風巫女の記憶⑤
──風の神殿・最奥部──
風の記憶が消え去ったあとも、神殿の空気はどこかざわついていた。
「……あの風の揺らぎ、何かが目覚めようとしてる」
サティは扉の奥へと向かいながら、手のひらに感じる風の“ざわめき”を感じ取っていた。ラーナ──かつて風巫女と呼ばれた彼女が託した記憶。それは単なる過去の断片ではなかった。
「サティ、これ……!」
ルリが扉の先の床を指さす。そこには、風の紋章を中心に封印術式がびっしりと刻まれていた。中央には──黒く、染みのように広がった“裂け目”がある。
「……魔素汚染?」
「違う。これは……古代の災厄。ラーナが封じようとして……できなかった“風災”の残滓よ」
サティの声がわずかに震える。ラーナの記憶にはなかった、彼女が語らなかったもう一つの真実が、ここに眠っている。
そのとき。
「──よく来たな、後継者よ」
地の底から響くような声が、神殿全体を揺らした。風が逆巻き、紋章が一斉に光り始める。天井に浮かび上がるのは、風の神の象徴でもある《双翼の輪》。
「この声……まさか、“風の神”?」
「いや、違う」
サティは唇をかみしめた。
「これは……神を名乗る“何か”。ラーナが風の神だと信じた存在。でも、それは──」
その瞬間、床から黒い風が噴き出した。
“風災”──かつて一国を吹き飛ばしたとされる、暴風そのものの意志。ラーナが命を賭しても封じきれなかった災厄が、ついに目覚めようとしていた。
「逃がさないよ……!」
ルリが即座に対魔結界を張るが、黒い風はまるで意志を持つように結界の外側を滑っていく。
「試されているのよ、私たちは……風を継ぐ者として──!」
サティが前に出た。ラーナの記憶が彼女の魔力と重なり、風霊との共鳴が高まっていく。
「《風巫術・封嵐ノ律》──!」
風が唸る。神殿中の空気がサティの術に反応し、黒い風の動きを押さえ込む。けれどそれは──ほんの一瞬。
「やっぱり、ただの魔法じゃ……抑えきれない!」
黒風が空間を割くように暴れ始めた瞬間、ルリが飛び出す。
「だったら私が援護するよ! サティ、いけっ!」
「ルリ──!」
ルリの詠唱が響く。
「《風結界・重奏》──!」
二重三重に重ねられた風の結界が黒風の動きを束縛し、中心にサティの術式を集束させる。
「ここで封じる……! ラーナの意志を、継ぐために──!」
サティは、ラーナの記憶に触れたあのときと同じように、静かに目を閉じ、風に祈る。
『風よ。かの巫女の願いを覚えているなら、どうか、力を──』
刹那。サティの背後に“彼女”が現れた。
──ラーナ。
風の巫女は微笑み、ただ一言、囁いた。
「風は、正しき心に応えます」
その声とともに、風が変わった。
黒風は沈黙し、暴風は光へと変わり、すべてが──穏やかな、静かな風へと還っていった。
* * *
──神殿の外。
夕風が吹く丘の上、サティとルリは肩を並べて座っていた。
「……風、優しくなったね」
「うん。ようやく……ラーナの風が、解放されたのよ」
ルリが横を見て、そっと問いかける。
「サティ……泣いてる?」
「……少しだけ」
それは、祈りが通じた証だった。
ラーナの記憶は、風災を封じきれなかった悔いだけじゃない。想いを託せる“誰か”を待ち続けた、長い祈りの記録でもあった。
サティはそのすべてを受け継ぎ、風の巫女の意志を自分の中に確かに刻んだのだった。
──新たな風が、彼女の道を照らしていた。
(つづく)




