スキゾイドとキリスト教
私は子どもの頃、親の付き合いでカトリック教会に“放り込まれた”時期があった。土曜の午後、近所の子どもがいる家庭と一緒に通わされていたのだ。学校でも浮いていたのに、その上さらに別のコミュニティに巻き込まれ、スキゾイド的には迷惑千万だった。
記憶に残っているのは、意味不明の椅子取りゲームを強要され、必死に「悪目立ちしないように椅子を取る」練習をさせられたこと。あるいは理解不能の演劇の出し物のために訓練させられたこと。いずれも「人と群れて盛り上がる前提」の行事であり、私にとってはただの苦行だった。
後に知ったのだが、カトリックでは日曜礼拝がデフォルトらしい。週に一度、必ず集まって神父の説教を聞かされる習慣があるという。スキゾイドからすれば、これは鬱陶しいことこの上ない。
そもそも、聖典宗教――つまり聖書やコーランといった書物を絶対視する宗教は、形式化された「集団の定期的な儀式」を前提にしている。スキゾイドはそこに適応できるのだろうか? もしかすると、そういう環境ではスキゾイドは「隠者」としてひっそり消えるか、あるいはとっくに絶滅してしまっているのかもしれない。
こうした理由からだろう、スキゾイドは本能的に「自由主義国家」を好む傾向があると思う。信仰を強制せず、週一の説教もない社会。逆に言えば、イスラーム主義国家や神権政治の国は、スキゾイドにとっては絶対に住みにくいだろう。




