アクセルを踏むとき ~モヤモヤをエネルギーに~
最近、いろんなエッセイを読んで、自分を見つめなおしました。
エッセイ界隈にはいろんな考えの人がいるので、いろんな意見があります。
その一つ一つに耳を傾けるのは大変ですけども、たらこは目についたエッセイを読んで、なんとなーく自分に思い当たることがないか、足を止めて考えてみたりします。
そのエッセイ主はたらこに対してモノを言うつもりなんて毛頭ないと思うのですが、自分に向けて話しかけているように思うと、なんだかとても身に染みるのです。
普段、あまり人の話を聞かないたらこですけども、エッセイを読むときは口を閉じてじっと話を聞きます。
まぁ……エッセイを読みながらぶつぶつ独り言を言っていたら怖いので、黙って読むのは当然なんですけども。
たらこは自分の考えを淡々と述べるエッセイが好きなので、たらこも淡々と読みます。
淡々とものを述べる方は独特な考えをしていることが多いです。
感想も、ポイントも大してつかない。
でもそんなエッセイが語る物事には、とても価値があると思うのです。
ただ……たらこは人に流されやすいので、もしかしたら悪い人に騙されてしまうのではと、たまに不安になったりします。
日常生活で失敗が続いたりすると、どうしても他者の言葉に対してほだされやすくなってしまうのです。
たらこが読むエッセイの中には、ネガティブな意見を述べるエッセイもあります。
そう言ったエッセイを読むと、不安になったり、怖くなったりすることもあります。
また……誰かを非難したりするエッセイや文句を言う感想を読むと、なんだかとてもモヤモヤします。
そういう時は直ちにブラウザバックするのですけども……。
モヤモヤはなかなか消えてなくなりません。
モヤモヤがたまると、たらこはアクセルを踏みます。
アクセルを踏んで文章を書きます。
気づいたらそれがエッセイになっていて、なろうに投稿しています。
このエッセイもそんな気分で書きました。
モヤモヤは実はエネルギーだったりするのです。
モヤモヤを振り切るために何かを書くとスッキリするのです。
勢いでエッセイを一つ書き上げると、一仕事したような気分になって気分もハレバレ。
三島由紀夫の金閣寺の主人公も、最後はそんな気分だったのでしょう。
しかし、アクセルを踏むにしても、車が無いと意味がないです。
椅子に座ってエア自動車に乗った気分になって、何もない場所を踏み込んでアクセルを吹かしてもむなしいだけです。
エア自動車は心の中にあっても実在しないのです。
いくら踏み込んだところで、むなしく宙を蹴るだけです。
だから、走るには車が必要です。
ここでいう車は文章力なのです。
たらこは気づいたらそれなりに文章が書けるようになっていました。
小学生の頃は作文なんて大っ嫌いだったし、中学生のころも国語なんてまともに勉強した記憶がありません。高校生の時は赤点ギリギリでした。
そんなたらこがどうしてエッセイなんて書いてるかと言うと……よく分かんないです。
いや、本当に。
なんでなのか自分でも分からない。
多分、きっかけはレポートだったかな?
自分の考えを交えてレポートを書くのが楽しかった。
あと、黒歴史ノートにあれこれ書きまくったからかな?
誰にも読ませないからと、聞くに堪えないような駄文を書きなぐった記憶がある。
それなりに文章力はある方みたいで、レポートは評価が高かった。
褒められたことが数少ない成功体験になったのかもしれない。
でも……小説はなろうテンプレに出会うまで書けなかった。
テンプレがなかったら今でも書けなかったんじゃないかな?
そんなたらこですが、今日もモヤモヤを払拭するために、アクセルを踏んでいます。
エッセイを書いていると、車を走らせているような気がして気分がいいです。
事故の心配もないし、好き放題に走り回れます。
そしてふと、今日読んだエッセイのことを思い出します。
誰かがひどく悲しむエッセイを書いていました。
誰かがとても難しい内容のエッセイを書いていました。
誰かが筆を折ったとひとり呟くエッセイを書いていました。
そんな内容のエッセイを思い出すと、モヤモヤします。
アクセルをいっそう強く踏んで筆を走らせます。
思うがままに、自由気ままに、何処までも遠くへ。
一人で旅をするような気持で文章を紡ぎます。
嫌なことも、悲しいことも、苦しいことも、全部エネルギーに変えて。
今日もエッセイを書くのです。