名前を、思い出す朝
光が、街を満たしていた。
それは太陽のものではない。
サティの掌から解き放たれた《大罪》――九つの罪が調和し、「存在の上書き」を完遂した結果として、夜の呪縛が解けたのだ。
ルリが目を細めて、空を見上げる。
「……空が、青い……」
何日ぶりだろう。
いや、それ以前に、この街が“青空”というものを覚えていたのかも分からない。
「サティ……!」
駆け寄るルリに、サティはふっと微笑んで頷いた。
「ええ、大丈夫よ。少し疲れたけど……レーベンは、もういない」
その証拠に、街を覆っていた奇妙な魔力圧──“沈黙の強制”が、完全に消えていた。
やがて、家々の扉がひとつ、またひとつと開いていく。
人々が顔を出し、驚き、そして――泣いた。
「……あの子のこと、思い出した……」
「名前が……戻ってきた……」
「昨日まで、忘れてたはずなのに……っ……!」
街の中に、“喰われたはずの存在”の記憶が、断片的に戻り始めていた。
だがそれは、完全な復元ではなかった。
戻ってきたのは“名”だけ。
姿も、声も、存在そのものは戻らなかった。
それでも人々は、ぽつりぽつりと、思い出の中の“誰か”の話を口にし始めた。
ルリが言う。
「やっぱり……サティの《大罪》は、“喰われた存在を記録から解き放つ”ほどの力なんだね」
「記録を戻すことはできても、現実には戻せない。でも、それでも……忘れられないなら、消えないわ」
そこに、老いた神官――イーグランドが現れる。
彼はかつての疲れた表情とは違い、どこか晴れやかな顔をしていた。
「……お前たちが“夜”を終わらせてくれたか」
「あなたの名前を呼ばれたとき、少し危なかったけれどね」
「フン……死に損なったよ。だが、もういい」
イーグランドは街の広場に立ち、静かに言葉を発した。
「星の堕ちた夜は、終わった。すべての者に、名が還るよう祈ろう」
そして、サティに向き直る。
「旅人よ、お前の名は?」
「……サティ・フライデー」
「忘れぬ。忘れぬよう、書き記そう。この街を救った、大罪の使い手として」
サティは微笑んで、首を振る。
「私はただ、誰かを忘れたくなかっただけ」
それ以上の言葉はいらなかった。
日が昇りきる前に、サティとルリは街をあとにした。
背を向けるふたりに、誰かが叫ぶ。
「ありがとう!」
サティは振り返らないまま、小さく手を上げた。
旅はまだ続く。
大罪の力が、彼女に何をもたらすのかも、まだ分からない。
けれど。
今朝のような“名前を思い出す朝”が、またどこかで来ると信じて。




