迷宮の最奥にて ― 勤勉の光、揺らぎて
思考の迷宮は、静かに形を変え続けていた。
一つの問いを終えるたびに、本棚の列が入れ替わり、新たな分岐が現れる。
そして今、サティの目の前には五冊の本が浮かんでいた。
そのどれもが、見た目は酷似している。
違いは、文章の細部、語尾、表現の一部だけ。
《第二の試問:真なる記録を選べ。観察と記憶の力をもって》
「……これは、“反復”の試験」
サティはつぶやき、浮かぶ本の一冊を取り、ゆっくりと読み始めた。
内容は、かつてどこかの都市で起きた《記録の消失》に関する調査報告。
文体は硬く、情報量も多い。
(これは……初読で覚えきれる内容じゃない)
だが、読まなければ先へ進めない。
“勤勉”とは、繰り返し、観察し、考え抜く力。
サティは静かに目を閉じ、一冊目の内容を頭の中で反芻した。
……だが。
(……おかしい)
脳裏に、明確な“抜け”がある。
文章の一部が、思い出せない。
読んだはずの文が、なぜかぼやけている。
「サティ?」
ルリが心配そうに声をかけた。
サティは無理に笑う。
「……平気。ただ、少し……思い出すのが難しくて」
だが彼女自身、気づいていた。
───これは、《怠惰》の代償。
怠惰の力を使えば使うほど、精神が鈍化し、記憶が溶け落ちていく。
それは、もはや避けられない事実だった。
(……違う。こんなところで止まっていられない)
再び本に向き合い、読み直す。
何度も、繰り返し、繰り返し。
そのたびに、記憶がわずかに定着していく。
思考の霧が、ほんの少しだけ晴れていく。
やがて彼女は、五冊のうち一冊を選び、手をかけた。
選んだ本が、ふわりと輝き、他の四冊が霧のように消えていく。
──《正答。観察と記憶の力、確認》──
同時に、サティの手のひらに、温かな光が宿った。
(これは……)
微かに、しかし確かに。
七つの美徳のひとつ、《勤勉》がその姿を見せかけた。
「もう少し……あと一歩」
サティは呟いた。
その時だった。
「サティ!」
ルリの叫び声と同時に、背後の空間が音もなく裂けた。
そこから現れたのは、黒衣の影──怠惰の残滓が具現化したような存在。
「影の核……まだ、ここに残ってたのね」
サティはすぐに体勢を取った。
試練はまだ終わっていない。
だが、ここで逃げれば、全てが無意味になる。
《怠惰》に引き込まれる前に、《勤勉》で自分を取り戻さなくてはならない。
「私は、止まらない……! 絶対に、立ち止まらない!」
そして、光と影が再び交わる。
次なる覚醒の瞬間が、すぐそこに迫っていた。




