影のささやきと結界の夜
夜が、村を包みこんでいた。
サティは老女の家を拠点に、魔術陣を刻んだ。風と光の結界を二重に張り巡らせ、特定の方向に注意を集中させる――言うなれば、罠のようなものだ。影を“誘い”、その正体を暴く。
「ルリ、準備できた?」
「いつでもいけるよ。……来るの、わかる気がする。空気が変わってる」
ルリは窓の外を見ながら、腰の短剣に手を添えた。黒曜石のような刃は、魔力を伝導しやすくする加工が施されている。
サティは結界の中心に立ち、静かに呼吸を整える。
深い闇。重たい沈黙。
その中に――かすかに、靴音のような“タッ、タッ”という音が混じった。
誰もいないはずの夜道に、人の歩く音。
ルリが息を呑んだ。
「来た」
窓の外、空気が揺れる。濃い夜闇の中から、黒い“何か”が、じわじわと滲み出すように現れた。布のように風にたなびき、形を定めず、音もなく滑るそれは、まさに“影”。
サティは魔術陣の縁に片手を当て、魔力を集中させる。
「識別展開――霊視」
目に見えないものを視認する魔術。霧のようだった影が、緑がかった輪郭を帯びて浮かび上がった。
そこにあったのは、人の顔だった。
否、顔だった“もの”だ。
まるで人の皮膚だけを引き伸ばしたかのような歪な形状。目も鼻も、笑っているような口元もあるのに、そこには感情というものが一切なかった。
「……こいつ、喋ってる……?」
ルリがつぶやく。
よく耳を澄ませば、どこからともなく声が聞こえていた。
――おいで。
――ここじゃない。
――向こう側に、安らぎがある。
――ひとりじゃない。ずっと、待ってた。
「これ、精神干渉型……っ!」
サティの額に汗がにじんだ。
この影は、人の意識に直接語りかけるタイプの魔性――意思を持つ“何か”だった。見た目以上に、危険だ。
「結界、維持できる?」
「大丈夫。でも時間の問題。強引に侵入してくるつもりみたい」
そのとき、影が動いた。結界の外周に沿って滑るように移動しながら、じりじりと圧を強めてくる。
それに呼応するように、外の闇が濃くなる。
村全体を覆うように、暗さが深まり、風の音が止んだ。
「……ルリ、見える?」
「ええ。こっちも、やるよ!」
ルリが短剣を抜き、魔力を込める。薄く光が宿り、影に向かって――投げつけた!
刺さると同時に、影の一部が裂ける。裂けた部分から、黒煙のような何かが噴き出して、虚空に消えた。
「効いてる!」
「でも、まだ来る!」
影は裂けたはずの部分をすぐに再生し、逆にサティたちの結界を圧迫し始める。老女の家の外壁が軋み、結界がぎしぎしと軋む音を立てる。
「第七術式、空間固定――楔!」
サティが詠唱を完了させると、地面から光の杭が数本、影の周囲に打ち込まれるように出現。影の動きを封じる。
しかし、次の瞬間。
――パキンッ!
何かが砕ける音。サティの結界が一部、破られた。
「……まずい」
家の中に、風とともに冷気が流れ込んでくる。
その風の中に、“笑い声”が混じった。
「ふふ、ふふふふふ……」
まるで、女の声のような、老人のような――性別すら曖昧な、不気味な笑い。
その声が、サティの背筋をひやりとさせた。
(この影……普通の魔物じゃない。これは、何かの“使い”だ)
彼女の脳裏に浮かぶのは、古い伝承。パステコ公国の南部で、百年前に滅びた村があったという話。その村を滅ぼしたのは、“影に憑かれた領主”だった。
(まさか……この影、“あの時”の……?)
影が、再び蠢く。
サティは結界の再展開を準備しつつ、ルリに告げる。
「この村、放っておけない。原因を突き止めて、封じなきゃ……パステコに行く前に」
「上等だよ。あたしは、あんたの剣なんだから」
影が、扉を叩く音が響いた。
サティの目に、揺るがぬ光が宿る。
「……なら、斬るわよ。“この世にあってはならない”ものを」
夜は、まだ長い。
けれど、それでも彼女たちは、歩みを止めはしない。




