禅僧とスキゾイ道、或いは柳沢教授
スキゾイ道を志向していると、ある地点で奇妙な既視感に行き当たる。
「これ、どこかで見た構造ではないか?」という感覚だ。
不要なものを削ぎ、
人間関係を最小化し、
欲望を管理し、
生活をルーティン化し、
思考のノイズを減らす。
それは自己啓発でも成功哲学でもない。
むしろ、修行に近い。
ここで浮かび上がる二つの像がある。
ひとつは禅僧、もうひとつは漫画に描かれた柳沢教授である。
◆スキゾイ道とは何か
スキゾイ道とは、スキゾイドが「社会に適応する」ための道ではない。
壊れずに生き延びるための最適化プロセスである。
スキゾイドは、
* 人間関係で消耗する
* 感情のやり取りに向かない
* 承認欲求が薄い
* 矛盾やノイズに耐えられない
という構造を持つ。
この構造のまま社会の標準ルート(結婚・出世・人脈)に乗ろうとすれば、
高確率で破綻する。
だからスキゾイドは「足す」のではなく、「捨てる」。
やらなくていいことを見極め、
入力を減らし、
構造を安定させる。
これがスキゾイ道の本質である。
◆禅僧とスキゾイド ― 目的は違えど、やっていることは同じ
スキゾイ道を突き詰めると、
禅僧とやっていることが非常に近くなる。
* 妻帯しない
* キャリア競争に関わらない
* 消費を最小限に抑える
* 生活リズムを固定する
* 対人関係を制度的に制限する
禅僧にとってこれは「悟りへの修行」だが、
スキゾイドにとっては「生存戦略」である。
違いは、動機だ。
* 禅僧:精神を空にするために捨てる
* スキゾイド:壊れないために捨てる
結果としての生活様式が似通ってしまうだけで、
精神論を信仰しているわけではない。
むしろスキゾイドは、
「修行後の完成形に近い構造」で生まれてきてしまった人間とも言える。
だからこそ、
スキゾイドは禅僧の適性が異様に高い。
断捨離を極めれば極めるほど、
内部は静まり、処理能力は上がる。
これは悟りというより、設計上の当然の帰結である。
◆柳沢教授というもう一つの完成像
もう一つの到達点が、柳沢教授だ。
こちらは特に理系スキゾイドに親和性が高い。
理系スキゾイドは、
* 思考が対象志向
* 成果物が外在化しやすい
* 評価が理論や結果に集約される
という特性を持つ。
そのため、
* 人付き合いは最低限
* 感情的配慮はほぼ不要
* 研究や探究が生活そのもの
という環境に置かれると、
禅僧ではなく「研究完成体」へと進化する。
それが柳沢教授的な生き方である。
彼は社会不適応者ではない。
ただし、社会に迎合もしない。
社会と最低限の接点だけを保ち、
残りのエネルギーをすべて知的探究に注ぐ。
これはスキゾイ道のもう一つの終着点だ。
◆文系は禅僧、理系は柳沢教授
ここで一つの仮説が立つ。
* 文系スキゾイドは、禅僧型に収束しやすい
* 理系スキゾイドは、柳沢教授型に収束しやすい
文系スキゾイドは、
* 思考が内向的
* 意味・構造・矛盾を扱う
* 成果が可視化されにくい
ため、
外部評価から距離を取り、
内部整合性を高める方向へ進む。
理系スキゾイドは、
* 対象に没入できる
* 成果が形になる
* 社会と限定的に接続できる
ため、
研究者・技術者として完成しやすい。
どちらも優劣はない。
違うのは、孤独の扱い方だけだ。
◆ スキゾイ道の完成形とは
スキゾイ道を極めた先にあるのは、
> 孤独であることが、もはや問題にならない状態
である。
寂しさを克服するのではない。
孤独を前提に、構造を完成させる。
禅僧か、柳沢教授か。
どちらにせよ、そこには静かな安定がある。
それが、スキゾイドに許された幸福の形なのだと思う。
※補足:「天才柳沢教授の生活」とは何か
『天才柳沢教授の生活』(原作:山下和美)は、
社会的感情にほとんど左右されない大学教授・柳沢良則の日常を描いた漫画である。
彼は、
* 非常に優秀
* 他人に無関心
* 世俗的欲望が薄い
* 人間関係が独特
という人物だが、
決して悲惨でも孤独死予備軍でもない。
むしろ、
自分の関心と生活が完全に一致しており、
静かで穏やかな幸福の中にいる。
この作品が示しているのは、
「社会的に変わっている人間でも、構造が噛み合えば幸せに生きられる」
という一つの可能性である。
それゆえ、この漫画は
スキゾイドにとって未来予想図の一つとして読むことができる。
ちなみに、柳沢教授には実在のモデルがおり、経済学者の古瀬大六教授(故人)である。
禅僧か、柳沢教授か。
どちらに向かうかは、
あなたの資質次第だ。




