霧の囁き、鏡の奥で
(ねぇ……こっちへ来て)
その声が聞こえたのは、学院の入学式の数日前だった。
最初はただの夢だと思っていた。
黒い霧の中に誰かが立っていて、私の名前を呼ぶ。
でも、目覚めたとき――枕元に黒い羽根が落ちていた。
(夢じゃない)
その確信が胸に根付いた瞬間から、私の“感覚”は変わり始めた。
***
私の名前はエイル・セラフィーナ。
平民出身だけど、魔力の適性が高いって理由で、ルメリア学院への入学が決まった。
家族は素直に喜んでくれたけど、私は少し……怖かった。
期待されすぎることも。
“特別”だと言われることも。
それに、あの場所の近くで育ったことも。
黒霧区。
旧市街のはずれにある、魔力の淀んだ“死の街”。
でも私は――そこに惹かれていた。
昔、あの霧の向こうに何かが見えたことがある。
大きな鏡のようなもの。
それが、ずっと私を見ていた。
***
そしてある夜、私は夢遊のように歩き出した。
足は、意識とは関係なく霧の方へ向かう。
ただ、怖くはなかった。
(こっちへ来て)
霧の奥から、やさしい声がした。
(あなたには才能がある)
(あなたは“選ばれた”子)
霧に包まれたとき、私は確かに誰かの手に触れた気がした。
***
気づけば、私は黒霧区の奥――倒壊した旧学院の裏庭に立っていた。
(あった……あれ)
私の目の前には、“鏡”があった。
高さ2メートル以上、楕円形の古代風の額縁に包まれた、漆黒の鏡。
鏡は私の姿を映さない。代わりに、“何か別の誰か”が映っていた。
そしてそいつが、私に微笑んだ。
> 「ようこそ、エイル。君は、ここで変わるんだ」
その言葉を最後に、意識がふっと薄れていく――
***
目覚めたとき、私は自分が“自分ではない”ような感覚に襲われた。
頭が重い。魔力が渦巻いてる。
でも、奇妙なほど“快感”だった。
そして私は、もう一度、鏡を見た。
今度は――確かに自分の姿が映っていた。
けれど、そこにいたのは、**黒い瞳をした“私じゃない何か”**だった。
***
「……あの人が来る」
私の口が、自然とそう呟いた。
「白い剣の人。……でも、まだ来ちゃダメ。まだ、準備が終わってないから……」
鏡の中の声が、私の心にささやきかける。
> 「彼女が来たとき、試練を与えてあげて」
> 「そうすれば、“門”が開くから」
私は静かに頷いた。
霧の奥、黒の鏡の前で――私は“何か”に変わろうとしていた。




