瘴気に呑まれた少女
霧の谷間に現れた少女は、まるでこの世界に属していないかのようだった。
白く透き通った髪に、深淵のような紅の瞳。
その足元から立ちのぼる黒煙は、自然に逆らうように空へと流れていく。
「名を名乗りなさい」
サティが正面に立ち、声をかける。
少女は少し笑い、首をかしげた。
「名なんて、とうに忘れたわ。でも――そうね、あなたにだけは教えてあげる」
霧の中に声が溶けていく。
「“エルナ”。それが、かつての私の名だった」
***
ルリがわずかに目を見開いた。
「エルナ……? 聞いたこと、あるような……いや、気のせいか」
ミネルバが静かに口を開く。
「“瘴気適応者”――人為的に瘴気と同化させられた存在。かつて、いくつかの禁忌研究で試みられたと聞くけど……まさか実在していたとは」
「つまり、人工的な“影”……?」
エルナは笑う。
「影って便利よね。何でも背負わせられるし、何でも捨てられる」
***
その時、空間が歪んだ。
一瞬で、重力が反転したかのような圧力が全方位から押し寄せる。
「来るわよ――ッ!」
ルリが身を沈め、剣を抜く。
だが、サティは一歩も動かない。
(感じる。これは、“怒り”でも“虚飾”でもない)
(彼女は、ただ――耐えてきた)
***
サティの中で、《忍耐》の紋章がわずかに熱を持った。
次の瞬間、彼女の足元に淡い光の陣が浮かび上がる。
「クラウディア……見ていてくれるのね」
その光は、瘴気の渦をゆっくりと押し返し始めた。
怒りに任せて力をぶつけるのではなく、ただ“崩れぬ意志”で圧を相殺する。
***
「あなた、本当に“人間”なの?」
エルナの声が少しだけ揺れる。
サティは静かに答えた。
「私はただ、“私”でいるために、力を使っているだけ」
エルナの足が止まった。
そして、次の瞬間───
彼女の体から、異質な瘴気が爆ぜた。
それはまるで“自壊”するように。
***
「やめて……!」
サティは即座に前へと飛び込む。
《暴食》の力で瘴気を吸収し、《忍耐》の力でエルナの体を包み込む。
「あなたはまだ……壊れるべきじゃない!」
***
光と闇がぶつかり、そして――静寂が訪れた。
***
しばらくして、サティの腕の中に残ったのは、眠る少女の姿だった。
瘴気はすべて浄化され、彼女の表情には安らぎすら宿っている。
「助けたの?」
ミネルバが呆れたように言った。
「ええ。だって、誰も助けなかったのなら……私くらいは」
***
その高台の陰――クラウディアが一瞬だけ姿を現した。
ローブの奥で、満足げに小さく頷くと、再び風の中へと溶けていった。




