夢の番人
勲は私の片腕だった。浅草の喫茶店が仕事場で、私がチーフバーテンで勲がセコンド。これは腕の差ではなく、その店でのキャリアの差だった。勲は今、ヨットに嵌っている。私もかつて、ヨットでの活動を仕事としていた。現役バリバリの勲は季節が来ると必ず私を海へと誘う。私はその都度断っていた。行きたくなかった。私にはヨットで、人を殺した過去がある。それを知らない勲は、今年も私を海へと誘う。
「行ってみようかな」
私は声に出さずにつぶやいていた。一度、あの海に行けば、多少、拘りが薄れるのではないか。近年、そう思うことも屡々あった。ついさっき、勲の声を借りて私を海へと誘ったのは、確かに奴だった。その声が力づくで私を海に引きずり込もうとしているようだった。
「おまえのヨットは、どこにあずけてあるんだ?」
私はついに、声に出して言っていた。
「おう、やっと行く気になったか。そりゃ、愉しみだ。ヨットは佐島に置いてある。そう大きくはないが、いいハーバーなんだ。そうか。とうとう行く気になったか。タイミングもいい。明日は大島まで行こうと計画していたところだ。仲間が四人いる。みんな手練れだよ。おまえは客として、一日中デッキに寝そべっていればいい」
「風向き次第だろうが、夏は基本、初島経由だろう」
「愕いたな。おまえ、何でそんなこと知ってるんだ?」
「いや、別に、唯の勘だよ」
「勘、ね。まぁ、どうでもいいが、どうやら俺が睨んでいた通りのようだな。おまえは海に精通している。それなら猶いい。客としてではなく、お前も明日はクルーとして乗れ」
「いや、俺は一日中寝ている。お客様に徹するよ」
「おまえに前々から感じていた暗さのようなのは、どうやら、海に関係しているようだな。ま、いいだろう。詮索はしない。俺にだって、たとえおまえにでも言えない秘密の一つや二つはある。とにかく、俺は仕事を終えですぐ、今夜中に佐島に向かう。おまえは明日朝一番の電車で来い」
勲は上機嫌でまくしたてると、仕事終了を待ち兼ねていたように、スキップしながら駅に向かって駆け出していた。
バスは芦名に停車した。アスファルトの坂道を下り始めた。芦名のバス停から佐島まで、私は敢えて歩くことにした。それにしても勲が佐島にヨットをあずけてあるとは、奇妙なというか因縁めいた偶然だった。これはやはり、奴が導いている。そう思わずにはいられない。一九七八年。夏。十年ぶりだった。これまでの自分との葛藤はどうあれ、今、こうしてこの地に立った以上は、じっくりと足の裏で十年前を思い出そうとしての歩きだった。記憶を手繰り寄せながら、ゆっくりと歩いた。腕時計の針がもうすぐ午前九時になるところだった。勲との約束の時間は十時だった。私は海を見ながら歩いた。潮を含んだ風が吹いている。指先を舐めて眼の前に翳して風を読む。風向、南。風力毎秒三~四メートル。ほぼ、狂いはないだろう。ヨットセーリングには絶好の風が、伊豆南端の下田のほうから吹いていた。右手に富士山がくっきりと見えている。真南からの風では、大島への直進は無理だった。やはり、初島経由だな。そうなると、クロスホールド(上り一杯)か。風を測った指先を眼の前に垂直に立て、舳先に見立てた。何もかもが十年前にいるようだった。出入り口で待っていた勲に導かれ、私はハーバーの中へ足を踏み入れた。ヨットはすでにハーバー内の陸地から海に降ろされ、ポンツーン(浮き桟橋)に繋がれていた。むろん、クルーザーだった。キングフィッシャー十二フィート。私はそのクルーザーヨットを眼にした瞬間、想定外の偶然に束の間戦慄し、その場に佇んでいた。十年前、私を浅草の場末の片隅に追いやる事件を起こしたときに乗っていた、あのクルーザーと同型のヨットが、ハーバー内の凪いだ海面に浮いていた。不意にあの日の夜の生々しい光景が、私の脳裏を突き抜けていく。
「どうかしたか?」
勲はうろたえを隠し得ないままに呆然と立ち尽くす私の顔を覗き込む。
「いや、何でもない」
「そうか。何でもないにしちゃ、気分が悪そうな顔してるじゃないか」
「大丈夫。俺は海に出るときは前もって船酔いするタチなんだ。気にしないでくれ。それより早くみんなに紹介してくれ」
私は自分を叱咤しながら、努めて平静を装った。勲は猶も訝し気な表情ながらも、無言でうなずき、冗談まじりに私をクルーたちに紹介した。クルーたちは一斉に拍手して私を迎えてくれた。私はそんな海の男たちの歓迎に、腰を深く折って一礼しただけだった。
キングフィッシャーはメインセル(主帆)とジブセル(前帆)を思い切り引き込み、初島に舳先を向け、走り始めた。クロースホールド。艇は一定のヒール(傾斜)角度を保ちながら、風上すれすれのコースを維持していた。勲が自慢した通り、クルーたちは私の眼にも手練れ揃いだった。全員の動きに無駄がない。海面を割るステム(竜骨)の切れ味もいい。左右に切り分けられた海面が、上質の霜降り牛肉のような細やかな泡を散らしながら、後方へと飛んでいく。私は狭いスペースに胡坐をかき、十年も耳にしていなかったヨットと海が触れ合う音を聞いていた。前方に圧倒されるほどに高く聳える富士山がある。携帯ラジオから流れるポップスが、波とヨットが奏でるざわめきのような音に巧みに調和していた。十年前のあの日もそうだった。胡坐をかき、デッキに肩肘つき、海と繋がっているような空を見ていると、中天に浮遊する雲が、私に当時の光景の一齣一駒をゆっくりと運んでくる。あの日も今日に似て、喰い込むような夏の陽光が肌に染みて痛かった。鳥肌がたつほどの偶然ではあるが、私はあのころ、この佐島のハーバーで働いていた。高校時代にヨットに咬まれ、その魅力を断ち切ることが出来ずに、伝手を頼ってこのハーバーに来た。好きなことで飯が喰える。私は満足していた。気ままに二年ほど過ごしたある日のことだった。私は歳下の同僚たちに伊豆大島までのクルージングに誘われた。魅力的な誘惑だった。艇はハーバー所有の小型クルーザーだった。日々、ディンギータイプのヨットセーリングで、しかも、素人同然の客が相手だったので、正直なところ、飽きていた。そんなときのクルーザーへの誘惑は堪らなかった。
夏真っ只中はハーバーの書き入れ時なのに、クルーザーを貸し、二日間も休みを許可したハーバーの奇跡的な出来事に応えなければ必ずや罰が当たる。多少の逡巡はあったが、私は彼らからの誘いを受け入れていた。全員がディンギータイプなら過剰なほどに自信を持っていた。だが、小型とはいえ、クルーザ体験はない。私も小型艇を毎日操っていたが、他に、七十トンはあるハーバーオーナー所有の超大型クルーザーヨットのクルーでもあり、寝食は毎日、その艇でしていたことから、彼らは航海の軸にしようと私を誘ったようだった。私たちはハーバーを出てすぐ、セールアップした。空は透き通るような青が四隅を切り、異様に高かった。べた凪ぎだった。初島までは風を探しながらの航海だった。私はうんざりし、バウデッキに坐り、動きのない海を見ていた。久志が欠伸をしながら近づいて来た。
「こんなにも風がないと、予想以上に時間がかかりそうですね」
久志はサングラスを気障な仕種で額のほうに持ち上げながら、九時方向に見えている大島を見ていた。島がくっきりと浮かんでいる。距離的にはすぐそこなのに、真っすぐにはいけないことが、風頼りのヨットの特性だった。
「そうだな。今日中に何とか着けるかな。ところで、どこに着けるんだ?」
「ええ。元村に俺の友だちの家があるんです。なんでもでっかい旅館の一人息子で、一度来いって前々から誘われていたんです。奴はまだ大学生ですが、今、夏休みで島に帰ってるんですよ。ボンボンで、とてもお人好しのいい奴なんです。今夜はその旅館に泊まって、明日の朝早く、島を出ましょう」
「久志、旅館に泊まるって、おまえ、誰もそんな金持ってないだろう。ヨットで充分だろう。食い物は積んであるし、一晩ぐらいなら困りはしない」
「諭吉さん、そんな心配しなくていいですよ。俺、奴のこと、ヨットや何やらでかなり面倒見てるんですから。金なんて一円だってかかりませんよ。まぁ、そんなことは心配しないで、スキッパー(艇長)であるこの俺に任せておいてください」
日ごろから見栄っ張りの久志らしい物言いだった。私は苦笑しながら、沖のほうに視線を移した。久志はスキッパーの俺に任せて、と言ったが、他の二人は私にそれを望んでいた。だが、所詮は遊びでのクルージングだった。それならこのクルージングの言い出しっぺである久志にスキッバーを任せればいい。久志を選んだ理由はその程度のものだった。
「ちょっと、静か過ぎますね。これじゃ、ヨットの醍醐味が味わえない」
たしかにその通りだった。ヨットには絶対的に風が必要だった。
「ところで、久志、ライフジャケットは準備してあるんだろうな。それに、万が一を考えて、シーアンカー」
慌ただしい出帆だったので、私はスタンバイにタッチしていなかった。久志はそう言った私を呆れたように見て、
「そんなもの、今日のような凪ぎた日で、俺たちクルーはベテラン揃い。まったく必要ないと思ったものですから」
久志は一つ歳上の私に対し、敬語を使いながらも、どこか見下しているようなところが見え隠れする。
「判らないぞ、海は。一時間後には急に荒れることもある。大島周辺はほんの一瞬で小さな低気圧が発生すると、船乗りをしている俺の親父も言っていた。あの辺りの海域には魔のトライアングルがあるってのは有名な話だからな」
「諭吉さんは俺と一つしか違わないのに、いやに心配性なんですね。大丈夫ですよ。それに低気圧でも何でもいいから、風が吹いてくれないと、何のためのクルージングか判りゃしない」
少し傲慢とも思える口調で言い放つ久志の態度に微かな反発を覚えながら、私は敢えて反論しなかった。海は相変らず凪いでいたが、それでも佐島のハーバーを出てから八時間後に、初島手前でタッキングし、舳先を大島に向けた。そこからは、秒速三、四メートルの、ヨットにとっては絶好の風に恵まれ、やや追い風を受けて進む艇は、やっとヨットらしい走りで元村を目指した。海上に薄い靄がかかり始めたのはそのころからだった。それまではくっきりと視界にあった大島が霞み始め、視界は一気に一キロ未満になり、靄から霧になっていた。その何とかギリギリに見える海上を、大型タンカーが舳先を沖に向けて横切っていく。私たちは多少緊張し、左右の船影に気遣いながら、大島への航路を維持していた。チャート(海図)に線引きし、元村への航路を決めたのは私だった。二時間ほど帆走した。前方に微かにではあったが、灯りが見えた。もうすでに夜で、周囲の海上を覆う霧に夜の暗さが合わさって、闇が分厚くなっていた。曲がりなりにも一応目的を達成した歓びが全員の表情にも表れていた。私たちは霧の中に幻のように揺れる灯りを頼りにヨットを前に進めた。港には無事着いた。私たちはいかにもベテランの船乗りのように、笑みを浮かべてキングフィッシャーを港の堤防に舫った。だが、何となく違和感があった。どこかがおかしい。伊豆の大島への上陸ははじめてではあったが、しかし、過去に知識として把握していた元村港とはどうも違うような気がしてならなかった。大島ー東京間を航行する大型連絡船が発着する港としては余りにもこじんまりとしていた。私は港の風情を眼にして、少し不安に包まれていた。上陸し、四方を見回すと、民家の軒下の灯りに照らされて、私たちを見ている一人の島民の姿を確認した。私たちはその家に向かって歩き始めた。夜なのに軒下に数ハイの烏賊が干してある。烏賊は秋からが旬なので、ハシリといったところだろうか。庭に足を踏み入れた。私はこの港は元村なのか、といかにも漁師然とした初老の男に訊いた。漁師は目尻に皺を寄せながら私の顔を呆れたように見て、
「コンパスがぶっ壊れているんじゃないのか。ここは元村じゃねえ。岡田だよ」
私は漁師の口を突いて出た言葉の意味を、束の間理解出来ないでいた。漁師は訝し気に私の顔を見ていた。直後、私は絶句し、言葉を失っていた。ずっと昔は岡田港が連絡船の港だった、とは聞いたことがある。だが、今はそんなことは問題ではなかった。元村を狙い、岡田に着いたことが大問題だった。私の全身に震えが走った。クルーたちの顔も外灯の下で蒼褪めているように見えた。私たちは眼に見えない潮に流されていることにも気づかず、大島の西側にある元村を狙い、その元村と信じて艇を舫った港は、島の最北端に位置する岡田港だった。
あと一メモリ、コースが左に外れていたなら、私たちは前方に何一つ見えない太平洋のど真ん中へ舳先を向け、今ごろは大島と房総半島の間を、東に向かって走っているはずだった。それを想像した瞬間、背筋に悪寒が走った。一瞬にして全身を覆った鳥肌のような感触を、私は十年過ぎ去った今でさえ、そのまま全身に呼び戻すことが出来る。
勲の艇は毎秒四~五メートルの斑のない風を受けて、順調に初島に向けて走り続けている。私は相変らずデッキに寝そべり、ぼんやりとした眼で周囲を見回していた。何かと気遣いをみせていた勲だったが、今はもう、近づこうともしない。コックピットの中で、クルーたちと世間話をしながら、これからの予定なども織り交ぜて指示していた。私は余りの気持ちよさにうとうとし始めていた。クルーたちの笑い声にハッと眼覚めながら、現実が少しずつ遠ざかっていく。何分、そんな状態が続いたろう。私は半分眠った状態で、勲に言い忘れていた重大なことを思い出し、眼を開けた。陽光がビュンと眼の中を刺す。慌てて手で陽を遮りながら、コックピットにいる勲に振り返った。勲は口笛を吹きながら、上機嫌でティラ操作していた。
「勲!」
「おう、どうした? 暑過ぎて寝ていられなくなったか」
「いや、気持ちよく眠れそうだ。だから、熟睡する前におまえに頼みがある」
「何だ?」
「初島と大島の真ん中辺りの海域に入ったら、水をぶっかけてでもいいから、俺を起こしてくれ」
「それはいいが、あの辺りに何かあるのか?」
「いや、別に」
私は口ごもり、怪訝そうな眼で見る勲を無視して、再びデッキに寝そべった。
「呆れた奴だな。こんなくそ暑いってのに、奴はマジで一日中寝ているつもりらしい」
毒づく勲の口調に、クルーたちがドッと沸く。陽が狂ったように中天で燃えていた。細く眼を開けて見る空からの熱が、容赦なく全身を焼き、とりわけ眼の中は煮え滾っているように熱かったが、海面を這う風が帆に跳ねてデッキに流れ落ち、その涼感から受ける心地よさだけでも、クルージングの魅力を満喫させて余りある。私は手をのばし、デッキにあった薄汚れた船員帽を顔に乗せ、陽を防いだ。それで多少眩しさは消えたが、鋭い陽の線は帽子の網目を難なく突き抜け、瞼の内側をチカチカと飛び回る。それでも艇体に弾かれた波の音が聴覚を涼しくさせ、夜の生活に馴れ過ぎていて陽を拒む眼を冷やしていく。だが、陽熱は確実に私の体力を削いでいくようだった。全身が気怠さに包まれる。やがて睡魔がその倦怠感によく似た疲労の背後に見え隠れしながらそっと近づき、私を小刻みに揺すり始めていた。
船員帽を被った幼い子が私の前に坐っていた。暗くて狭い部屋の中だった。子供が私の顔を見て微笑んだ。その笑顔が何となく暗い。私は見つめてくる子供の顔を改めて見て息を飲む。その顔は紛れもなく、私の顔そのものだったからだ。子供の小さな手のひらに大きな錠前が乗っていた。その鍵を両手で弄びながら、子供はまだ、私を見つめて微笑んでいる。私も探るようにその顔を見た。
「たしか、岡田港に着いて、漁師と会話しているところまで、思い出しておりましたよね」
「誰だ、おまえは? 何故、おまえがここにいる?」
「僕、ですか。僕はあなたですよ。僕はあなたが毎晩夢を見る、夢の番人の中の一人」
「夢の、番人?」
「そうです。僕はあなたの過去に起こった厭なことだけをファイルする役回りで、あなたが必要なときにだけ現れて、それを夢の中で再現する。そうです。僕はあなたの、夢の番人なのです」
「馬鹿馬鹿しい。おかしなことを言うやつだ。まぁ、いい。まともに話を聞いていると、頭が変になる。だが、一つだけ訊いておく。ここは一体、どこだ? 何故、この俺がこんな迫っ苦しい部屋に閉じ込められている? ここは俺にはまったく、記憶にない部屋だ」
「はい。ここは実は、あなたの瞼の裏側にある一室なのです。今、あなたは夢を見ているのです。その夢の中で、あなたはこうして僕と話しているのです」
「そうか。たしかにそうだった。俺は今日、勲に誘われて奴のヨットで大島に向かっている途中だった。そのヨットで気持ちよくなり、ウトウトしていたんだった。そうか。俺は今、夢を見ているのか」
「そうです。今、あなたはまさに夢の中。そして、今から僕に案内されて、あなたは僕が管理している夢の画像をすべて見なければなりません」
「おまえはさっきから変なことばかり言う。夢の画像? 俺にはおまえが何を言っているのか、さっぱり判らない」
「簡単です。今から見るのは文字通り、夢の画像なのですから。あのときの、あの十年前の、あなたが未だに拘り続け、自責の念に捉われている過去の悪夢のすべてを見て、きれいさっぱり、くだらない拘りは解消していただきます」
「馬鹿なことを言うな。くだらない拘りだと? あの十年前のすべてをこれから見るだと? おまえは馬鹿なことを言い過ぎる。俺はあの海に来て、ヨットに乗り、その心地よさもあったが、本当は十年前を思い出しそうになり、それが怖くなって寝たんだ。頼みもしないのに、余計なことをするんじゃない」
「でもあなたの本心は、当時のすべてを思い出し、改めて総括しようと、今日、この海に来たのでしょう」
「それが大きなお世話だと言ってるんだ。いいか。おまえがあくまでもそんな嫌がらせをする気なら、俺は今すぐに眼を開ける。ああ、そうさ。俺は昔のことなど、ほんの一秒でも思い出したくはないんだ」
「いいえ。あなたは私がずっと管理して来た画像を見終わるまでは、絶対に眼を開くことは出来ないのです。だってほら、この通り、僕はあなたが眼を開けるために必要な鍵を持っているのですから。これこそが、今日のキーなのですから」
「ケッ! 面白くも何ともないことを言やがって」
子供は茶目っ気たっぷりに私を見上げると、
「僕の後ろの壁を見ていただきます。よく見ると、横に一条、細い光の線が見えているはずです。あれが現実の世界への境界線であり、門なのです。そしてここはあなたの瞼の裏側。この鍵がなくては、あなたは絶対に眼を覚ますことは不可能なのです」
私と瓜二つの顔をした船員帽の小人が、悪戯っぽく瞳を廻し、背後の壁の光の線に触れた指先を右から左へと滑らせた。すると、指先が通過した部分の光の線が消えていく。小人は私に振り返り、ニッと笑った。小人が私を見上げる。私は苛立ち、
「おまえはこの俺なのだろう。それならなぜ、俺が厭がることばかりするんだ?」
私は鋭い視線で小人の眼を見据えた。
「気持ちは判りますが、でも、あなたは当時の詳細を知りたくて、今日、この海に来ているのですよ。楽になりたくて来ているのです。僕はあなたの忠実な下僕。そんな僕の最も大事な仕事は、あなたが望んでいるものをあなたに与えてあげることなのです」
「たしかにそのつもりで来たことは認めよう。だが、もう、気が変わったのだ。今の俺はあの日のことなど思い出したくもない。いいか。余計なことをするんじゃない。これはおまえの主人としての俺からの命令だ」
「いいえ。あなたはしっかりとご覧にならなければなりません。あれは決して、あなたのせいなどではなかった。それだけはしっかりと認識すべきです。それにはあの日のことを復元させることが大事です。それですべてがはっきりします」
「もういい、と俺は言っているのだ。そんなもの見たくもない。俺はもう眼を覚ます。おまえのような薄気味悪い奴と馬鹿げた話をしているより、勲たちのやりとりを聞いているほうがずっといい。さっさとそこを開けて、俺を外に出せ。俺は海が見たい」
「海なら、これから見る映像の中にふんだんに出てきます。もう、聞き分けのないことばかり言うのはやめてください。あなたはもう、これから見る画像を見ないことには眼を覚ませないのですから」
「何故だ? おまえはおれの下僕のはずだろう。そのおまえが何故、この俺の言うことを聞こうとしないのだ」
小人はもう、頬を膨らまし、プイっと横を向いた。
「判った。何が何だか知らないが、それでも判ったような気になって来た。要するに、おまえはこの部屋では俺以上の権力者ということだな。よし、判った。いいだろう。だが、その前に一つだけお願いがある。映像は見よう。だが、未来の愉しいのを見たい。それに変えてくれ」
「それは駄目です。十年前のことが解決しないのでは、未来の愉しい映像などあり得ないでしょう。それに、そうした楽しい映像を管轄しているのは僕ではありませんので」
叱責するような強い口調の小人の迫力に押され、私は思わず後退る。すると不意に何かに躓いて腰が砕けた。瞬間、とてもやわらかいクッションが、私を包み込むように支えた。
「いい椅子でしょう。このように、夢の中ですから、万事そつなく進行して行くのです。さぁ、そろそろよろしいでしょう。ほら、耳を澄ませてごらんなさい。波の音が聞こえるでしょう。潮の流れる音も。いやいや、そう緊張なさらないでください。今、聞こえているのは十年前のものではありません。これは今日の波や潮、それに風の音です。今日は当時とは違い、何一つ心配はありませんよ。勲さんは危険を察知する能力に長けています。クルーたちも全員、手練れです。あのときとはすべてが違います」
小人は私の顔をチラッと窺う。
「さて、始まりますよ。夢の中で見るドキュメント動画。変ですよね。あなたは二重に夢を見ることになるのです」
私は大きくため息をつき、虚脱していた。受け入れるしかなかった。私は暗闇の中に貼られた白無地のスクリーンと、小賢しい顔で微笑む、船員帽の小人の顔を、何度か見比べていた。
「始まります」
と囁くように言う小人の口元を、私は敢えて舌打ちしながら一瞥した。画面が動き始めた。すぐに画が飛び込んで来た。岡田港に立つ、十年前の私たちの姿のアップだった。画面での私は漁師の家の庭先に立っていた。漁師と向き合っていた。
「ここは元村ですか?」
そう訊ねる私に、漁師は呆れ顔で応じてくれた。
「ここは岡田だよ。コンパス、壊れてるんじゃないのか」
そうだった。私が今日、勲のヨットに乗り、十年前の光景を記憶の中から手繰り寄せて観たシーンは、たしかにここまでだった。それ以上を見るのが厭で、私は猶も鮮烈に蘇る画を自ら強引に振り払うように、炎天下にも係わらず、眠りに入ったのだった。
画面は少しの狂いもなく、私の過去を再現していた。私は漁師の指摘に呆然としたまま、その場に立ち尽くしていた。顔が蒼褪めているのがはっきりと判る。傍らに立つ久志が私の顔を詰るような眼で見据えていた。
「諭吉さん、あんたがチャートに線引いてコースを決めたんですよ。まだ岡田にぶつかったからいいようなものの、あと少し左にずれていたら、一体、今ごろどうなっていたと思いますか」
久志に批難されるまでもなかった。私自身、久志に指摘されたことを想像し、全身を硬直させていた。久志の私をいかにも見縊ったような言い方にも、一言も言い訳出来なかった。
「海図でコースを測ったって、ここいらの海はでかい船ならまだしも、エンジンのない風が頼りのヨットでは通じない。視界がよくてこの島が見えているならともかく、今日のように前が見えないときには、潮の流れってものを計算に入れなければ駄目だ。黒潮の分流みたいなのが南から北へとかなりの速さで流れているんだよ、この島周辺の海は。おまえたちははじめてか?」
漁師が二人の間に割って入り、私と久志の顔を見廻した。久志は意に介さずチラッと私の顔を見て、
「ま、いいか。大島に着いたことに変わりはないのだから。おじさん、悪いけど、電話貸してくれないかな」
「ああ、いいよ。家に入んな」
当時はまだ、携帯電話などなかった。久志の馴れ馴れしい言動に、漁師は一瞬、顔を顰めていたが、元来がお人好しのようで、玄関のほうに歩きながら久志を手招いた。久志は大袈裟に漁師に向かって手を合わせ、その直後、思い出したように私に振り返り、
「あ、そうだ。諭吉さん、ヨットをちゃんと舫っておいてくださいよ。俺はちょっと電話借りて、元村の友だちに今の状況を報せて来ますから。今夜は奴の旅館に泊まりだし、元村まではだいぶ距離がありそうだから、念入りに頼みますよ、先輩」
久志はそう言い放ち、漁師の後を追い、遠慮する様子もなく家の中に入って行った。私のミスが出るまでは、海でも年齢的にも先輩である私に何かと気遣いしていた久志だったが、私のミスを巧みに利用し、他のクルーたちに自分の威厳をアピールしているようだった。私はそんな久志に対し、むろん、一言も反論出来なかった。私はとても恥じていた。と同時に、それまでは消えていた出帆前の不安が顔を覗かせ、それが一気に肥大した。これはヨットに限らず、海や船に係わる者にとっては最も恥ずかしい初歩的な過ちだった。そして、初歩的ではあるが、まかり間違えば、命取りになりかねない重大なミスだった。このことがこの先、四人の信頼関係に亀裂を生じさせることにはならないだろうか。
スキッパーは久志でも、もし事故にでも遭えば、当然、責任を問われるのはたった一つとはいえ歳上の私だろう。そんな私が最初からミスをした。言い訳にもならないことを言えば、私は潮流のことなどまったく考えていなかったし、知識もなかった。私にあるのは、湾内や外海でもハーバーから数キロ沖までの、日ごろ馴れ親しんでいるオーナー所有のクルーザーが客を乗せてセーリングする海域での体験ぐらいだった。
風が強くなってきた。気になる吹き方だった。霧が晴れた。暗闇の中で不気味に光り、不規則に蠢く海が姿を現した。私は徐々に海面が膨らみ始めている暗い海をじっと見つめていた。玄関の引き戸が開けられる音がした。振り向くと、電話を終えた久志が庭を斜めに横切り、私たちのほうに近づいて来る。その姿に得意げな表情が露骨に見えたのは私の気のせいばかりではないだろう。
「友だちがもうすぐ車で迎えて来てくれる。奴の家ではさっそく、俺たちの歓迎準備を始めているようだ」
久志はそう言うと、霧の消えた海に視線を移し、
「おっ、いい風が吹いてんじゃん。一乗りしたくなっちゃうな」
と上機嫌だった。私はそんな久志の一人芝居を何も言わずに見ているだけだった。久志は私たちの沈黙が気に入らないようだった。
「諭吉さん、判っているとは思うけれど、敢えてこの場で一言言っときますよ。これからはすべて、この俺が指揮をとりますからね。このことだけは覚えておいてくださいよ。こんなことは何度も言いたくないけれど、あんたは素人のような、しかも、とても重大なミスをしたんですから」
「判ってるよ。おまえがスキッパーだ。それに文句を言う奴は誰もいないよ」
私がそう応じたとき、他のクルーたちは久志の方を見ていなかった。何も聞いていないように、さらに闇を濃くしている海を見つめているだけだった。海は一気に荒れ始めていた。好ましい状況ではなかった。明日の朝早くに大島を出なければならない。陸が見えていての走行は容易い。だが荒天下でのうねりや波高は、視界を奪う。そうなるとコンパスだけが頼りになる。それ以上に問題なのは、岡田に着くまでに翻弄された、潮流の勢いだった。それを想像しただけで背筋が寒くなる。背後から玄関の戸が開く音がした。振り向くと、さっきの漁師が私たちのほうに歩いて来るのが見えた。軒下の外灯の光に引き寄せられたように、蛾が庭に大きな影を落としながら飛び回っていた。雑木林のざわめきが一段と激しくなっている。漁師は私たちの傍に来ると海のほうに視線を向け、
「今夜はだいぶ時化そうだ」
誰にともなく言った。
「時化ますか」
私も海を見た。
「ああ、時化る。間違いない。あと一時間も経てば、夜目にも三角波がはっきりと見えてくる。風も吹く。ほら、ついさっきまでの濃い霧がもうないだろう。それに見ろ。星が急に空から零れ落ちそうなほどに増えている。こんな夜は、絶対に海は手がつけられないほどに時化る」
「朝までずっと、ですか」
「ああ、朝まで吹くなぁ。だけど、陽が昇れば風は嘘のようになくなる。それでも波は二、三日残るけどな」
傍らで久志が私と漁師とのやりとりを胡散臭そうな眼で見ていたが、堪りかねたように、
「時化るったって、こんな近場の海の時化なんて、どうってことないじゃん。ほら、向こうの空を薄ぼんやりと明るくしているのは、三浦三崎あたりの町の灯りでしょう。これぐらいの風なら、二、三時間、セーリングするだけで、あそこまで届く距離でしかないのだから」
久志の口調は自信に満ちていたが、そのぶん、傲慢だった。
「この程度の風や波なら、おめえの言う通りだろう。だが、この辺の海を舐めるとえらい目に遭うぞ。大島周辺、とりわけこの辺りの海が狂うと、そんなことには馴れっこの俺たち漁師だって手も足も出ねえ。ここいらの海はなぁ、昔から魔の海域と言われているんだ。おめえは知らないようだから教えておくが、海を、いや、自然を少しでも舐めたらいかん。ここいらの海は普段でも流れが滅法強い。それに余計な事かもしれんが、教えておく。おめえがさっき得意そうに言ってたが、あの空が明るく見えるところは三崎じゃねえ。熱海の灯りだ。三崎の町の灯りなど、蛍のケッぐらいにしか見えねえよ。おまえは能書きは立派だが、海での方向感覚がまったくねえな。」
漁師は嘲笑気味に私たちを見廻した。漁師の言葉に触発されたように、そのとき私の脳裏に突然、遠い過去が蘇った。それはチリ地震により発生した津波が、私の生まれ育った島を襲ったときの光景だった。地球の裏側で勃った地震が齎した津波は、三陸に浮かぶ小さな島に、轟音を響かせて突進して来た。私は当時、中学一年だった。年齢的にはまだ子どもではあったが、漁師の家に生まれ育った子だった。私はその津波の一切を、慄きながらも、終始、眼を見開いて見続けていた。
「津波だ! 津波だぞ!」
獣のような形相と声で集落中に触れ回る漁師たちの勢いに、私は緊張を強いられた。津波などそれまで体験したことがない私は、恐怖心は感じなかったが、大人たちの声に奮えた。浜への小道を転がるように走り、私は大人たちの後を追った。海が視界一杯に拡がる断崖のてっぺんを右に下ると、漁師たちが船を置いている浜だった。一番後ろを走っていた漁師が、猶も後ろに続こうとしていた私たち子どもに両手を拡げて制したのがその場所だった。血走った眼をしていた。
「おまえたちはここまでだ。おまえたちはここから俺ぁたちと海との張り合いば、ようく、見とけ」
そう言い放つや、漁師は少しも躊躇うことなく急勾配の坂道を駆け下りて行った。浜に着いた漁師たちが馬に飛び乗るように持ち船に乗り込み、すぐにエンジンに鞭をくれて舳先を沖へ向けて走り始める。砂浜をすっぽりと覆った波が瞬く間に砂を海中へと攫い、遠浅の海底を延々と曝け出す様はまさに悪夢でしかなかった。海が異様な速さで流れていく。けたたましい咆哮を繰り返し、津波は島の岩肌に喰らいついていた。流れは磯に近づくほどに激しくなり、退いた波が一瞬に膨れて塊と化し、凄まじい顔で立ち上がる。養殖の牡蠣筏が早回しの画像のように島陰に滑り、それが一瞬にして波の背に乗せられて戻って来る。轟音。地響き。私たちは身を寄せ合いながら、それでもしっかりと眼を凝らし、狂ったとしか思えない、海という途方もない怪物を見続けていた。
「あっ、奴の車が来た」
アップダウンの連なる道のようだった。ライトの光線が上下に何度もバウンドしていた。風が唸りをあげ始めている。時折、闇の海面に鋭い飛沫をあげた波濤が立ち上がる。空を見上げると、一面に星が瞬きを繰り返していたが、月はなく、周囲のすべてが暗渠のようだった。その闇のあちこちに鋭いライトが突き刺さる。久志の友人の車が近づいて来る。
車が止まり、挨拶もそこそこに、私たちは久志の友人である、西条大和という名の男の車に乗り、元村へと向かった。西条は私たちが恐縮するほどに歓迎してくれた。西条は久志とは違い、何ごとにも如才ない言動を崩すことはなかった。西条の家族もその旅館の仲居たちも、上得意の客にさえしないであろう、一見、気持ちの籠った接客をし続けている。クルーたちは想像以上の歓待に狂喜していた。当然だろう。私たちは客ではない。精々、ご飯にみそ汁、それに島なので刺身ぐらいは出るかも知れないと期待していたが、出された料理はそんなものではなかった。眼の前に所狭しと、海の幸のご馳走が並べられていた。クルーたちは見たことも味わったこともない料理に舌鼓を打ち、わらわらと喰っている。
「諭吉さん、遠慮なくやってよ」
と久志はまるで自分がこの旅館の主のように傲慢に言い放ち、その科白にドッと沸くクルーたちを嬉しそうに見廻していた。だが、私はそんな中で憂鬱だった。私たちは決して歓迎されているのではない。そう感じていたからだ。ずっと下にも置かない接客を受けてはいても、何となく違和感があった。たとえどんなに懇意にしている人の来訪でも、不意に現れ、我が物顔に立ち振る舞われたのでは、心底からの歓迎は出来ない。私は異様とも思える西条の家族や仲居たちの接客態度を見るにつけ、この家で歓迎しているフリをされるのも、今夜が最初で最後なのだ、と思わすにはいられなかった。私たちはまだ、年齢的にも何もかも、青二才でしかなかった。そんな私たちに対する過ぎたる歓待姿勢は、次回の拒絶に通じる。私はそう思っていた。しかし、私の分別臭い思いもそこまでだった。どうせ、最初で最後。そう思い直した瞬間から、私は意識的に我を忘れた。酒を飲み、ご馳走をこれでもか、と頬張る。それだけならまだしも、仲居さんの手を握り、卑猥なダンスに狂う。隣を見れば、仲間たちも同様で、その場限りの狂態を繰り広げていた。
時間はアッと言う間に過ぎ去った。私もだいぶ酔っていた。むろん、他も同様だろう。私はそろそろ布団が欲しかった。酒のせいもあったが、はじめての小型クルーザーでの航海で、思いがけない疲労を感じてもいた。大きく背伸びして、そろそろ寝よう、とクルーたちに言ったとき、久志の一際大きな声が、
「さぁ、これからみんなで風呂に入ろう。おい、大和、俺たちを風呂に案内してくれ」
西条にそう命じていた。その態度は私から酔いを消し去るに充分な太々しさだった。西条もさすがにムッとしたようだった。だが、それも一瞬だった。西条はチラッと私のほうを窺い、立ち上がると、それまでと変わらない笑顔をつくり、私たちを風呂場へと促した。だが、よほど腹に据えかねていたのだろう。西条は自ら案内しようとはせず、仲居の一人に案内するよう指示していた。仲間たちは意気軒高だった。列をなし、廊下を歩いて行く。私だけが躊躇していたように思う。少し遅れて部屋を出た。
久志たちは子供の遠足のように風呂場ではしゃぎ回っていた。大浴場をプールに見立て、三人で競泳の真似事をしている。壁に山水を描いた、銭湯のような大浴場だった。人工の小さな滝を流れ落ちる湯は、むろん、天然温泉だろう。浴槽からは外が見える。とはいっても、周囲には民家もあるだろうが、灯りは一つも見えなかった。私は殆ど酔いが冷めた眼と耳で、ガラスの大窓越しに外の気配を窺っていた。木の枝が激しく揺れていた。周囲の闇を振り払うような勢いだった。ふと、岡田港の漁師の顔が浮かぶ。漁師は陽が昇れば風は止む、と言っていた。生まれてからその日まで、ずっとこの辺りの海域を観察して来た者だけが知る、積み重ねた体験からの言葉なのだろう。あの漁師の言葉に嘘はない。だが、私は些か不安だった。漁師の言葉通り、朝には風は止むだろう、とは思いながら、もし止まない場合を考えてのことだった。このまま明日も風が吹き続ければどうなるか、十二フィートのキングフィッシャーでは、いや、そんなことよりも、私たちのヨットや海に関するスキルではとても出帆など出来ない。しかし、会社の休日の余裕はなかった。そして、この旅館にこれ以上長居することは無理だった。久志が何と言おうと、だ。
私は風が吹きまくる濃い闇の外を凝視しながら、陽が昇れば風は止む、と言っていた漁師の言葉に賭ける気になっていた。風呂を出て部屋に戻った。そのときだった。
「諭吉さん、今から発とう。クルーザーには絶好の風が吹きまくっている。それに、滅多にない夜航海のチャンスだ」
私は久志が口にしたことを、束の間理解出来ずにいた。
「何だって?」
「今から帰るって言ったんだよ。さぁ、とっとと着替えて岡田へ急ごう」
久志はすでに、丹前を脱ぎ始めていた。
「おい、久志! 馬鹿なこと言うんじゃない。無理だ。いくら何でも風が強過ぎる。それに俺たちは酒を飲んでいるんだ」
馬鹿馬鹿しくなり、私は敢えて布団に寝そべった。
「そうだよ。この人の言う通りだよ。今夜はウチでゆっくり寝て行けよ」
西条もさすがに愕いたようで、私に同調し、無謀なことを口走る久志を戒める。だが、久志はそんな西条の心配顔を嘲笑するように、
「大和、おまえはヨットを知らないからそんなことを言うんだ。多寡が十五や二十メートルの風など、俺たちヨットマンにとっては何てことない、手ごろな風なんだよ。ま、そういうことだから、おまえ、悪いが、俺たちを岡田まで送ってくれ」
西条は困惑したように私の顔を窺う。私はため息をつきながら、時計を見る。腕時計の針が午前零時を指していた。私は上半身だけを起こし、仁王立ちの久志を見上げた。
「久志、馬鹿なことを考えるのは止せ。今日のところはおまえの友だちの厚意に甘えて、ここに厄介になったほうがいい。岡田の漁師が言っていただろう。風は陽が昇れば弱くなるって。何もこんな大時化の海に出て、危険な目に遭うことはない」
なぁ、そうだろう。私は眼で他のクルーたちの思いを確かめた。久志はそんな私に失望したのか、露骨に顔を顰めた。
「諭吉さん、あんたがこの程度の時化にびびってたんでは話にならないでしょう。厭になるなぁ、まったく。いいですか。この風なら確実に三時間も走ればハーバーに戻れるんですよ。それに今、諭吉さんが言ったように、あの岡田の漁師が言った通り、朝、風が止めば、明日一日帆走したってハーバーに戻れるかどうか判らない。いいですか。だから、ここは今、絶対に発つしかないんです」
「ふざけるな! 久志、たしかにおまえの言う通り、時間はかかるかも知れないが、無理をして事故を起こすよりはずっといい。仕事の遅れなど、会社に詫びれば済むことだ。もし今から発って、クルーの誰かが万が一の事態になったとき、おまえに責任がとれるのか。ヨットにはライフジャケット一つさえないんだ。それに」
「それに、何ですか」
久志はあくまでも強気の姿勢を崩そうとしなかった。
「この風の強さだ。旅館の中にまで風の音が聞こえるってことは、外は台風並みに吹いている。当然、波やうねりも凄いことになっているはずだ。それに、あの漁師も言っていたが、島周辺の海は潮流の勢いが凄まじい。そんな海を夜航海で乗り切る自信など、俺にはない」
「何もあんたにこの海を乗り切ってくれなんて、俺は一言も言ってないでしょう。ヘッドはこの俺なんだ。チャートへの線引きぐらいならこの俺にだって出来る。むろん、ティラはスキッパーであるこの俺が受け持つ。俺はあんたのような単純なヘマは絶対にしませんからね。一発でハーバーに着けてみせますよ」
「ふざけるな! おまえは自分の持ってるスキルをまったく理解していない」
「どういう意味ですか? 未熟だからヘマをしたのはあんただってこと、ちゃんと自覚してくれなければ困りますね」
私にはもう。言うべき言葉が浮かばなかった。久志が狂っているとしか思えなかった。また、そんな久志に対し、呆然としているだけの私や他のクルーたちのほうが、久志以上に狂っていたのかも知れない。沈黙へと逃げた私たちを見下ろし、久志は、
「夜で、しかも風が強いから向こう側の灯りもはっきり見え、地形だって簡単に判る。そこが狙い目なんだよ。さぁ、早く着替えて行こう。断っておくけど、スキッパーはあくまでもこの俺だからね。もしこれ以上ごねるようなら、俺は一人でも海に出るから」
そう高飛車に言い放った。二人のクルーは困り果てたように私を見た。私に救いを求めているようだった。
「あのとき、俺は奴をぶん殴ってでも、止めるべきだった。そうしていれば、何も今になってまで苦しんでいることはなかった」
「過ぎたことです」
「いや、たしかにあれから十年は過ぎたが、俺の中の時計はあの日から一秒だって進んでいない。あのとき、奴の暴走を止められるのは俺だけだった」
スクリーンの中に、映像が止まっていた。小人が振り返り、私の顔を窺う。
「正直に言えば、俺は自分の中にある冒険心に敗けたのだ。俺はあのとき、久志を批難しながら、あの夜の荒れ狂った海への挑戦に、内心、狂喜していた」
小人が憐れむように私を見つめる。
「俺は嵐の海と戦う自分の姿を想像し、昂っていたのだ」
「あなたのあのときの気持ちは、この僕にも判ります」
「判るか。そうだろうな。おまえは俺がどう否定しようとこの俺らしいから」
小人が微笑んだ。その顔が癪に障る。
「性格の歪んだ奴だな、おまえは。ああ、そうさ。俺は誘惑に敗けたんだ。俺は自分のつまらない冒険心に煽られて、仲間たちを危険な目に遭わせてしまった」
「それは少し違います。百歩譲って、もしそうだとしても、あなたはやはり、何一つ悪くはないのです」
「何故だ?」
「それは続きの映像を観れば判ります。僕が管理しているこの画像には、ものの見事にあのときのすべてが記録されているのですから」
映像は止まっていた。私はいつの間にか私に酷似した顔を持つ小人に巧く操られているようで釈然としなかった。それでも渋々ながら、小人に促されてスクリーンに視線を移した。私たちは西条が運転する車に送られて、岡田港に来ていた。たった今、車を降りたばかりだった。すぐに艇が舫われている岸壁に立つ。あの漁師の家の灯りはすでに消えていた。西条は久志に対し、何度も出帆を思い留まるよう説得を繰り返していた。しかし、すでに私たちは狂気に嵌っていた。堤防に護られている小さな港の中でさえ、海面がかなり盛り上がっていた。行き場を失った波が、堤防のあちこちにぶつかり、白い飛沫を闇空高く上げている。堤防の外側はさらに荒れ狂い、鋭く立ち上がった大波が堤防を軽々と乗り越えて来る。空には異様なほどに星が群れていた。その星の下を猛スピードで流れる薄雲は、まるで獲物を狙って投げられる投網のようだった。突風に乗った波飛沫が私たちのТシャツをびしょ濡れにする。他の二人のクルーの顔も蒼白だった。唯一人、久志だけが嬉々として、吹き荒れる風に立ち向かい、獣のように吠えていた。私はその姿に怯えた。艇を舫ったクレモナのロープが、夥しいピッチングのせいで、悲鳴をあげながら、辛うじて艇を支えていた。
「さぁ、行くぞ!」
久志は上気した眼で私たちを見廻し、勇んでヨットに飛び乗った。風が強過ぎる。いや、余りにも強過ぎた。果たして、こうした無謀を自然は黙って見逃してくれるだろうか。私の意識の真ん中を、太い線となった不安がゆっくりと横切っていく。
「さぁさぁ、諭吉さん、早いとこセールアップしましょう! 何も心配することないですよ。ほら、あそこまでじゃないですか」
私の不安顔を嘲笑うような久志が指差すほうを見ると、熱海辺りの空が薄っすらと明るんでいる。凪いだ夜なら、熱海の街の空は燃え盛っているように見えるのだろうか。だが、荒天の夜は、波高が視界を遮り、蛍火よりも心許ない。私は深く息を吸い込んだ。繰り返す。そして、私を見ている二人を促した。私が岸壁に舫っていたロープに手をかけると、二人はふっきれたような笑顔になり、クルーザーに乗り込んでいく。腹を括れば若いとはいえ海に馴れ親しんでいる二人だった。馴れた手つきで出帆前のスタンバイに没頭していた。
ふと手を止めて後ろを振り返ると、久志の友人である西条が青白い顔で立っていた。
「悪かったな。迷惑かけて」
「いや、そんなことよりも」
西条は吹き荒れる上空を見て、後の言葉を飲み込んだ。心底から心配しているのだろう。これから時化の海に出るどの顔よりも、見送る西条の顔のほうが蒼褪めていた。
「よし! 舫いを解くぞ! スタンバイOKか!」
私は大声で叫んだ、すかさず、舫いロープを解き始めた。岸壁に当たり砕けた波が直線の飛沫となり、それが垂直に跳ねあがる。砕けた波がヨットを岸壁から切り離す。その瞬間を見計らい、私がヨットに飛び乗ると同時に、クルーたちが一気にセールシートを絞る。ティラを握る久志が思い切り、風上に舳先を振る。瞬間、急激なヒール。一つ目のタッキング。間を置かず二度目のタッキング。五度目のタッキングでどうにか湾の外に出た。外は想像以上に吹き荒れていた。私たちのヨットは極限に近いヒール角度を何とか保ち、舳先を熱海方向へ向けた。風向は夏には珍しく北から南。ハーバーへの直線は引けない風向きだった。波が飛ぶ。潮が音を立てて艇の底を流れていく。海面には絶え間なく大波がつくられている。それらがヨットへの体当たりを手ぐすね引いて待っている。ティラを握る久志を見る。久志はマストに引っ掛けただけの風見を仰ぎ見ながら、ティラ操作をしている。顔が笑っていた。その笑みが私を寒くした。自然への挑戦。その豪胆さからの笑みとは思えなかった。恐怖心を分厚く糊塗する笑い。それでなければ狂気だとしか思えない。私は久志の眼を見てそう思う。嵐の海。しかも夜。少しの油断が命取りになる。
私たちは一時間余り、一丸となり帆走し続けた。風波は衰えるどころか、益々鋭い牙を大きくしていた。嵐の海に無謀にも飛び込んだ愚か者を嘲笑うように、風と波は私たちを翻弄し続けた。後方を振り返る。一時間余り帆走した距離を測ろうとした。私はすぐ後ろに濃い影となって横たわっている島を見て愕然とした。殆ど離れていない。大島はすぐそこに、黒々と浮かんでいた。私は久志にそのことを伝えた。久志も後ろを振り返り、息を飲み、私を見た。その顔はあきらかにうろたえ、怯えていた。風がさらに強くなっている。
「諭吉さん!」
久志はコックピット内で、私と向き合う位置で舵棒を握っていた。その顔が青白い。表情が歪んでいた。うろたえ、怯えて当然だった。一時間以上走ったのに、少しも距離を稼いでいない現実を知り、久志は動揺し、そこに恐怖感が入り混じっている。
「諭吉さん、岡田へ引き返そう」
久志は哀願するように私の顔を窺った。
「今更、何を言ってるんだ。もう遅い。さっきまでの風とは質が違っている。それに潮の流れが速過ぎる。向かい風だから何とか持っているのに、島に引き返すためにこの風をまともに後ろから受けるのは危険過ぎる。たちまち後ろから波を被って沈む。それに近いように見えるが、島まではかなりの距離がある。ここまで来たら、腹を括って前に走り続けるしかない。あの岡田の漁師の教えを信じて頑張るしかない。陽が昇れば風は止む。それまでは頑張るんだ」
私は声を荒げていた。
「おいっ! おまえら、あちこちに気を配れよ!」
振り向きざま、二人のクルーに檄を飛ばした。二人は険しい形相で、激しくはためいているセールを凝視していた。
「いいか、よく聞け。海に落ちれば必ず死ぬぞ。この風と波の強さでは、落ちた者に一々構ってはいられない。だから、自分の躰をロープでヨットのどこかに括りつけておけ。そうすれば、たとえヨットが倒れても離れなければ助かる。俺たちはライフジャケット一つ持ってないんだ。だから、何が何でもヨットから離れるんじゃない!」
クルーたちは私の指示に素早く反応した。それぞれが胴体にロープを巻く。
「判ってるだろうが、結びはボウラインノットだ! ボウラインノットだぞ!」
彼らの対応は速かった。さすがに動きに無駄がない。二人は一瞬のうちにその作業を終えていた。ボウラインノット。海の男なら誰でも知っている。この結び方は、結び目の輪を縮めることはない。自然に解けることもまずない。だが、解こうとすれば瞬時に解ける。私たちは日ごろから、ヨットのキャビンの屋根から、ロープを手に持ち海にダイビングして、躰が海面に触れる前に持っているロープで自分の胴体をボウラインノットで括りつける訓練を積み重ねていた。それが今になって役に立つ。私はクルーたちの動きに満足し、デッキのほうに移動した。最先端のデッキまで進み、前方を監視するためだった。波が視界を塞ぐ。高くジャンプした波濤が一気に砕けて滝のように落ちて来る。ヨットは砕ける波の根元に吸い込まれるようにぶち当たる。凄まじい衝撃に全身が震える。ヨットは海中を突き抜けて前方を目指す。海水がデッキを洗う。眼の前にいくつものうねりの山が立ちはだかる。ヨットは簡単にうねりの頂きに押し上げられる。その一瞬だけ、陸地の灯りが見えた。まだまだ遠い。不意に風が弱まる。強風が吹き荒れている中での句読点のような瞬間だった。息つく間もなく突風が来る。ヨットは急激に傾く。左右の舷から大量の海水が流れ込む。危険だった。顔だけで振り向いてコックピットのほうを見る。二人のクルーのすぐ後ろに、舵棒を握る久志の顔がある。彼の顔からはついさっきまでの怯えのような表情は消えていた。
私と眼が合う。微笑んでいた。私も微笑を返した。奴の微笑みは虚勢なのか。ふと、そう思う。再び、突風。監視を怠る私を叱責するような突風が顔を横殴りする。私は邪念を棄てた。このままでは危ない。縮帆すべきだ。私は迂闊にも、そのときになってはじめて、縮帆することに気づいていた。これまでフルセールで走り続けていられたのが奇跡と思われるような嵐なのだ。身震いが全身を駆け巡る。帆面積を縮小し、風の当たる面を狭めなければ横倒しになる。私は再びコックピットに振り向き、
「半分までリーフしろ!」
大声で怒鳴った。
クルーたちもハッとしたように行動を起こす。
「いや、そのままでいい。余計な口出しをするな!」
久志の怒号だった。私は久志を見据えた。
「馬鹿野郎! 沈没させるつもりか!」
「大丈夫だ。俺がティラ操作だけで風を逃がす!」
その手もある。だが久志程度の技術では危険過ぎた。久志は風上一杯のティラ操作を崩そうとしていない。せめて、風上からクローズドリーチ、風上から四十五度の角度ぐらいまで艇首を落とすか、セールシートを弛め、風圧を逃がさなければ危険だった。そのときだった。私の思いが通じたように、
「諭吉さん!」
クルーの一人が私の名を呼んだ。見るとそのクルーは手に持つセールシートを少しずつ弛めていた。私は彼の判断に満足し、前方に視線を移した。しかし、またしても、
「こら、おまえら! 誰が風を逃がせと指示した! 俺がヘッドだぞ! おまえらはこの俺の指示だけに従っていればいいんだ!」
久志の甲高い声が私を必要以上に刺激した。だが、私は敢えて聞こえないフリを装った。恐怖感も限度を超えれば狂気に変わり、危険なことを無意識に口走る。やはり、少し前の微笑みは虚勢でしかなかったのだろう。私はそう思い、気にしないように努めた。風が唸っている。吼えていた。波が竜巻のように両舷を転がる。腕時計を見る。夜光針が午前三時を振り切ったところだった。後方を見る。もう島は闇の中に溶けていた。それだけ進行方向の空に映る陸地の灯りの輪が大きくなっている。小一時間も走れば夜が明ける。岡田の漁師の教えだけが拠り所だった。嵐が鎮まれば仲間たちの感情の起伏も凪ぎる。そして一週間も経てば、怖かったこの体験が笑い話になる。私にはそのときの光景がはっきりと見えていた。ヨットがうねりの頂きに上がった。丸い灯りが見えた。二つ。進行方向から見て、右にレッド、左にグリーン。その灯りが軽いピッチングを繰り返しながら近づいて来る。船だ、巨船のようだ。航海灯の位置が怖ろしく高い。闇の上空を赤と緑の炎が浮遊しているようにも見えた。距離、およそ、一キロ。このままでは避けられない。私は巨船との距離を目算し、南下する巨船の航路を私たちのヨットが先に横切ることは不可能だと判断した。
「タンカーだ! 大きいぞ。このままじゃ危ない。タックで逃げるぞ。久志! 思い切り、風上へのぼれ!」
「何言ってるんだ! こっちが先だ! まだ距離は充分にある。それに向こうはレーダーを持ってる。簡単に避けてくれる。このまま突っ走る。だからもう、あんたは余計なこと言うな!」
「馬鹿かおまえは! レーダーはデッキより下のフォローは難しい。ましてやこの時間だ。この程度の嵐なら、あんなに大きな船は。自動操舵かも知れない。こんなときにはつべこべ言わずに、さっさと逃げるんだ!」
言い争いをしている間にも大型タンカーは近づいて来る。私たちのヨットにとっては凄まじい嵐でも、何万トンもある巨船にとっては、「この程度」の嵐でしかないかも知れない。数人のワッチはいても、自動操舵の可能性は充分にある。事実、これほどの嵐の中でさえ、小山のような巨船は、軽いピッチングを繰り返すだけで悠然と近づいてくる。私に躊躇いはなかった。マストに括ったロープを確かめて、私は久志が舵棒を握るコックピットへと移動する。そのコックピットから身を乗り出して、這うような態勢であちこちに眼を凝らしている二人のクルーに、
「これから俺が奴からティラを奪い取る。ティラが俺の手に渡った瞬間、タッキングするから準備しておけ」
そう言い残し、私は背に受ける波の衝撃に堪えながら、コックピット内に入った。船が来る。近い。距離、五百メートルぐらいだろうか。私たちのヨットのほうが一瞬早く、あの巨船を躱せる。そんな気がしないでもない。だが、それは錯覚でしかない。海は陽の下でさえ正確な距離を目算するのは難しい。夜の海は常識では測り知れない不気味さが潜んでいる。それなら逃げるしかない。私はすでに、自分の手にティラを握っているような気持になっていた。右を見る。船が来る。そこだけ分厚く濃い闇がタンカーの巨大さを無言で示していた。
「久志っ! タックだ! このままではぶつかるぞ! タックして逃げろ!」
「大丈夫だよ、諭吉さん。一体何故そんなに昂奮しているのかな。ほら、よく見なよ。あの船はまだあんなに遠くだ」
「馬鹿を言うな。距離はあと二百もない。いいか! うだうだほざいていないで、俺の言う通りにしろ! タッキングだ、すぐにタックしろ」
「そんなの時間の無駄だよ。もうじき夜が明ける。陽が昇れば風は凪ぎるんだろう。凪ぎればヨットは進まない。それなら今のうちに少しでも前に進んでおかなければならないだろう。馬鹿はあんたのほうだよ、諭吉さん」
私は怒りに握った拳を震わせていた。久志の隣に座り、彼の手から強引にティラを奪い取り、久志を追いやった。すると、
「諭吉さん、ヘッドはこの俺じゃないか。俺にそこまで逆らうのなら、あんた、さっさとこの場から消えてくれ。そうさ。今すぐこの荒れた海に飛び込んでくれたっていいんだぜ」
冗談にはとれない久志の挑発だった。
「くだらないことを言うんじゃねえ。降りられるものならとっくに降りている。もう一度言う。ここは俺のいうことを聞け。ティラはここからは俺が受け持つ。おまえはすぐにあの船から逃げる準備をしろ。これは俺だけじゃない。他の二人も同じ考えだ。だから、黙って、俺に従え」
「けっ! たった一つ歳上なのに偉ぶって。諭吉さん、あんた、何だかんだ難癖つけたって、単に臆病ってだけじゃないか。それにみんなで出帆前に決めた通り、ヘッドはこの俺なんだよ。あんたは口出しするなよ」
逆上した。瞬間、私の左の拳が久志の頬を捉えていた。久志の顔は蒼白だった。撲られた頬を手のひらで押さえていた。唇が痙攣していた。
「ああ、そうかい。判ったよ。今度は暴力でこの俺を蹴落とそうだなんて、冗談じゃない。もう、勝手にしろよ。あんたら、この俺がヨットを降りれば満足なんだろう」
久志はくだらない棄て科白を口走り、勢いよく立ち上がった。その久志の舌打ちが、風に吹き飛ばされ、一瞬にして消え去った。
「不満があるならハーバーに戻ってからにしろ。いい加減にしないと、俺がおまえをこの嵐の海の中に放り込んでやる」
私は久志に眼もくれず、タッキング態勢に入る。巨船のほうを見る。距離を測ろうとした。だが、そこに船影はなかった。おかしい。船が消えた。二時方向に見えていた巨船の航海灯も見えなかった。唯、その辺りだけが周囲よりさらに濃い闇に閉ざされていた。
「諭吉さん! タックだ! 船がすぐ眼の前だ!」
一人のクルーの絶叫が私の耳を貫いた。全身が棒になる。分厚い闇の塊が巨船そのものだったのだ。私はクルーの声と同時にティラ棒を目一杯押していた。タンカーが私たちのヨットを蹴散らす勢いで突進してくる。距離、五十。ヨットがタッキングにより舳先を振る。ブームがビュンと鳴り、セールが翻る。
「危ない!」
私が叫ぶのと同時に、コーンと金属音が艇体に響き、私たちのヨットは右に大きく傾いた。逆ヒールだった。右舷から凄まじい勢いで海水が流れ込む。巨大なタンカーが私たちのヨットを跳ね飛ばしながら、見事に平然と遠ざかろうとしていた。ブームの端っこがタンカーの喫水線の下部辺りに触れたのだろう。私は傾いたヨットの立て直しに必死だった。ヨットに侵入した海水が一気に海に戻っていく。どうやら、沈没だけは免れた。ヨットは徐々に起き上がる。深くため息をついた。もう数秒、ティラタッチが遅れていたならば。想像しただけで怖ろしくなる。私は再び気を引き締めていた。
「みんな! 異常ないか、調べろ!」
私はクルーたちに叫んだ。
「異常がなければ走るぞ」
「諭吉さん、久志がいない!」
「何!?」
周囲を見廻し、私はその現実に愕然とした。落ちたのか。一瞬、時化の海で藻掻きながら救いを求める久志の姿が眼の裏を掠める。
「捜せ! 捜すんだ!」
我を忘れた状態だった。私たちは少しずつ明け始めた海面を、血走った眼で捜し廻ったが、久志の姿はどこにも見当たらなかった。
スクリーンの映像が止まった。私は夢の中での現実に戻った。激しい動悸が躰の内部から私を圧迫してくる。傍らで、私の顔をした小人が、私を見上げて微笑んでいた。
「肝心なところで止めるんじゃないよ。さっさと続きを見せてくれ。今終わったところまでなら、俺の記憶の中にすべてある」
「そうですか。お疲れじゃないかと思ったものですから。そうですね。一気に観たほうがいいですね。それじゃ、さっきの続きをご覧になってください」
映像はヨットを左後方から鮮やかに捉えていた。私は久志との言い争いの最中、久志を撲っていた。久志が立ち上がった。私のすぐ後ろに立っていた。そのとき、クルーの鋭い声が耳を震わせ、私は目一杯ティラ棒を押していた。ヨットは風上に一気にのぼり、急激に向きを変えようとしていた。タンカーが私たちのヨットと逆向きに並んだ。私はその画面を食い入るように見つめた。衝撃だったのは、久志の姿を眼にしたときだった。久志は全身に波飛沫を浴びながら、ゆらゆらと立ったままだった。嵐の海の小さなヨットの中で、立っていることじたい、それはもう、一つの重大な事故だった。しかも、久志は命綱さえしていない。ヨットはタッキングの最中なのだ。タンカーが手をのばせば届くような距離を通過していく。久志はそんな中、虚脱した酔っ払いのように立ち、巨大なタンカーを見上げていた。ブームが久志のほうに飛んでいく。コーンという不気味な金属音。ブームの端っこが巨大タンカーの最下部に触れて跳ね返された瞬間が、はっきりと映し出されていた。ヨットはタンカーに圧されてグィっと離れた。瞬間、逆ヒールに襲われる。そのときだった、久志がバランスを崩し、海中に落ちていく。「疲れた」私はつぶやき、眼を閉じた。久志が落水した。私の脳裏に、そのときの残像が、スローモーションで繰り返されていて、いつまでも消えない。これがあのときの全てです。小人の声が湿っていた。あとはもう、僕のことなど忘れてください。小人はそう言い、私の前で後ろ姿が泣いているようだった。
微かに声が聞こえた。勲の声だった。すると、もう、時間のようです。私の後について来てください、と言う小人に導かれた。小人は一度私に振り向くと、「さようなら」と泣き声で言う。光が飛び込んできた。眼を開ける。闇に馴れた私の眼には、空が白色に見えた。私は慌てて眼を閉じた。そのまま四方の薄明るい闇に神経を集める。私の顔そっくりの小人の気配はもう、微塵もなかった。いやにあっさりしてるじゃないか。そうつぶやき、もう一度、ゆっくりと眼を開ける。傍らで勲が笑っていた。私は現実に返っていた。セールに跳ねる風の音。艇首に切られる波の音。私の耳を、現実の自然が擽る。
「夢を見ていたよ」
「そのようだな。しかし、この炎天下でずっと寝ていられるなんて、並みの神経じゃないな。みんな、びっくりしているよ」
「寝言でも言ってたか?」
「言ってた、なんてものじゃない。タックだ! タックするぞー! なんて大きな声で叫ぶから、みんな、慌ててセールシートを握ってた。俺だって、ついティラを押そうとしていたよ。寝ているのに周囲を脅かすのはおまえだけだ」
「そうか。そんなこと言ってたか」
私は漣立つ海を見た。夢を振り返ろうとした。私の顔をした小人。夢の中での十年前の映像。その中での久志の落水シーンだけが生々しく蘇る。
「おまえ、俺が睨んでいた通り、だいぶヨットにも海にも手練れのようだな」
勲の声が、つい湿りがちになる私の思いを遮断した。
「夢を見て俺たちに指示するし、こんな狂ったように燃える陽の下で鼾は掻くし、素人に出来ることではない。どうだ。久しぶりなんだろう。少し、やってみるか」
「いや、十年も乗ってないんだ。もう、ペーパードライバーのようなものだ。それより、この辺りを少し廻ってみてくれないか」
「そうか。判った。理由を訊くのは止そう。ま、お客様のご要望とあらは、気の済むまでここいらを廻ってやろうじゃないか。おい! 廻るぞ」
勲の号令にクルーたちは素早く反応する。勲の艇はタッキング、ジャイビングを繰り返しながら、海面に大きな円の航跡を描く。私にはその航跡の渦巻きの中に浮く久志の姿がはっきりと見えていた。いくつもの渦が一つに纏まる。それが勲の姿とともに海中に引き込まれていく。私は消えゆく渦の中に、さっき見た夢を投げ込むことに躊躇いを感じていた。
「もう、いいか。そろそろ前に進むぞ」
勲の明るい声に救われる。
「ああ、もう、いい。先に進んでくれ」
ヨットは舳先を振り、大島を目指した。追い風だった。スピンネーカーがジブセールと対称に張り出され、風を受けて大きく孕んでいた。
「先輩!」
クルーの一人が私を呼んだ。
「先輩もだいぶヨットや海に咬まれたようですね」
「それほどじゃないよ。帰りに少し教えてくれ」
「冗談でしょう。俺、先輩の寝姿を見て、感心していたんですから」
陽はまだ中天を少しだけ西に移動したばかりだった。空は澄み、どこまでも高い。
勲が私の肩を叩いた。手に缶ビールを持っていた。
「飲むか」
「何よりのご馳走だな」
缶を滑る水滴が眼に涼しい。アルミ蓋を開けた。半分だけ一気に呷る。残りは海に流した。飴色の液体が、私と海との間に橋を架けた。 (了)