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列車の中

作者: LeMac

ああ、うまく姿勢が定まらない。

 シートに浅く腰かけて、後頭部を背もたれにべっとりと付けると、首が不自然に曲がって、ずきずきと痛い。だからと言って、右肩を壁にあずけて、頭部を窓ガラスにもたれかけると、頬がひんやりと冷たく、落ち着かない。それに。目を覚ましたあと、顔に不自然な皺が刻まれるのも、恥ずかしくていやだ。

 眠りたくても、眠れない。まぶたはとろんと重いのだが、てんで意識が素直でない。ごとんごとんと規則的に揺れる電車の振動は、心地良い睡魔を召還するのだが、正解の安眠姿勢が見つからないのと、知らぬ間に降車駅を看過してしまいそうなのと、その他の不安要素が胸に去来して、僕は、目を擦り、睡魔を追い払ってしまうのだ。神経質の過敏症。おそらく早世予備軍になるのだろう。

 隣のシートに伏せておいた小説をめくる。《新樹の言葉》。太宰治の短編集。ひとつのページにぎっしりと詰め込まれた幾多の文字は、僕の視神経をピンと張って、ひどく疲れさせる。僕は、二ページほど読んだあと、紐しおりを挟んで、本を閉じた。窓の外の景色は相変わらず、名の無い万緑の山があって、稲穂の田んぼがあって、軒の低い屋根々々が、ちらほらと並んでいるだけで、灰色の空から降り注ぐ冷たい雨が、遠景をぼんやりとかすませるが、とくに視線を奪うような、豪奢なものが見えるわけでもないので、それもさして気にならない。ああ、それにしても眠たい。

 出発してから、どれだけの時間が経っただろうかと思い、僕は携帯電話を開き、時間を確認した。―― 14:46 ――。およそ、三時間。僕の住む九州を離れて、およそ三時間。まだ山口県の途中。夕方までには着くだろうか。

 

今回は、あまり気の乗らない小旅行だ。

遡ること三日前、僕はいつものように、水曜日の夜、リビングのソファに横になって、つまらないバラエティ番組をぼうっと眺めていた。やたら大声を発するだけの大物司会者が、ただ若いだけの女性タレントをからかい、それに合わせて周りの芸人が大袈裟に笑う。視聴者を意識していない、金で動く世界の、取るに足らない三文番組。

今年五十歳になる母親は、台所で、近所のもらい物の二十世紀梨を剥いている。父親はまだ会社から帰って来ていない。ふたつ上の兄は、今年の春に高校を卒業し、東京でひとり暮らしをしながら、私立大学に通っている。工学を勉強したいらしい。

午後八時。この時間、家にいるのは僕と母親のふたり。仲が悪いわけではないのだが、僕と母親はあまり会話を交わさない。食卓に向かい合わせて座るときは、無造作に流れてくるテレビ映像をちらちら目で追い、ゆらゆら湯気を昇らせる煮物を箸でつついては、「おいしいね」などの簡単な言葉を、母親に投げかけてみる。「これ、デパートの惣菜よ」なんて返事をもらうときも、しばしば。しかし僕はそれでも幻滅しない。デパートの惣菜でも、おいしいものはおいしいのだし、母親の真心が――なんて、そんな言葉が美味なるスパイスに変わるような、幼い年頃でもないのだ。

「ねえ、ちょっと」

 カットされた梨がのった皿を持ってきた母親が、僕に言った。

「はぁい? 何でしょう?」テレビに目を向けたまま、僕は答えた。少々投げやりな口調だったかもしれないが、口から出てしまったものは仕様がない。母親はソファの傍に置かれたガラステーブルに皿をのせ、「あんた、今週末、ひま?」と、僕に訊いた。

 今週末? すこし考えてみるが、すぐに答えは出る。「ん、まあ、ひまやね」。予定があったほうが多忙な高校生と思われて、格好がつくのだが、恥ずかしながら僕は、限られた時間を持て余すほど、自由な高校生だったのだ。僕が通っているのは、進学志向の高校ではないし、協調性という暑苦しい言葉に、微塵も共感できない僕は、部活動という、青春の代名詞であるはずのコミュニティにも、足を踏み入れるようなことはしなかった。

「伯父さんのとこ、行ってくれん?」

「伯父さんのとこ?」僕は思わず振り返って、母親の方を見た。

「あんたに話したいことがあるとって。もう向こうは土曜に決めちゃっけん」

 ――急に、沈鬱とした気持ちになった。

伯父さんとは父親の兄にあたり、今年五十五、六歳ぐらいになるはずだ。以前は同じ九州に住んでいて、しばしば僕の家へ遊びに来ていた。目は三角刀で彫ったように細く、無粋に蓄えた口ひげが、なんだか不潔な印象を僕に与える。

僕は、伯父さんが嫌いだった。おそらく、伯父さんも僕を嫌いなのだろうと思う。家に遊びに来ては、みんなが集う部屋から僕を連れ出し、父親の寝室で、僕にねちねちと小言を言う。ちゃんと勉強しろ――親を手伝え――バイトを始めたらどうだ――将来を真剣に考えろ――。このひとは、まるで、使われなくなったボイスレコーダーだ。毎度、同じことしか言わない。さして飾った言葉を言うわけでもなく、希望の光を指さすわけでもなく、つまらない説法のような話を、僕にくどくどと話す。両膝を抱えて、からだを小さくして、じっと俯いて彼の話を聞いていると、僕はうとうと眠くなる。あるとき、堪えきれず、欠伸をしてしまった。彼に悟られないよう、顔を下に向けていたのだが、「ふあっ」という声を、彼は聞き逃さず、僕の頭を軽くはたいて、「欠伸をしながら、ひとの話ば聞くな」と、もっともなことを言った。まあ、それは正論だ。欠伸をしながらひとの話を聞くものではない。しかし、あなたの話が退屈すぎるから――と、声にならない声を、僕は胸のうちで呟いた。

いまになって、いったい僕に何の用があるのだろう? 彼の家族が岡山に引っ越してから、僕はまだ一度も彼に会っていない。九州を出て行くという話を母親から聞いたとき、僕は心の中で欣喜した。もうあの小言を聞かなくて済む。そう思って、安堵の息を吐いたものだった。

「え、何の用? おれ行きたくない」

「いいやない。どうせひまなんでしょ?」

 母親は、僕の気持ちをわかっていない。親族に会えることは、必ずしも喜びをもたらすものではないのだ。こんなことなら、まだ今週末あいてるかわからんわぁ、とか適当なことを言って、約束を霧消すれば良かった。見事に後悔先に立たず。

「行きたくないな……」

 感情を排したような声で言ったが、幼児のようにわがままの一点張りを通すわけにもいかない。今週末、どうせ家に居ても、小説を読み、ツタヤで借りたDVDを観て、パソコンで芸能人のブログを読んで、夜になったらベッドで眠るだけ――そんな情けない生活を送るぐらいならばいっそ、日の光を浴びて生活人らしいことをしたいものだ、と思ったりもしたが、疎ましい粘着質の小言が待っていると思うと、ああ、やはり、気は進まない。しかし、そんな僕の意思とは無関係に事は進み、僕は気がつけば、岡山行きの列車に揺られているのだった。


 窓の外は雨がしとしとと降っている。中国地方の山間部を、長い列車は走る。どこの地方も、田舎という場所は大した差異がないようだ。霧にかすんだ青山がそびえ、濡れた畦道に軽トラックが停まり、荒れた空き地に古いバラック小屋が建っている。退屈感を招くほどの単調な風景なのだが、僕は個人的に、この風景を嫌ってはいない。何と言っても、五感に不快な刺激がない。都市部のように、極彩色がうようよと蠢くこともなく、金属と排気の、意地の悪い音も聞こえない。歩く人も見受けられず、景色はモノクロで侘しい。

列車の中の乗客も、さして多くはない。学校帰りの中学生が二三人、杖を持った老夫婦がひと組、幼児を連れた家族がひと組、買い物袋を抱えた中年女性がひとり、文庫本を読む若い女性がひとり、といったところだ。停まる駅によっては、ひとがたくさん乗ってくるのだが、それでもせいぜい十数人くらい。都会の臭味が香らない、喧騒と群衆から隔離されたこの車内は、とても落ち着く。

「チョコ、いる?」

 三歳ぐらいの小さな女の子が、僕のシートの隣に立っていた。久しぶりの生きた声にすこし狼狽した僕は、ふっと彼女の眼を見入り、すぐに視線を上げて通路の奥を見遣った。僕のシートから三つ分ほど離れた向かいの席に、若い夫婦が座っていた。その妻のほうが、僕ににこっと微笑み、軽く頭を下げた。僕も、無表情のまま、会釈をした。

「ん、ん」

 隣の女の子は、欠けたミルクチョコレートを小さな右手につまんでおり、僕に差し出す。あどけない口をぎゅっと結び、何の恥じらいもなく、僕の眼をじっと見つめる。

「ありがとう」

 小さな声で僕は言った。その声は、女の子の声よりも小さかっただろうと思う。僕は、ミルクチョコレートを口に含んだ。ねっとりとした甘さが舌上を這う。チョコレートの甘さは、僕はあまり好きではないのだが、女の子のいたいけな表情を見ると、「おいしい」と言って、歪んだ微笑を浮かべざるを得なかった。その女の子は、赤いワンピースのポケットに手を入れたかと思うと、次にビー玉をひとつ取り出して、僕に差し出した。反射的に開いた僕の掌に、彼女はそのビー玉をちょこんと乗せる。僕はそのビー玉をつまんで、天井の蛍光灯にかざした。一寸の曇りもない、綺麗な透明のガラス球。向こう側の光が、ぼんやりとかすんだ。

「これ、くれるの?」僕は女の子に訊いた。

「ん、あげる」

 彼女はこくりと大袈裟に頷いた。柔らかそうな頬が、にわかに薄紅色に染まる。

「ありがとう」僕はそう言うと、自分のバッグパックの中から、ソーダ味の飴玉を取り出し、彼女の手に包ませた。「これ、きみにあげる」。そして、さらに僕は、彼女に一枚のカラー写真を手渡した。その写真には、家の花壇に咲くクチナシの花が映っている。僕は、写真を撮ることを唯一の趣味としており、とくに被写体は問わないので、野生植物や近所のノラ猫、夕焼け空や高層ビル群など、様々な写真を撮り、アルバムに綴じて、いつも持ち歩いているのだ。

女の子は写真を受け取り、興味深そうにその真影を見つめた。まだ咲きかけのクチナシだが、きめの細かい白い花弁と、艶やかな青葉が、爽やかに調和していて美しく映える。

「ありがと」

 はきはきとした口調で彼女はそう言うと、ぺこっと丁寧にお辞儀をして、両親の元へと帰って行った。女の子は小走りで、すこし嬉しそうだった。

 僕はビー玉を握りしめたままでいたので、掌がじわりと湿っていた。ビー玉をバッグパックの小さなポケットに丁寧にしまい、姿勢を戻すと、目を閉じた。

 電車は揺れる。レールを擦る重低音が、からだに伝わる。まだ口の中にはチョコレートの甘さが残っていた。チョコレートを食べたのは、本当に久しぶりだった。女の子の体温で、すこし溶けており、柔らかかった。


「ご乗車ありがとうございます。次は――駅、――駅。お降りの方は、右側の出口からお降りください」

 車内アナウンスが流れる。レールの響きが不規則になり、じきに列車は停まる。僕は窓の外を見遣った。緑色の風景は移り変わり、ガラスの向こうは、ひとの匂いが香るようになっていた。白壁の住宅が集い、赤色の廂を出した小さな商店が構えられている。細い川がアスファルト道路の隅に流れ、道行くひとは傘をさしている。駅のホームは何人かのひとがいたが、物静かで閑散としていた。僕は一通り景色を見回したあと、再び目を閉じた。

 ふと、ガラスを叩くような音が聞こえた。僕は閉じたばかりの目を開き、窓の外に向けると、先ほどの女の子がいた。母親と手をつなぎ、笑っていた。女の子は「ばいばい」といったような口の動きをして、僕に手を振った。僕も同じように手を振った。

 その家族連れは去って行く。彼女たちの背中からは、躍るような陽気が伝わってきた。曇天の空。静かな雨。駅員の笛の音。光も影も何もかもが、彼女たちを讃えているような――少なくとも僕にはそう見えた。幸せな光景とは、暗さなど、いとも簡単に捨て去る。あたたかさが、そこにあるだけで、それは着色レンズへと変わり、向こう側の景色を、柔らかなものにするらしい。列車は再び走り出す。僕はバッグパックにしまってあったビー玉を取り出し、ぎゅっと握りしめ、再び目を閉じた。


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[良い点] 読みやすい。 [気になる点] 見せ場がない。何を語りたいのかわからない。 [一言] テーマが見つかるまで、思考実験を試すといいでしょう。世界観が浅いです。
[一言] 曇天の空。静かな雨。駅員の笛の音…遠くで聞こえる安らぎの思えました。
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