スキゾイド研究という難題
スキゾイドを研究することほど難しいテーマはないと思う。
理由は単純で——まず、見つからないのである。
スキゾイドは社会の中で、ほとんど痕跡を残さない。
彼らは自らを「障害」とはあまり感じておらず、
他人に悩みを打ち明けることも少ない。
外見も言動も一見「落ち着いた人」「一人が好きな人」にしか見えない。
結果として、誰がスキゾイドなのかは外からはほぼ識別不可能だ。
さらに、仮に観察に成功したとしても、そこからが本当の地獄だ。
彼らは、研究のための接触を嫌う。
「少し話を聞かせてください」と言おうものなら、
「え?無理」と一言で断られる可能性が高い。
なにしろ、頻繁な他者接触がストレスそのものである。
研究のインタビューなど、彼らにとっては治験よりも苦痛なのだ。
つまり——
スキゾイド研究は、そもそもモルモットが檻の外にいる状態なのである。
捕まえようとすると逃げ、追えば見えなくなり、
たまに近づいたかと思えば、静かにフェードアウトする。
だからこそ、こうした当事者による記録には大きな意味がある。
スキゾイドが自ら筆を取り、自身の思考や行動を観察的に書き残すという行為は、
まるで絶滅危惧種が自分の生態を論文にしているようなものだ。
また、過去の歴史上の人物にスキゾイド的傾向を見出す作業も、
貴重な「間接証拠」の一つである。
カント、テスラ、カフカ、ラヴクラフト、メンデル——
彼らは時代も文化も違えど、共通して内向的合理主義者として生きた。
つまり、彼らの生涯記録こそが、
現代のスキゾイド研究における一次資料といっていい。
結局、スキゾイド研究は当事者の語りと、
歴史上のスキゾイド的天才たちの残した遺稿によって
わずかに輪郭を掴むしかないのだろう。
そして、もしこの文章を読んで「自分にも当てはまるかも」と思った人がいれば、
あなたもまた、観察対象であり、観察者でもある。
スキゾイド研究は、スキゾイド自身が書き続けることでしか進まない。




