試練の始まり
山間の修道院は、夜更けでもかすかな灯りが絶えなかった。
深夜の鐘が一度だけ鳴り、その余韻が石造りの回廊に消えていく。
サティは硬い寝台から身を起こす。眠れなかった。
理由は、今夜から始まる――《謙虚》の試練。
もっとも、正確には「試練らしい試練」はないと聞かされていた。
セリーヌはただ「数日間、ここで静かに過ごしなさい」とだけ告げたのだ。
その言葉が逆に落ち着かない。
(試練って、もっと分かりやすい戦いや、力の発現があるんじゃないの……?)
廊下の先で、微かな声がした。
修道女たちの祈りでもなく、誰かの読経でもない。――囁き声。
近づくと、木扉の隙間から漏れる蝋燭の光と、影が揺れるのが見えた。
「……あの娘は強すぎる。あれは人の器じゃない」
「だからこそ、謙虚を学ばせる必要があるのよ」
耳に刺さる言葉。
サティは咄嗟に足を止めた。扉の向こうから聞こえる声の一つは、セリーヌのものだった。
(……私のこと、話してる?)
その時、セリーヌは扉の向こうでゆっくりと瞼を閉じた。
気配を察知した───だが、あえて気づかぬふりをする。
(ここからが、あなたの引き金……サティ・フライデー)
セリーヌは心の中で呟く。
彼女の試練は戦いではない。
他者の評価、陰口、誤解──そうした“剥き出しの人間”に触れて、己をどう律するか。
その瞬間を見極めることこそ、《謙虚》の扉を開く鍵だった。
サティは胸の奥でざらついた感情を抱えたまま、その場を離れた。
(私は……強すぎる、か)
自分の力を誇ってきたわけではない。
だが、それを否定された時──何かが心の奥で軋んだ。
夜は深く、試練はもう始まっていた。
***
修道院の奥、案内もなくサティはひとり歩いていた。
回廊はやがて途切れ、壁際の窓から差し込む光も薄れていく。
聞こえるのは、石畳を踏みしめる自分の足音だけ。
「……こちらです」
静かな声が闇の向こうから響いた。
声の主は姿を見せず、まるで影が語りかけてくるようだ。
進むごとに、空気は湿り気を帯び、かすかな香が鼻をかすめる。
それは甘い花の匂いに似ているが、どこか不安を掻き立てる。
やがて前方に、薄紫色の光が滲む扉が現れた。
扉の表面には古い文字と、複雑な魔法陣が刻まれている。
サティが手をかけた瞬間、周囲の空間がわずかに揺らぎ、足元から冷たい霧が立ち昇った。
「心を乱さぬ者だけが、ここを抜けられる」
声がまた響き、扉がゆっくりと開く。
中は、昼も夜もない薄暗い空間──天井は見えず、足音が吸い込まれるほどの静寂。
踏み込んだ瞬間、背後の扉は音もなく消え、サティはセリーヌの試練の場に閉ざされた。
***
薄暗い空間の中央に、一脚の椅子が置かれていた。
その背後には人影──艶やかな黒髪と、淡い紫の瞳を持つ女が立っている。
その微笑みはどこか懐かしく、そして危うい。
「ようこそ。あなたの心を知るための、少しだけ長い散歩にお付き合いください」
女はそう言い、歩み寄ってくる。足音は響かず、まるで地面を滑るようだった。
次の瞬間、空間が変わる。
目の前には修道院の庭──いや、違う。
そこに立っているのは、もう二度と会えないはずの人たち。
優しい声、温かな笑顔、手を差し伸べてくる家族や仲間の姿。
「あなたは、どちらを選びますか」
セリーヌの声が、耳元で囁く。
「過去に還る幸福か、それとも──今を進む覚悟か」
周囲の景色は甘く優しい光に満ちているが、足元には目に見えぬ淵が口を開けていた。
一歩でも心を迷わせれば、そこに引きずり込まれるだろう。
サティは息を整え、ゆっくりと目を閉じた。
心を乱さず、進むべき道だけを見据える──それが、セリーヌの試練の始まりだった。




