スキゾイドの遺稿と未練
――思考の終着点としての終活――
若いころの未練は、食べ物や恋愛といった感覚的なものに寄る。
スキゾイドもまた、生理的な存在である以上、それらを全く無視はできない。
しかし、年齢を経ると、残るのは欲望ではなく構築物への執着だ。
それは「私の研究」「私の言葉」「私の体系」である。
社会的評価を求めるわけではない。
ただ、自分の作り上げた構造体がこの世界に確かに“存在した”という記録を、
きちんと論理の形式で残したいだけなのだ。
■ スキゾイドの未練は“作品の整合性”である
スキゾイドにとって、人生は作品であり、作品は思考の延長だ。
そのため、未完の研究ノートや執筆中の草稿、構想メモの断片などが、
死後に一番“気がかり”になる。
彼らにとっての未練とは、
「食べそこねた寿司」ではなく、
「推敲しそこねた一文」なのだ。
■ 遺稿集は、スキゾイドの“死後通信”
スキゾイドが遺稿を残すとき、それは他人に理解を求めるためではない。
むしろ、この世界にデータを同期させておくためのバックアップに近い。
自分の思考体系が宇宙のどこかに残っていてほしい。
それだけの願いだ。
このため、スキゾイドの遺稿集は往々にして難解である。
それは他者に読ませるものではなく、自分の“存在構文”そのものだからだ。
生前に整理しておければ理想だが、未整理のままでも構わない。
重要なのは、そこに「構造の痕跡」があること。
■ 終活の最終項:「論理のバックアップ」
スキゾイドの終活における最終段階は、
財産でも、墓でもなく、思考の整理である。
ノート、ハードディスク、クラウド、論文データベース。
それらを体系的に保存し、アクセス権を最小限に設定する。
公開範囲を定義し、死後自動公開を設定しておくのもよい。
要するに、「死後の出版自動化」だ。
死んだ瞬間、論文がネットにアップされるような仕組み。
それこそ、スキゾイドが望む完璧な“死後活動”である。
■ 結びに
スキゾイドの魂は感情ではなく、構造に宿る。
彼らにとっての「未練」は、
誰かを愛せなかったことではなく、
自分の思考を最後まで組み上げられなかったことだ。
だから、スキゾイドの終活とは、
論理の墓標を立てる行為である。
死後に残るのは、言葉、図、体系、そして整合性。
それがこの世界における、
スキゾイドの“永遠”なのだ。




