待ち焦がれた日常
炊きたての白米。湯気の立つ味噌汁。焼き魚に、漬物、卵焼き。
机に並べられた朝食は、どこか懐かしい――心の奥をくすぐるような温もりに満ちていた。
「いただきますっ!」
妹・瑠那の元気な声が食卓に響く。
その明るさが、この小さな家をまるごと包み込んでいるようだった。
(……これが、かつての“日常”か)
箸を握りしめながら、瑠衣は思わず胸の奥が熱くなるのを感じた。
味噌の香り、白米の甘み、家族の声。
どれも当たり前だったはずなのに、いまは奇跡みたいに感じる。
「でね、お母さん。お兄ちゃん、今朝泣いてたんだよ! 目が真っ赤だったの!」
「えっ、ほんと? あらあら、緊張してるのねぇ。もうすぐ入隊だものね」
「……おいおい瑠奈。変な事言うなって。俺が泣くわけないだろ?」
からかう母に、瑠衣は照れ笑いを浮かべた。
父は湯呑を置き、静かに頷く。
「だが、誇りだぞ。治安特殊精鋭部隊《SEU》への配属は簡単なことじゃない。よくやったな、瑠衣」
幻影を抹殺するために、大和皇国が作った組織――治安特殊精鋭部隊。
Special Enforcement Unitが正式名称であり、通称SEUとも呼ばれている。
その中身は人智を超えた力を持つ人間――新人類で構成されており、詳細な隊員数は不明だが、幻影軍の見立てでは約2000名程度と見積もられていた。
正史では、瑠衣はレベリスとして治安特殊精鋭部隊と激戦を繰り広げた。しかし、今回は違う。
(いや、待てよ――)
父の言葉に、箸の動きが止まる。
“SEU配属の日”――それは、あの忌まわしい日と同じだった。
胸の奥がずきりと痛む。
「……母さん。今日って……何日だっけ?」
「え? どうしたの急に。ほら、今日がSEUに行く日じゃないの。昨日瑠衣が見回りを終えた後、皆で記念写真撮ったでしょ?」
――カタン、と音がした。
瑠衣の箸が小さく揺れる。
彼の背中を冷たい汗が伝った。
(……まさか。今日が……)
喉が鳴った。
心臓が跳ね上がる。
あの日、空が裂け、幻影が降った――あの“始まりの日”。
もし、そうだとすれば村の皆が危ない。
「……外だ。すぐに皆をシェルターへ避難させないと」
「え? 避難? どういう――」
「早くっ!!」
思わず叫んでいた。
母が驚いて立ち上がる。その表情を振り切って玄関へ向かう。
「おい、瑠衣!どこへ行くんだ!」
父が立ち上がる。
その声に振り向きざま、瑠衣は短く言い放った。
「父さん、今すぐ母さんと瑠那を連れてシェルターに避難させろ! 一刻も早くだ!」
目を見れば、伝わる。
その一瞬の間に何かを悟った宗一はすぐに頷いた。
「……分かった。だが後でちゃんと事情は説明しろよ」
「ああ!」
元SEU隊員の勘が働いたのだろう。
彼は草履を突っかけ、通りへ走り出していく。
「母さんと瑠那も父さんの言う事を良く聞け!わかったな」
「ちょ、ちょっと瑠衣!?」
「お兄ちゃん!?」
母の声が背中に届いたが、瑠衣は振り返らず戸を蹴って飛び出した。
◇
村の通りはまだ静かだった。
朝市の準備をする者、畑へ向かう者。
平和そのものの風景。
――だが、それは嵐の前の静けさだった。
「みんな、聞いてくれ! すぐにシェルターへ避難を!」
叫ぶと、人々が振り向く。
「義影の坊ちゃん? どうしたんだい、そんな顔して」
「何があったの?」
「とにかく! 外にいちゃ危険だ! シェルターの中に隠れて、早く!」
声が裏返るほど叫ぶ。
最初はぽかんとしていた村人たちも、その真剣な目に圧されて次第に動き始めた。
「おい、子どもたちを呼べ!」
「家畜は放せ、時間がないぞ!」
「老人達を優先させろ!」
騒然とし始める通り。
次々と近隣のシェルターへ避難していく中、瑠衣は息を整えようとした。
(まだだ……まだ間に合う)
過去の記憶では、このあと突然幻影が現れ、村を血の海へと変えた。
でも、いまは違う。
もう“来る”と分かっている。
なら、守れる――今度こそ。
「瑠衣!」
父が走って戻ってきた。
息を切らせながら叫ぶ。
「父さん!? なんでここに!」
「お前1人じゃ、避難の誘導に限界がある。だから、母さんと瑠那を先にシェルターへ避難させ、村人達の誘導をしていた。何、父さんも元はSEUだからな。瑠衣だけにさせるわけにはいかんだろう」
「ったく……父さんはもう足が悪いんだから無理するなよ」
――その時だった。
ズズ……ン、と地面が震えた。
耳鳴りのような低音。
風が止み、空気がぴんと張り詰める。
――嫌な気配。
「おいおい、瑠衣。まさかこいつは――」
視線を上げる。
森の向こう。
黒い靄が、立ち上がっていた。
「ああ。そのまさかだよ」
靄はゆっくり、ゆっくりと形を成す。
その姿形は一見すると巨人のようだが、腕は異様に長く、体はまるで粘土のように歪んでいる。
赤く鋭い瞳孔がこちらを見ており、獲物を見つけたかのように細く吊り上がった。
「……幻影」
見間違えるはずがない。
人を喰らう、闇そのもの。
「下級幻影……。不幸中の幸いってところか」
幻影にも階級が存在し、低い階級から順に下級、中級、上級、最上級にランク付けされている。
下級の知能指数は低く、ひたすら本能に従い殺戮を繰り返す。敵味方の区別も付かないため、正史ではレベリスも襲われることも多かった。
こいつを統率できるのは、恐らく幻影皇帝だけだろう。
しかし、その強さはでたらめであり普通の人間にはまず勝ち目はない。
殺すには、頭と心臓にある核を潰さなければなく、しかも同時に潰さなければ、1分以内に再生する。
しかもこの核が異常に固く、あらゆる兵器が通用しなかった。
それ故に幻影が出現してから新人類が誕生するまでに人類は滅亡しかけたのだ。
下級幻影と言えど、新人類で無ければ倒す事はほぼ不可能。一方的に虐殺されるだけだ。
そして、この村でまともに幻影と戦える戦力は瑠衣と父しかいない。
つまり、ここで倒さなければ村は崩壊する。
「来るぞ、父さん!」
言うが早いか、幻影が咆哮した。
空気が震え、鳥たちが一斉に飛び立つ。
「母さんたちのところへ戻れ!」
「いや、俺も――」
「駄目だ! 今の父さんじゃ戦えない!」
その言葉に、父は苦く唇を噛む。
病で弱ったその手が、空を掴むように震えていた。
「お前はどうする!」
「……俺はこいつと戦う」
レベリスとしての経験があるからなのか、自分でも驚くほど冷静にその言葉が出てきた。
「無茶だ!お前はまだSEUの戦闘経験を積んでいない!幻影とまともに戦おうと思ったらSEUの隊員でも最低3か月はかかるんだぞ!?」
「わかってる!けどこいつをこのままにしていたら村は全滅だ。なら俺は――最後まで諦めない」
瑠衣が言うや否や、幻影が地面を蹴った。
黒い体が跳ね上がり、音のような速さで迫る。
土煙と共に、幻影の腕が振り下ろされた。
普通の人間ならば視認すらできず、瞬く間に殺されてしまうだろう。
だが――。
「――遅い」
瑠衣の体は反射的に動いた。
滑るように地を蹴り、幻影の腕の下をくぐり抜ける。
刀を抜き放ち、光の残像を引くように横へ払う。
刃が幻影の腕を斬り裂いた。
ねっとりとした霧が舞い、幻影の体がぐらりと傾ぐ。
「――フンッ!」
そのまま踏み込み、今度は胸の中心を突き抜ける。
硬い手応え。胸の核を貫いた感触があった。
『グアッ……アアァッ!!』
幻影が明らかに苦悶の声をあげ、隙が生まれた。
心臓の核が再生するまでには約1分。
その間に、頭の核を潰せば絶命する。
瑠衣は冷静に刀を抜くと、幻影の脳天めがけて刀を振り下ろす。そうはさせまいと、幻影が頭を守るために手で覆うが、それを貫通し、頭の核を貫いた。
『グアアアアアアアァァッ!!』
幻影が叫び声を上げたかと思うと、そのまま崩れ落ちていった。
やがてそれは黒い液体となり地面を腐食させていった。
静寂。
息を吸い、吐く。
心臓は落ち着いている。
(……今の動きは)
目の前の光景に、信じられない感覚があった。
幻影の動きも呼吸も、すべて“読めた”。
まるで何度も戦ったことがあるように。
背後で、父が呆然と立ち尽くしている。
「瑠衣……お前まさか倒したのか?」
宗一が言いかけた瞬間。
彼の背後にある木々が黒く“うねり”、地面が歪む。
そして木々の裂け目から、黒い幻影が這い出してきたのだ。
二体目。
さっきよりも少し小型だが、その分素早い。
「くそっ、まだいたのか!」
宗一がそう叫ぶが、間に合わない。
時間が、空気が、すべてが鈍く重く感じた。
身体は動いているはずなのに、まるで泥の中を走っているかのように思うように進まない。
目の前で起きているのは、紛れもなく“死”の瞬間だった。
宗一の背が、無防備に幻影の前にさらされている。
瑠衣の喉が震える。叫ぼうとする声が、うまく出ない。
黒い塊――幻影の跳躍が、ゆっくりと見えるのは、意識が極限まで研ぎ澄まされた証。
だがそれでも、足りない。
追いつかない。
このままでは――宗一が、死ぬ。
――だから、咄嗟に瑠衣は右手を振り下ろした。
次の瞬間、空間がねじれたように空気が震え、幻影の体が真上から何かに掴まれたかのように地面へ叩き落とされた。
ズドンッ!!
凄まじい衝撃が地面を揺るがし、土が爆ぜて舞い上がる。
着弾地点は巨大なクレーターと化し、余波の風圧で瑠衣は思わず一歩、後ずさった。
(……今のはまさか……)
足元の土が、円を描いて凹んでいる。
空気が鉛のように重苦しい。
まるでこの場所だけ、地球の引力が倍増しているような感覚だった。
「……これって」
瑠衣はもう一度右手を振り下ろす。
風が止まり、音が消え、世界の時が一瞬、止まったように静まり返った。
そして——
ドンッ!!
見えない天の手が、一瞬宙に浮いた幻影を再び叩き潰した。
その体は悲鳴を上げることすら許されず、見えない力で圧殺され、ぺしゃりと潰れて地面と一体になり、黒い液体となって消えていった。
残ったのは、熱気と土煙、そして瑠衣の右手に残る、重苦しい“力”の感触だった。
静寂が戻る。
息を吸うと、肺が焼けるように熱い。
手のひらを見る。
まだ、かすかに重力の余韻が残っている。
「……重力断罪。やっぱり、俺は……」
呟きが漏れる。
この感覚を知っている。
レベリスだった時の、自分の“権能”であり、幻影の皇帝から授けられた忌々しい力。
つまり、いまの自分は――混血新人類
幻影の血を入れられた新人類にして、多くの人類の命を奪った災厄の存在。
それが、かつての──いや、“これからの”自分。
だけどおかしい。
本来、この時点の自分はまだ人間のはずだ。
幻影に敗れ、拉致され、実験体にされたあとでようやく“変わる”はずだった。
それなのに――今の自分はすでに“力”を持っている。
あの怪物を、一瞬で叩き伏せた異能を。
「……歴史が変わった……のか?」
――あり得ない。
ふと、胸に違和感を覚える。
全身に重たい倦怠感が残っていたのは、訓練や幻影との戦闘による疲労ではない。
それは“もっと前から”抱えていた痛み――。
静かに上着をめくる。
そして、息を呑んだ。
「な――!」
胸から腹にかけて、無数の傷痕が刻まれていた。
一点に集中するのではなく、まるで何十本もの刃が内側から突き出たかのように、四方八方へ広がった“貫通痕”。
皮膚は瘢痕となり、灼けたように黒ずんでいる。
(……こんな傷、過去に受けた記憶は――いや……まさか)
脳裏に閃く、死の間際の光景。
無数の黒刃に貫かれ、血を吐きながら崩れ落ちた自分。
幻影皇帝の無慈悲な笑み。
そして、身体を包み込んだ、八尺瓊勾玉の輝き。
「……そうだ。この傷はあの時の――!!」
記憶が繋がる。
断片的だった過去が、強烈な痛みとともにひとつに結ばれる。
この傷は、幻影皇帝から受けた傷に違いない。
無数の黒刃に身体ごと貫かれ、血を吐いて倒れた、あの最期の瞬間に刻まれたもの。
だが――この時代の自分には、本来こんな傷は存在しない。
幻影と出会いすらしていないのだから。
つまり、この身体は、「あの死の直前の自分のもの」だ。
即ち――。
「……俺は、“記憶”だけじゃない。“身体ごと”戻ってきてるのか……!?」
戦慄が背を走る。
過去に逆行したのは意識だけではない。
この“異能”も、この“傷”も、すべて背負ったまま、未来から送り込まれたのだ。
何者かの意思か、あるいは八尺瓊勾玉の力か。
理由はわからない。
だが、確かなのは一つ――
これは、もう“ただの過去”じゃない。
やり直すために与えられた“機会”だ。
世界を救うためでもない。
誰かの命令でもない。
俺自身が望んだ――“選び直すための未来”だ。
「瑠衣……今のは……何なんだ……?」
瑠衣の力に、宗一は思わず唖然とする。
「……説明はあとだ、父さん」
刀を鞘に納め、ゆっくりと息を吐く。
黒い霧が風に流され、朝の光が差し込んだ。
村の被害は――ない。
みんな、生きている。
それだけで、心の底からほっとした。
だが同時に、胸の奥に小さな棘が残る。
(この力、喜んでいいのか……?)
手を握るたび、あの冷たい感覚が蘇る。
幻影の兵器だった頃の自分の記憶。
血と叫びと、絶望の音。
「いや……今はよそう」
息を整え、空を見上げた。
どこまでも青く、澄み切った空。
瑠衣は刀の柄を軽く握り直し、静かに誓った。
「今度こそ、俺が……この手で皆を守る」
風が吹き抜け、村の屋根瓦がかすかに鳴った。
遠くで朝の鐘が響く。
新しい一日が始まる――そして、それは、もう“同じ未来”ではなかった。




