風の郷ノールヴィス ― 温泉と微睡みの午後
「ようこそ、風の郷へ」
駅に降り立った瞬間、私は深く息を吸い込んだ。
透き通るような空気。高原特有の乾いた風。
草の匂いと、ほのかな花の香りが鼻をくすぐる。
「……いいところね」
「ええ。ここは風の祝福を受けた地なんです。
古くから、“癒しの風の宿”と呼ばれていて……」
ルリが丁寧に説明してくれる。
旅の案内役を自任している彼女の姿は、少し誇らしげだった。
私たちが泊まる宿《風花の庵》は、駅から徒歩で十分ほど。
木造の建物で、静けさを湛えた佇まいだった。
出迎えた女将が、笑顔でこう言う。
「ご予約いただいていた“離れの特別室”、ご案内しますね。
風の音しか聞こえない、静かな場所ですよ」
「……最高の選択ね、ルリ」
「ふふっ。頑張りましたから」
部屋は見事だった。
広々とした和風の空間に、露天風呂付きの庭。
窓を開けると、風鈴の音がわずかに鳴り、涼やかな風が頬を撫でた。
「それじゃあ、ひと休みして……温泉、入りましょうか?」
「そうね。身体をほぐして、心もね」
――湯煙に包まれた、静かな時間。
私は湯に身を沈め、ゆるりと息を吐いた。
日々の緊張が、じんわりと溶けていく。
対岸の湯舟では、ルリが肩まで湯につかって目を閉じている。
銀の髪が湯気に濡れて、わずかに頬が紅潮していた。
(……よくここまで来たわね、私たち)
ギルドで出会った頃のルリは、笑うことも少なかった。
ただ黙々と職務をこなし、誰とも深入りせず――
でも今、こうして温泉で微笑む彼女を見ていると、
“あのとき”の選択は間違っていなかったのだと、心から思える。
「……サティさん」
目を閉じたまま、ルリがぽつりと口を開いた。
「ん?」
「こうして、普通にお湯に浸かって、風の音を聞いて、
……何も考えずにいられる時間があるなんて、昔の私は想像もしていませんでした」
「……そうね。
私も、ずっと“終わらない戦い”が日常だと思っていたから」
「けれど、今はこうして、サティさんと一緒にいられる。
不思議ですね。
あの影に飲まれかけた私が、今ここにいて……温泉でのぼせそうになってるなんて」
「それは、のぼせる前に出ないとダメよ」
「……ふふっ。
でも、幸せってこういうことなのかもしれません」
私は小さく微笑み、頷いた。
夕食は、風の郷で採れた山菜と、川魚の塩焼き、地元野菜の煮物。
素朴で温かく、けれど心に沁みる味だった。
食後、私たちは部屋の縁側に腰を下ろし、星を眺める。
「明日は、森の奥にある“風の神殿”に行ってみましょうか」
ルリが言う。
「ええ。あの森には……気になる“気配”もあったし」
「やっぱり、気づいていましたか」
ふたりの間に、静かな緊張が走る。
それでも、今夜はまだ穏やかでいられる。
今はただ、この風と星と、紅茶の香りを――
「サティさん。今日、ひとつだけ言いたかったことがあるんです」
「なに?」
ルリは静かに目を伏せ、少し迷ったあと、そっと呟いた。
「――一緒に旅をしてくれて、ありがとうございます」
私は微笑み、隣に座る彼女の肩に、軽く手を置いた。
「こちらこそ。……ルリが誘ってくれて、本当によかった」
風鈴が鳴った。
夏の夜風が、ふたりの心をそっと撫でていた。
だがその頃、
神殿の森の奥、封印の祠の裏――
誰にも知られていない空洞の中で、“それ”は目を覚ましていた。
黒き触手のような気配が、風に溶けるように森へと流れていく。




