が立ち上がっていた。
脇腹を押さえながら、口元から血を流し、それでも怯まず幻影の背後を取っていた。
その手に握られた武装刀が、うなりを上げて心臓めがけて突き出される。
「これで終わりよっ!!」
ズガァッ――!!
幻影の心臓部に刃が突き刺さると、雷鳴のような音とともに黒い霧が爆ぜた。
2人の刀が頭部と心臓の核に届いたのだ。
赤黒く脈打っていた“幻影のコア”が破裂するように砕け、体全体が一気に崩壊を始める。
鷹野が頭部から刀を引き抜き、森園の刃と重なるように核を斬り裂いた瞬間、幻影が獣のような絶叫をあげた。
その声は、空間を震わせるほどの絶望の咆哮。
だが、それは断末魔に変わり、ついには音もなく、幻影の身体は霧となって四散した。
辺りに残るのは、湿った空気と、3人の荒い呼吸音だけ。
鷹野が膝をつき、顔をしかめながら呟く。
「……ハア…ハア……なんとか、やったぜ」
森園も、息を吐きながら隣に崩れ落ちる。
「全く、心臓に悪いわよほんと……」
星風はその場にへたり込みながら、ようやく体の震えが止まったことに気づいた。
恐怖に凍っていた時間が、ようやく溶け出していた。
しばらくして――
木々の向こうから、数人の人影が小走りで駆け寄ってきた。
先ほどまで避難していた一般の乗客たちだ。
「た、助かった……! 本当にありがとう!」
「まさか幻影が現れるなんて……君たちがいなかったら……!」
彼らの顔には、恐怖と安堵が混じり合っていた。
中には涙ぐむ者もいたが、その視線は確かに3人に向けられ、純粋な感謝を送っていた。
森園が照れくさそうに手を振る。
鷹野は肩をすくめて「死ぬかと思った」と苦笑する。
星風だけは、彼らから目をそらしていた。
そして、その人混みの後方――
一人、静かにその様子を観察する瑠衣の姿があった。
戦闘が始まった瞬間から、幻影の出現、3人の対応、判断、動揺、全てを――一言も発さず、瞬きすら少なく、じっと見ていた。
瑠衣は、ざわつく乗客たちの中で一歩後ろに引き、静かに3人の様子を見ていた。
あくまで“避難していた一人”として振る舞っていたが、その目に宿るのは明確な評価者の眼差しだった。
幻影の出現に対し、初動の反応はやや遅れたが、
鷹野と森園の最終的な判断力と連携、そして核を確実に破壊した決断力は評価に値する。
経験不足を補う“現場での咄嗟の判断”という意味では、悪くない動きだった。
とくに鷹野――
戦闘経験があると豪語していた割には、明らかに虚勢だった。
だが、それを補って余りある度胸と判断力は、生き残れる資質として見込みがある。
森園もまた、致命傷を避けながら立ち上がり、冷静に後ろを取った判断は優れていた。
技量に粗はあるが、基本的な体の使い方に無駄が少ない。
しかし――星風。
彼女だけは、完全に体が凍りついていた。
幻影が目の前に現れてから、完全に腰を抜かしていた。
(――あれは、長くはもたないだろう)
精神的な耐性の問題。
訓練では判断できない、「死」と隣り合わせの場面での本質。
いかに訓練を積んでいても、本番で動けない者は、生き残れない。
(まぁ――彼らは戦力としてはだめだな)
先程の幻影――、あれは幻影の中でも最もランクの低い最下級幻影だ。
その幻影に対し、2人がかりでやっとではとてもではないが混血新人類と戦う事はできない。
そして、結論付けた瑠衣は、幻影発生の原因を探るべく、その場を後にした。
◇
幻影が倒されて安堵した人々は散っていった。
戦いが終わり、森に静けさが戻りつつある。
人々はそれぞれの席や荷物の元へと戻り、日常に引き戻されるように整然と動き出していた。
誰もが胸を撫で下ろし、「危機は去った」と思っていた。
そのとき――
「いやあ、見事だったよ、本当に見事!」
突如、場の空気を裂くように、陽気な拍手の音が響いた。
パチパチパチ。
ゆっくりと、一歩一歩、拍手をしながら近づいてくる男がいた。
艶やかな黒のシルクハットと燕尾服。
だが、その顔には不自然なほど派手な白塗り。
唇の端が吊り上がり、まるでピエロの仮装をしているかのようなおどけたメイクが施されていた。
その異様な風貌に、辺りの空気が一変する。
鷹野が目を細めた。
「……誰だ、あんたは」
明らかに不審な男に対し、警戒をあらわにする鷹野。
「いやいや、怖がらなくていい。僕はただの通りすがりの“観客”さ。キミたちの奮闘、実に興味深かったよ」
男の声は妙に柔らかく、抑揚も礼儀もある。
だが、その“丁寧さ”が逆に不気味だった。
目の奥が笑っていない。どこか“壊れた狂気”がにじんでいた。
星風が一歩下がり、森園が彼女の前に立つ。
鷹野はすでに手を柄に添えていた。
「まあまあ、そんな警戒しないでくれ。僕は敵じゃない。むしろ、称賛を贈りたいだけなんだよ」
男が、にこりと微笑む。
その顔はまるで人形のように歪みのない笑顔だった。
そして、その顔は森園へと向けられる。
「特に――君だよ、森園さん。あの体勢から立ち上がって、見事な一突き。実に素晴らしかった」
森園が眉をひそめる。
「もったいぶってないで、はっきり言ったらどうかしら?」
すると、男はまたもにやりと笑った。
今度は星風へと顔を向ける。
「良かったねぇ、君。ほら、さっきは怖かっただろう? でも無事で、ホッとしたよね。嬉しいよね、みんなで助け合って……」
「な、何が言いたいんですか……?」
「いやいや、ハッピーエンドに終わってよかったね、と僕は言っているのさ」
男はゆっくりと指先を持ち上げ、まるで舞台上の俳優のように一礼する。
そして、こう言った。
「――でもさ、このまま“全員無事”で終わるなんて、つまらないじゃないか。ねぇ、君たちも思わない?」
にたりと笑ったその顔は、喜劇の仮面のように滑稽で、だが底知れない悪意が滲んでいた。
「だからさ――僕は、ちょっとだけスパイスを加えてあげることにしたんだ」
男が右手の指を軽く持ち上げる。
パチン――と、乾いた指音が空気を裂いた。
その瞬間、森園の動きが止まった。
「……え?」
その一言が最後だった。
彼女の体の中央、胸元から下腹部にかけて、一本の細い“線”が浮かび上がる。
それは血ではなかった。まるで光の線のように淡く、しかし確かにそこに“裂け目”があった。
「ま……さか……っ」
星風の叫びは間に合わなかった。
次の瞬間、彼女の体が――真っ二つに裂けた。




