風を抜けて、始まりの列車
「――本当に来るんですね、サティさん」
ルリの言葉に、私は頷いた。
列車の汽笛が、遠くで小さく鳴っている。
ルメリア中央駅。
喧騒から少し離れた場所にある、特別旅客用の小さなプラットホーム。
貴族や特使が使用する“静かな駅”だが、今朝は少しだけ賑やかだった。
「ふたりきりの旅よ。逃げ出すなら今のうちだけど?」
「……誰が逃げるんですか」
ルリは肩をすくめて笑った。
その顔には、いつもより柔らかな表情が浮かんでいた。
私はふと、彼女の装いに目を向ける。
(……似合ってる)
ギルド制服ではなく、ベージュの旅装に身を包んだルリは、新鮮だった。
銀の髪はひとつにまとめられ、首元には淡い青のスカーフ。
「何か、変ですか?」
「いいえ。……可愛いわ。旅人ルリも、なかなか」
「っ……そ、そういうこと言うの、ずるいです」
照れたように顔を背けるその仕草も、どこか新しい。
私たちは、これから数日間だけ日常を離れる。
戦いも、封印も、ギルドの喧騒も。
ただ、風と空と紅茶の香りを楽しむだけの旅。
特別列車は予定より5分遅れて到着した。
黒を基調とした優雅なデザイン。
車両の側面には〈アルシア・エクスプレス〉と刻まれている。
「乗客は私たちだけのようですね」
「貸切、ね。静かでいいわ」
私たちは車両の個室に案内され、窓際の向かいに座った。
座席のクッションは深く、窓の外には王都の街並みが少しずつ後ろへと流れていく。
「……出発ね」
「はい。これで、もう引き返せませんよ?」
ルリが言う。
私は静かに目を細めて答える。
「いいえ、引き返すつもりなんて最初からないわ。
この旅は、私にとっても“必要な時間”だから」
「……私もです」
車掌が紅茶を運んでくる。
ルリがさっとカップを受け取り、私の分を丁寧に注いでくれる。
「この列車、以前フィーネさんと来たことがあるんです。
風の郷へ向かう特急で、途中で見える渓谷が絶景で――」
ルリが話し始める。
その表情はどこか、子供のように嬉しそうで。
私は黙って、彼女の声に耳を傾けた。
静かに揺れる列車。
紅茶の香り。
遠ざかる王都と、近づく風の郷。
この旅が、私たちに何を残すのかは分からない。けれど、少なくとも今この瞬間――
私は、誰にも縛られずに笑っていられる。
(ありがとう、ルリ)
数時間後。列車は渓谷地帯を抜け、目的地の手前に差し掛かる。
そのとき。
「……サティさん、見てください」
窓の外、風が揺らぎ――空間が、一瞬だけ歪んだように見えた。
「……魔力の残滓?」
「はい。けれど……これは、人のものではありません。
……“何か”が、あの森の奥にいる」
私は静かに目を閉じ、気配を探った。
(……気のせい、じゃない)
穏やかだった旅の始まりに、わずかな異変の兆し。
でも――今はまだ、気づかないふりをしてもいい。
「行きましょう、ルリ。温泉と、絶景と……紅茶のある場所へ」
「ええ。……その先に何があっても、私はサティさんと一緒ですから」
列車はゆっくりと、目的地へと滑り込んでいく。
ふたりの旅が、ようやく本当の意味で、始まりを告げた。




