サイドストーリー:『水鏡に映るひとりごと ― セレナ・アゼレイドの章
空を映す湖のほとりに立つと、私は自然と深く息をついた。
――黒の水鏡。
ここは、私がまだ感情を制御しきれなかった頃によく来た場所。
怒り、哀しみ、混乱――どんな感情も、この湖だけは静かに受け止めてくれた。
風が緩やかに吹く。
空には雲ひとつない。
けれど私の胸の奥では、いくつもの思いが重なり、波紋のように揺れていた。
(……本当に来たのね、あなた)
足音は聞こえなかった。
けれど、風の匂いが変わった瞬間、私は気づいた。
背中越しに声をかける。
「……相変わらず、勘が鋭いわね、サティ」
振り返った彼女は、変わらず清廉で、どこか穏やかな眼差しを向けていた。
何度も夢に見た。
この湖で、もう一度彼女に会う光景を。
「久しぶり。元気そうね」
私の問いに、彼女は軽く笑って頷く。
「封印騒ぎ、見ていたのでしょう?」
「ええ。結界が軋むのを感じた。……けれど、それが“戻ってきた”合図だと気づいて、安心した」
私は気づいていた。
私が、彼女に――サティに安心するようになってしまったことに。
それは、私にとって最も危険な感情のはずだった。
人族に情を抱くなど、かつての私なら断じてあり得なかった。
「あなたのような存在が、世界の中心にいたら……争いも歪みも、もっと穏やかだったと思う」
本音だった。
けれど、口にした瞬間、どうしようもなく心がざわつく。
彼女が敵だったこと。
そして、もう敵ではないこと。
(もし、彼女と出会ったのが“あの頃”じゃなかったら――)
そんな“たられば”を考えるのは、私らしくないと分かっている。
それでも、今の私は、それを考えてしまう。
「次に会う時、もしあなたと私は敵対していたら……その時、私はあなたに剣を向けられるか、自信がないの」
私の中で、それは“弱さ”だった。
でも同時に、“祈り”だった。
もう、争いたくない。
もう、彼女を失いたくない。
(本当は……一緒にいたい。もっと、近くで)
けれど、その想いは口にしてはいけない。
私は魔族の参謀。魔王の右腕。
サティは、人族の希望。ギルドの守護者。
だから――私は背中を押すしかなかった。
「あなたと話せる今のうちに、“感謝”を。
あなたがこの世界を選んでくれて、ありがとう」
それだけが、どうしても言いたかった。
彼女は優しく、けれどどこか意志の強い瞳で私を見つめる。
「……ありがとう。また、会いましょう。今度は――“戦場”以外で」
そう言って背を向ける彼女を、私は黙って見送った。
その背中に、何かを投げかけたくて――けれど、言葉が出なかった。
(ずるい人ね……。どうして、あなたはそんな顔をするの)
風が吹き、髪を撫でる。
ひとり、湖のほとりに残された私は、小さく呟く。
「……ほんの少しでも、私のことを考えてくれたらいいのに」
誰に届くこともない、ひとりごと。
黒の水鏡は、何も言わず、ただ空を映し続けていた。




