セリーヌの試練
二つ目の光を踏み越えた瞬間、空気が重くなる。
周囲の景色は鏡張りの広間に変わり、無数のサティがあらゆる方向に映っていた。
一歩進むごとに、鏡の中の「自分」が違う表情を浮かべる。
傲慢な笑み、怯えた瞳、冷酷な視線──それは、サティが心の奥に押し込めた感情の断片だった。
「ねぇ、あなたは本当に正しいの?」
正面の鏡の中から、声が響く。
そこに映っているのは、完璧な笑顔を浮かべたもう一人のサティ。
その瞳は底知れず暗く、そして残酷だった。
「力を手に入れても、守れるものなんて限られてる。だったら最初から、全部切り捨てればいい。
そうすれば……傷つかない」
サティは唇を噛み、視線を逸らさない。
「……私は、切り捨てるために力を求めたんじゃない」
偽りのサティが、ゆっくりと鏡から歩み出る。
同じ顔、同じ声、同じ力を持つ存在──ただし、ためらいも慈悲もない。
「じゃあ証明してみせて」
偽りのサティは手をかざし、闇色の刃を生み出した。
「本物がどちらか、ここで決めよう」
足元の鏡が砕け、破片が宙に舞う。
その瞬間、試練の場は戦いの舞台へと姿を変えていった。
***
目を開けると、そこは春の庭だった。
花が咲き乱れ、柔らかな風が頬を撫でる。
遠くから笑い声が聞こえ、サティの胸の奥を微かに締めつける。
花の向こうに、亡き母の姿が見えた。
「サティ……おかえり」
母は優しく微笑み、両手を広げている。
その腕に飛び込みたい衝動が、心の奥から突き上げる。
「忘れてしまったの? あなたはここに帰ってくるはずだった」
母の声が、甘く絡みつく。
足が前へ動く──あと一歩でその腕の中に届く。
だが、サティは目を伏せ、深く息を吸った。
(……これは現実じゃない。進まなきゃ、試練は終わらない)
次の瞬間、母の姿は歪み、溶けていく。
花々も音も消え、残ったのは無音の石畳だけ。
「よくできました」
背後からセリーヌの声が響く。
「最初の扉は開きました。でも……次はもっと、あなたの心を抉ります」
闇の中に二つ目の光が浮かび、道を照らし出した。
サティは足を踏み出す──さらなる幻影が、彼女を待ち構えていた。
***
薄暗い空間に、一歩踏み込む。
足元に敷かれた白い石畳は、どこまでも真っすぐに続いているようで───しかしその先は、靄に覆われて何も見えなかった。
背後の扉は音もなく閉じられ、帰り道は断たれる。
この瞬間から、すべては試練の領域。外界の理はここには通じない。
───カツン。
歩き出した足音が、やけに鮮明に響いた。
その音を追いかけるように、前方の靄の中から、何かが浮かび上がる。
「……私、か」
現れたのは、サティと寸分違わぬ姿をした女性。
表情まで同じ──いや、違う。目の奥に浮かぶのは、嘲笑。
『弱い自分を誤魔化すために、力を求めた。
その力がなければ、あなたはただの───何もできない受付嬢』
その声は、耳ではなく心を直接叩く。
自分の中に潜んでいた疑念が、外の形をとったかのようだった。
サティは眉一つ動かさず、視線を正面に据える。
「それがどうしたの? 私は力を使うために、この場所に来た」
偽物のサティは、にやりと口角を上げる。
『ならば証明してみせろ。本当に、力を持つ資格があるのか』
次の瞬間、偽物の背後に影が渦巻き、漆黒の剣が形を成す。
殺気が、空間そのものを凍りつかせた。
───試練は、すでに始まっている。
***
空気が、刃のように張り詰めていく。
影の剣を構えた偽物は、一歩も動かず──その存在感だけで圧をかけてきた。
サティは深く息を吸い、左手に影を集める。
───暴食。
漆黒の霧が掌から広がり、触れた石畳を音もなく削り取っていく。
「来い」
挑発するようなその一言に、偽物の足が弾かれたように動いた。
次の瞬間、剣の切っ先が目の前に迫る。
速度は、常人の目では追えない。
ギィンッ――!
影の障壁を展開し、剣を受け止める。火花が散り、衝撃が腕を痺れさせた。
しかし偽物は止まらない。二撃目、三撃目──一切の間を与えぬ連撃。
受け止めるたびに、サティは悟る。
───これは私の技だ。私が歩んできた戦い方そのもの。
つまり、この相手は私が使えるすべての手段を知っている。
「……面白いじゃない」
影を脚へとまとわせ、一気に間合いを詰める。
反撃の拳が偽物の頬をかすめ───そこから、
戦いは純粋な殺し合いへと変わっていく。
剣と影、蹴りと拳。
互いの思考を先読みし、裏をかくためにさらに裏をかく。
自分との戦いほど、厄介なものはない。
だがサティの目には、冷たい光が宿っていた。
───自分を倒せるのは、自分しかいない。
***
刹那、二人の動きが完全に重なった。
攻撃も、防御も、間合いの詰め方も───すべてが同じ。
鏡合わせの戦いは、互いに決定打を許さないまま続いていく。
しかし、サティは口元にわずかな笑みを浮かべた。
「同じ動きなら、先に壊すだけ」
次の一撃を受け流し、わざと隙を見せる。
偽物は当然そこを突いてくる──が、その瞬間。
───影が弾けた。
それは暴食と影縫いを同時に重ねた、サティだけが使える変則の罠。
踏み込んだ偽物の足が石畳に縫いつけられ、動きが一瞬止まる。
その刹那、サティは右手に全ての影を収束させる。
「暴食──終焉」
黒い渦が弾丸のように放たれ、偽物を飲み込んだ。
空間ごと削り取るその一撃は、逃げ場を与えない。
衝撃が収まり、視界が晴れた時──そこに立っていたのは、もうサティ一人だけだった。
……静寂。
そして、耳の奥に響く声。
『己を超えた者よ──次の扉を開く資格を与えよう』
足元の石畳が淡く光り、先の靄が割れて道が現れる。
試練は、まだ続く。
サティはわずかに息を整え、前へと歩き出した。
その瞳は、先ほどよりもずっと冷たく、鋭く輝いていた。




