名前を呼んではいけないもの
朝が来た。
正確には、“光”が戻ってきた。
だがそれはどこか薄く、現実感に欠ける空だった。空気は重く、風すら通らない。
「……ほんとに、朝なんだよね?」
ルリが呟く。
昨夜、“白い者”に連れ去られた少女の痕跡は、どこにも残っていなかった。
街の人々は誰もその件に触れようとせず、まるで「最初からいなかった」かのように日常を続けていた。
「おはようございます」
サティが宿の主に声をかけると、老女はぎこちない笑みを浮かべながら返した。
「……ええ、おはよう。ごゆっくり滞在を……できるだけ昼のうちに」
その言い回しに、サティの眉がわずかに動く。
それは“親切”ではなく、“恐れ”からくるものだった。
ルリが小声で言う。
「ねぇサティ……この街の人、全員知ってるんじゃない? 白いあれのこと」
「ええ。でも“話せない”のよ。おそらく、口にすれば連れていかれる。だからみんな、黙っている」
それは直感ではなく、昨夜サティが試していた「観察魔術」の記録が示していた。
夜、“白い者”が近づくたびに、家々の内部の魔力反応が急激に沈静化していた。
まるで、恐怖を“強制的に沈黙”させるかのように。
「これって呪い、あるいは……」
「“封印”の類だと思うわ」
サティは外套を羽織り、ルリと共に街の奥、星の堕ちた痕跡があるとされる地へ向かう。
そこには、石碑があった。
だが、風化して読める文字はひとつしかなかった。
「レーベン」
「レーベン……人の名前? 地名? 魔物の名……?」
ルリが口にしかけた瞬間───
「それ以上、言ってはならない」
鋭い声が響いた。
ふたりが振り向くと、そこに立っていたのは初老の神官服を着た男。
目に宿る光は強く、ただ者ではないとすぐに分かる。
「この街では、その名を呼んではならぬ。名は力を持つ。特に、ここではな」
「あなたは?」
サティの問いに、男は答える。
「……私は、イーグランド。この街の“封じ手”だ」
サティの心に、ひとつの仮説が浮かぶ。
「つまり、あなたは──あの白い存在を“封じている”?」
男は目を細めた。
「……否。封じようと“し続けている”にすぎん。あれは滅びぬ。名を持ち、意思を持つ“災厄”だ。空から堕ちたものの化身……そして、“星を喰うもの”」
「星を……喰う……」
その言葉に、サティとルリは息をのむ。
「今夜も現れるのですか?」
サティが尋ねると、男───イーグランドは、静かに頷いた。
「連れ去られた者は、決して戻らぬ。だが、もし“あれ”を捕らえることができれば……真実に近づけるかもしれん。覚悟があるのなら、夜までにこの符を持て」
男は、古びた護符を二枚、手渡してきた。
「それは“レーベン”に名を呼ばせないための封じ札。気をつけろ。名前を呼ばれれば、今度は君たちが喰われる」
空は、昼だというのに灰色に濁り始めていた。




