書かれざる一節 ― 綴り手は傍に
書かれざる一節 ― 綴り手は傍に
風がやわらかく吹き抜ける、草原の夜。
静寂の中、小さな焚き火だけが、淡いオレンジの灯を揺らしていた。
その傍らに、眠る二つの影。
ひとつは銀髪の少女、ルリ。もうひとつは、炎の揺らぎの奥、黒衣の少女───サティ。
そのふたりを囲むように、もうひとつの“気配”が、静かに立っていた。
フードを深くかぶり、音もなく草を踏みしめる者。
───エルナ。
彼女は、焚き火の端にしゃがみ込み、
そっと革表紙の古びた書物を開いた。
書の中には、既に多くの物語が綴られている。
炎に照らされたインクが、その文字の上を淡く光らせる。
彼女は、筆を取り、静かに一文を書き記した。
> “第177章、暴食の影と対話す。選びなおすことを、彼女は知る”
インクが紙に染みこみ、その一節が“物語”へと変わる。
「……まだ、書くには早いわね」
エルナは、隣で眠るサティをちらりと見る。
その表情は穏やかで、けれどどこか苦しそうでもある。
「あなたが背負う物語は、もう書物の範囲を超えている。
でもそれでも――私は綴る。誰かが、忘れないように」
エルナは書を閉じ、立ち上がった。
風が草を揺らし、彼女の姿を包む。
次の瞬間、その姿は夜の帳に溶け、消えていった。
そこにいたことを、誰も知らない。
けれどサティは、微睡の中で、ふと───
「……エルナ……?」
と、誰にともなく名前をつぶやいた。




