静かな湯の夜、灯るもの
湯気に包まれた夜のユグノ温泉郷は、まるで別世界だった。
石畳の小道には、ふんわりとした提灯の灯りが並び、遠くの川沿いでは湯の精霊に祈る歌声が細く流れている。旅館『白雲の宿』の中庭にある露天風呂は、静かで落ち着いた雰囲気だった。
「ふう……生き返る……」
湯に浸かったサティ・フライデーは、心からそう漏らした。
肩まで浸かる湯は少し熱め。旅の疲れがゆっくりと溶けていくようだった。
横では、ルリ・クレインが湯面に手を浮かべて、小さく笑っていた。
「こんなにゆっくり湯に入るの、久しぶり……。サティ様、眠くなっちゃいません?」
「少しだけ。でも、まだ寝ない。……この空気、もったいないから」
湯気の向こうに、灯りが揺れている。どこか幻想的で――
サティは、この旅に出てから初めて、「立ち止まること」を選んでいた。
少しして、二人は湯から上がり、浴衣姿で縁側に並んで座った。
目の前の中庭では、木々の間から月が覗き、風が草を揺らしていた。
「ねえ、ルリ」
「はい?」
「もし、全部が終わったら――また、こういう場所に来たいな」
「全部、とは……?」
サティは目を伏せる。
「ルメリアも落ち着いて。魔国も、人間の国も、今よりほんの少しだけ分かり合えて。私たちも、自分の役目を果たして――そのあと」
「“ふたりで、温泉に”……だよね」
「……うん」
ルリは、少し照れたように笑った。
「その時は、もう少し豪華な宿にしましょう。サティさんのために、いいお酒も用意します」
「私、強くないわよ? お酒」
「大丈夫です。隣に私がいますから」
サティは笑って、肩をすくめた。
そんな何気ない会話が、今の彼女にはなによりも心地よかった。
その夜、部屋に戻っても、すぐには眠れなかった。
窓の外ではまだ、湯の街の夜が静かに続いている。
サティは窓を開け放ち、月を見上げた。
風が頬をなでていく。
「……浮かぶ街、か」
かつて、ほんの思いつきで描いた未来。
空に浮かぶ都市ルメリア。
すべてを見渡す場所に、人が集い、笑い、癒される場所。
今はまだ遠い夢。
けれど、いつか――。
サティは、そっと胸に手を置いた。
その鼓動が、確かに未来へ向かっているのを感じながら。
「ルリ。明日は、少し寄り道しようか。……この街の朝市、見てみたい」
「もちろん。時間は沢山ありますから」
そう、今はただ。
この旅路を、少しずつ、歩いていこう。




