影の名を持つもの
「パステコ公国へ向かう途中……こんな村に、まさかこんなことが起きてるなんて」
ルリは床に倒れた青年の容態を確かめながら、眉をひそめた。発熱、衰弱、そして――意識はあるが、言葉が断片的にしか出てこない。
「……夜になると、“影”が現れるんです……外に出た人が、みんな、消える……」
老女の手が震えていた。指先は爪が割れ、布の端をぎゅっと握りしめている。
サティは窓から外を見た。太陽が、ゆっくりと沈んでいく。夕闇が迫る。
「その“影”って、どんな姿なんですか?」
問いかけると、老女はわずかに顔を上げた。
「黒い布のような……風のように、形を変えて……人の気配があるのに、姿は見えない。目を合わせた者が……“連れていかれる”……」
それは、スキルや魔術というより――もっと古く、もっと根の深い“呪い”のような話だった。
「サティ、今夜、ここで張るの?」
「うん。どうせ通るなら、放っておくことはできないし……それに、これ、きっとただの村の問題じゃない」
「……っていうと?」
「たぶん、この“影”――パステコ公国に繋がってる」
その目に、かすかな確信が宿る。
古い時代の文献の中に、サティは似たような記述を読んだことがあった。かつて、パステコ公国が“霧の結界”に包まれた時期――影の兵と呼ばれる存在が、民を惑わし、王家に呪いをかけたという。
(もしそれが事実なら……)
「パステコに行く理由が、ひとつ増えたわね」
「やっぱり“観光旅”なんて一日で終わりだったか」
ルリが苦笑する。
「ねえ、サティ。夜が来るわよ」
「準備しましょう、“影”が来る前に」
窓の外、日は完全に沈んだ。
静寂の中に、風の音が混じりはじめる。
それはまるで――誰かが、村の家々の間を“歩いている”ようだった。




