風の神殿と、封じられた囁き
翌朝、風は一層澄んでいた。
「……さすが神域の風ね。肌に触れるだけで、体の奥が整う感じがするわ」
「このあたりは『風の巫女』が祈りを捧げた土地なんです。
癒しと浄化の力が強くて、魔力の循環も安定しているらしくて」
朝食を済ませた私たちは、宿から徒歩で森へ向かっていた。
木々の間を抜けるたび、風のささやきのような音が耳をくすぐる。
「……確かに、この空気、少し不思議ね」
私の体内を流れる精霊の力が、風の音と同調しているのを感じる。
しばらくして、神殿が見えてきた。
風の神殿――
苔むした白い石柱に囲まれた、古い拝殿のような建物。
装飾は質素だが、どこか神聖で、厳かな気配に満ちていた。
「観光地って聞いていたけど……想像以上に静かね」
「今日のこの時間帯は、参拝者も少ないらしいです。
風の巫女にちなんで、黙って祈るのが習わしみたいで」
ルリが神殿の入口で手を合わせるのを見て、私もその横で目を閉じた。
……その時だった。
ふっと、背後の風が変わった。
空間がひと呼吸だけ、違う“圧”を持ったのだ。
私はすぐに気配を探る。
ルリも、祈る手を止めて振り返った。
「今の……?」
「感じたわ。微かだけど、魔力の揺らぎ。……それも、“不自然な”」
私はゆっくりと神殿の奥へ歩を進める。
祠の裏手にある細い通路。その先には、誰も近づかない封印の祭壇があると、宿の女将が話していた。
(観光では入れない場所――でも、行かなくちゃ)
***
祭壇の間は、石の階段を下った地下にあった。
薄暗い空間。
湿った空気のなかに、封じられた魔力の“名残”が漂っている。
中央には、古代文字で刻まれた石碑。
その表面には、今も封印の紋章が微かに輝いていた。
「これは……“抑制符文”ね。
ただの結界じゃない。“意志を封じるため”の封印……!」
「意志、ですか?」
私はルリに頷いて答える。
「これは、ただ力を閉じ込めているんじゃない。
誰かの“思考”や“記憶”のような、魂に近いものを沈めるための構造……」
言葉を言い終える前に、私は息を呑んだ。
――そのとき。
ルリが、ふらりと前のめりに崩れかけた。
「……ルリ?」
「だ、大丈夫……。ちょっと、頭の奥が、ざわついて……っ」
「無理しないで。……戻りましょう」
私はすぐに彼女の肩を抱えて支えた。
けれど、ルリはかすかに震えている。
そして――その額に、わずかに光る文様が浮かびかけていた。
(これは……)
見覚えのある模様。
“封印”と“器”に関わる刻印。
「ルリ、あなた……何か感じた?」
「……聞こえたんです。声が。
――“おかえり”って……私に、語りかけるような……」
ルリの声は震えていた。
けれど、その瞳はただ恐れるだけではなかった。
(まさか……この神殿、ただの観光地じゃない。
ここには、“かつての何か”が眠ってる)
私は周囲の気配を再確認した。
魔力の残滓が、空気の流れとともに静かに蠢いている。
「一度、宿へ戻りましょう。
……この神殿、もう少し本格的に調べる必要がありそうね」
「はい……ごめんなさい、足を引っ張って」
「違うわ。むしろ“あなたが感じた”ということが、鍵になる。
ルリ……また、あなたの中の“何か”が反応してる」
ルリは、何も言わず、ただ小さく頷いた。
その夜。
宿に戻ったあとも、ルリの記憶には“あの声”が残っていた。
夜風に紛れて聞こえた、低く、やさしい“何者か”の囁き。
――「おかえり、器よ」
ルリの中に、再び眠る何かが動き始めていた。




