創作ムーブメントからみるスキゾイド封印
私は思うのですよ。近年のアメリカの創作ムーブメント──コミック、ピクサー、ハリウッド──が、やたらとLGBTQやDEIといった思想的メッセージを前面に押し出すようになったこと。
つまり、作品を通じて「感情的共感」や「社会的正義」を強制的に共有させようとする流れです。だがスキゾイドという生き物は、その“共感の同調圧力”に非常に敏感だ。物語を見たいのに、説教を聞かされているように感じる。
結果として、そういう層は静かに離脱する。アメリカ国内でも、日本製のアニメや漫画に流れているのが現状でしょう。そこには、まだ創作が創作であるための自由が残っているからです。
アメリカでは、もともとアニメーション=カートゥーン=子ども向け、という文化的前提が強固にある。だからこそ、「子どもに見せるなら正しいメッセージを」という発想がすぐに入り込む。つまり、思想の温床になりやすい。
一方で日本の場合、アニメや漫画は必ずしも子ども向けばかりではない。むしろ“全年齢の創作表現”として育ってきたため、大人が作品の中に妙な思想性を嗅ぎ取ればすぐに気づく。入り込む余地が、そもそも少ないのです。
面白いことに、この違いが“創作の整合性”にも影響している。思想的メッセージを入れると、作品の世界観が現実の政治に引きずられてしまう。しかし、創作の面白さはその逆──現実を一度リセットし、独自の論理で世界を組み直すところにある。
スキゾイド的な鑑賞態度は、思想より構造に反応する。キャラクターがその世界の論理で生きているか。物語が自律しているか。それが崩れた瞬間、観る側の没入も途切れてしまう。
そういう作品を見ると、私は思わずこう呟きたくなる。「ああ、スキゾイドが封印できていない……」。つまり、作者が自分の正しさを証明しようとした時点で、物語の整合性は壊れ始めているのです。
創作とは、本来もっと自由で、少し無責任で、だからこそ誠実な営みのはず。そこに“正しさ”を入れ始めた瞬間、世界は説教臭くなる。スキゾイドはそんな空気を嗅ぎ取って、そっと席を立つ。
……まあ、出ていくときも何も言いませんけどね。音も立てずにフェードアウトするだけです。




