旅立ち前夜、紅茶の香る静寂
ルメリアの夜は静かだった。
ギルド本部の執務室。
その一角で私は書類を閉じ、椅子の背にゆっくりと身を預けた。
窓の外、月が高く昇っている。
魔国から戻ったばかりの私は、ほんの少しだけ疲れていた。
けれど、それ以上に――不思議な安心感があった。
(会えてよかった、セレナに)
彼女は何も言わなかったけれど、確かに心の奥で何かを託そうとしていた。
その“何か”が、今も胸の奥に残っている。
「……明日から、少し遠出ね」
私は立ち上がり、サイドテーブルに置かれたティーカップを手に取る。
夜の紅茶――ルリがいれてくれたものだった。
「お疲れ様です、サティさん。あしたの準備、しておきますね」
夕方、そう言って少し照れたように笑っていたルリの顔が脳裏に浮かぶ。
彼女もまた、変わった。
影に呑まれかけ、それでも自分を取り戻した少女。
もう“守られるだけ”の存在ではなく、これからは“隣に立つ者”として歩いていくんだろう。
(きっと、旅の間にも気づかされることがある。……私自身についても)
私は紅茶をひとくち啜った。
ほのかにラベンダーの香りが混ざっている。
(気が利くわね、ルリ)
ふと、扉の向こうから気配がした。
ノックの音。
「どうぞ」
「……サティさん、まだ起きてるかなって思って」
ルリだった。
いつもの制服ではなく、柔らかい室内着姿で、銀の髪をゆるく結んでいる。
「あした、早いですけど……その、なんとなく」
「来てくれてうれしいわ。もう1杯、紅茶いれる?」
「いえ、私が……いれます」
彼女は部屋に入り、慣れた手つきでポットを温め始める。
「サティさん、旅先で……行きたいところ、ありますか?」
「そうね……景色が綺麗なところ。あと、美味しいものと、温泉」
「温泉……」
ルリは少しだけ頬を染めて、小さく笑った。
「それなら、私がとっておきの場所をご案内します」
「……ルリが、私を?」
「ええ。たまには、私が“エスコート”する側で」
私は少し驚いたあと、ふっと笑った。
「頼りにしてるわ。ルリの旅は、きっと丁寧で優しいものになりそう」
彼女は小さくうなずいて、湯気の立つカップを私の前にそっと置いた。
「明日から、よろしくお願いします。
――旅の間だけでも、“一人の私”として見てください。
封印の巫女じゃなく、ギルドの受付でもなく……ただの“ルリ”として」
「……ええ。
私も、“領主”や“守護者”ではなく、
あなたの“旅の同行者”として、隣にいるわ」
沈黙が流れる。
けれど、それは気まずさではなかった。
温かな空気の中で、私たちは同じ月を見ていた。旅立ちの朝は、もうすぐ。
静かに、確かに――ふたりの距離が縮まり始めていた。




