飛び散る、火花
怒声に驚いた鳥たちが、羽音を立てて梢から飛び立った。
屋敷の裏手に続く通路で、男たちが睨みあっていた。
黒髪を振り乱した騎士のジェロームが、シャツの胸元をはだけたポールに吼えかかる。
「貴様は一線を超えたっ。今日という今日は断じて許さんっ」
「ハハッ、なぁに、妬いてんだよ。ジェローム兄さま」
ポールは、プッと血反吐を吐き捨てると、ニヤリと笑った。
「騎士さまの拳骨も、たいしたことねぇなぁ、あぁ? さっさとご自慢の剣を抜いたらどうだ?」
「……斬られるのが望みなら、斬って捨ててやる」
ジェロームが、長剣の柄に手をかけたとき、エステルが叫んだ。
「ふたりともっ、やめてってばっ!」
喧嘩のはじまりは、半刻ほど前のこと──
マリーと一緒に焼いたキッシュをバスケットに詰めたエステルは、厩舎を訪れた。
冬に備えて詰め込まれた干し草が醸されて、馬房の中には、ほのかに甘酸っぱい香りが満ちていた。
「ポール、少し休憩しない?」
エステルが声をかけると、馬の世話をしていたポールがひょいと顔を出す。
「ああ、ありがたい。そこ、座れよ」
「うん」
新しい干し草が敷かれた馬房に、エステルは腰をおろす。
夏の別荘の厩舎は、王都で見る馬小屋より、ずっと大きくて頑丈だった。冬の寒さから馬たちを守る、跳ね上げの板戸がついた小ぶりな窓からは、薄く太陽の光が差し込んでいた。
「山で冬を越すのって、やっぱり大変なんだね」
「まあな。親父が早死にしたのもわかるだろ」
「また、そういう言い方……」
「おっ、うまっそぉ。これ、お前が作ったの?」
エステルの小言をさえぎって、ポールは無邪気な声をあげた。
いつの間にか、ポールはエステルを「お前」と呼ぶようになっていたけれど、エステルは気にしていなかった。ポールとの会話では、それが自然なことのように思えたから。
「ヤバッ、やっぱめちゃくちゃウマい」
バスケットの中の皿から無遠慮に取り上げたキッシュを頬張って、ポールが言った。
「大袈裟ね。マリーに教えてもらったんだから、ポールにはお袋の味、でしょ?」
「いいや、これはエステルの味だ」
切れ長の目を細めて、ポールはペロリと唇を舐めてみせる。
エステルは、なんだか急に居心地が悪くなった気がして、水筒の水をゴクリと飲む。
「お前さ……ほんとに、このままここで冬越しすんの」
「ええ」
「きついぜ、山の冬は」
「そうだよね。でも……他に、行くところなんてないもの」
「ふうん」
ポールは指についた食べかすを拭うと、エステルの手から水筒を取り上げて、グビリと水を飲み込んだ。
「俺たち山の住人がさ、雪山で迷ったとするじゃんか。凍えて動けなくなったら、どうすると思う?」
「あ、それ聞いたことあるよ。雪に、穴を掘るんでしょう? 雪の中は、吹雪の風の中より暖かいから」
「バカだなぁ、お前にそんな色気のない話、したってしょうがないだろ?」
「え……?」
バサッ
ふいに、干し草の上に押し倒されて、エステルは目を丸くした。
「凍えそうなときは、肌を重ねあうんだよ。雪山で一番、温かいのは、人間の血液だからな」
「ちょっと、からかわないで……」
「俺には、お前が身体も心も、冷え切ってるように見える」
「ポール、いい加減に──」
言いかけて、エステルは息を止める。
ポールの真剣な眼差しが、まっすぐにエステルの瞳の奥を射抜いていた。
「こんなとこ逃げ出して、俺の嫁になれよ」
唇を奪おうと乱暴に近づいてくるポールの身体から、濃い馬の体臭がする。
「だっ……ダメだってば──っ!」
目をつむって、ポールを突き飛ばそうとしたとき──エステルの手が、スカッと空を切った。
「えっ──?」
驚いて目を開けたのと、グァッといううめき声が聞こえたのが同時だった。
厩舎の床に転がったポールを見下ろすように、ジェロームが仁王立ちになっている。
「サー・ジェローム……!」
「奥方さま、お怪我は」
「あっ、ありません……」
「この不埒者がっ、奥方さまが気やすく接してくださるのをいいことにっ」
ジェロームが青筋を立てて怒鳴ると、ポールはヘッと笑って立ち上がった。
「その大切な奥方さまを放り出して、雪山に閉じ込めようってのは、どこのどいつだよっ」
「むっ……」
「それに、あんただって主命でここにいるわけじゃないよな。エステルのことを心配してんのは、公爵さまじゃない……あんた自身なんだろ」
「何が言いたい……」
「俺たちは、同じ穴のムジナだってことさ」
「くっ──ふざけるなっ」
騎士は怒りをおさえられないように、ポールにつかみかかる。
「サー・ジェローム、待って──っ」
エステルは、思わず声をあげる。
訓練を積んだ騎士と、別荘番の息子。体格差も歴然としている。ジェロームが本気で殴り飛ばしたら、ポールがどうなるかわからない……。
けれども、ポールはジェロームと取っ組み合ったまま、エステルに笑いかけた。
「へへっ、心配すんな。こんなへなちょこ騎士に伸されたりしねーよ」
「こいつっ……その汚らわしい顔を、エステルさまに向けるなっ」
「ふうん、エステルさま、ねぇ」
「口の減らないやつめっ」
そのまま、転がるように厩舎を出たふたりは、屋敷の脇の通路でにらみあった──。
「ふたりともっ、やめてってばっ!」
エステルがそう絶叫したのは、そのすぐあとのことだ。
男たちが、エステルの声に気圧されたように逡巡した瞬間、パチパチと手を叩く音がした。
「いやぁ、なんとも勇壮だねぇ。ひとりの乙女をかけた、男の戦い……胸が熱くなるじゃないか」
シックな茶色のコートを羽織った金髪の青年を見て、エステルが声をあげる。
「バスチアンお兄さま!」
「やあ、エステル。愛しの妹よ。近頃、君が魔性の女になったとか聞かされて、まさかと思っていたのだけど、この様子だと噂もあながち、嘘ではないようだね?」
「ひどいっ、そんな冷やかしをおっしゃるなんて」
エステルが真っ赤になってふくれると、バスチアンはふいに真顔になって、つかつかと妹に歩み寄った。
「なるほど……そういう状況なのか」
亜麻色の髪にからんだ干し草を摘まみあげたバスチアンは、殺気のこもった眼差しでジェロームとポールを睨む。
「で、エステル。僕は、どっちの男に決闘を申し込めばいいのかな?」
「お兄さままでっ……もぉおっ、みんな、顔を洗って頭を冷やしてっ──」
しばらくして──
サンルームでティーカップに口をつけたバスチアンが、フワリと笑った。
「懐かしいね。先代公爵夫妻に招かれて、家族でこの別荘に来た頃が」
「ええ……あれが、ほんの数年前のことだなんて、信じられない」
エステルが力なく微笑むと、バスチアンは目を細める。
「ああ。まさか、ここがエステルを幽閉する監獄になるとは思いもしなかった」
「お兄さま……」
「先に言っておこう。今まで、何もできずにすまなかった。何があったかは、あらかたエマから聞いているよ」
「あの……エマは──?」
バスチアンは、困ったような顔で笑った。
「最初は正直、手に負えなくてね。自分ばかりお屋敷に置いてもらっては、お嬢さまに申し訳ない、修道院にでも入るとかいって、泣き暮らしていた」
「そう……」
「エステルが戻ってきたときエマがいてくれないと困ると、母上が説得して、ようやく落ち着いたんだ」
「お母さまが……」
「うん。父上も母上も、エステルのことを心配しているよ。ただ、いきなり伯爵家が介入しては、お前とロベールの関係が修復しにくくなるだろうと父上がおっしゃってね。黙って見守ることに決めたわけさ」
「そう……なのね……」
「カミーユ兄さんと僕は、反対したんだけどね」
「え──?」
バスチアンは、じっとエステルの顔を見つめた。
「僕らのエステルが、男を弄ぶ、淫らな女だって? そんないわれのない侮辱を受けて、エステルが我慢する必要がどこにある。ロベールとの関係なんて、壊れるなら壊してしまえってさ。だいたい、僕は最初から気に入らなかったんだ。あいつが公爵じゃなかったら──」
「……」
エステルの目から、つっと涙が流れ落ちた。
バスチアンが、あわててハンカチを差し出す。
「お、おい、大丈夫か。無神経なことを言ったかな。すまない」
「いいえ、ごめんなさい……でも……」
「でも……?」
「わたしにも、落ち度はあったのよ」
「なんだって──?」
眉根を寄せたバスチアンの顔を見ていられなくて、エステルは視線を膝に落とす。
初夜に、妻を導かなかればと気を張っていたはずのロベールの想いを、踏みにじってしまったのは自分……そのせいで、こんな騒動を起こしてしまった。
そんな失敗をした自分が、やさしい言葉をかけてもらう資格があるのだろうか。
「エステル……ちゃんと説明してくれないとわからないよ。まさか、本当にロベールを裏切ったんじゃないんだろ?」
「ごめんなさい……」
「やめてくれ」
「……わたしの過ちのせいで、お兄さまたちにも、伯爵家にも恥をかかせてしまって──」
「そんな言葉が聞きたいんじゃないっ!」
ガチャンとティーカップを置いたバスチアンは、気まずそうに窓の外に目をやった。
「……そんな言葉が、聞きたかったんじゃない」
「お兄さま……」
「僕はただ……エステルと、ロベールの悪口を言って、あいつを笑ってやりたかったんだ。それなのに……そんな顔をしないでくれ」
「ごめんなさい……」
バスチアンは、はあっと深い溜め息を吐いた。
「なぜ、僕に謝っているのか、過ちとは何か、ちゃんと説明するつもりは?」
「……」
「やれやれ、あんなにかわいかった僕のエステルが、少し目を離したスキに、とんだひねくれ者になってしまったみたいだね」
「これは……ひねくれてるわけじゃ……」
「言い訳無用。この僕に隠しごとをするなんて、お仕置きが必要だな……そうだ、決めたぞ。エステルが正直に話してくれるまで、僕もエステルのことを淫らな女だと思うことにしよう」
「え──?」
つと立ち上がったバスチアンは、エステルの顎に手をかけて、くいっと上を向かせる。
「おにい……さま……?」
「悪い子は、食べられちゃっても文句言えないだろ?」
金髪の貴公子は、エステルの口を封じるように、桃色の唇に人差し指を当てた。
フワッと、バスチアンの顔がエステルの目の前に迫ってくる。
「んん──っ」
指越しに、バスチアンが口づけをする……チュッと煽るように音を立てて。
その感覚に、エステルは思わず身をすくめた。
「もう人妻のくせに……子供みたいに無防備なのは、罪なんだからね?」
耳元でささやかれて、エステルの混乱した頭は真っ白になる。
心臓がうるさいくらいに高鳴って、息が止まりそう──。
そのとき、低い咳払いが、サンルームに響いた。
「……シプレー卿。麓の村にお泊まりなら、そろそろご出立なさいませんと」
《サー・ジェローム──!》
エステルが逃れようと身をよじっても、バスチアンの手がエステルの顎をとらえて離さない。
「家族のスキンシップを邪魔するなんて、公爵家の騎士はずいぶんと無粋なんだな」
「興がのりすぎて、家族の絆が傷つかぬよう、お守りしているまでです」
「言うじゃないか、サー・ジェローム。昔から君は、遠慮のない男だったが」
「お兄さま……痛い……」
エステルがうめくと、バスチアンはパッと手を離した。
「また来るよ、エステル。実は、〈暗い山〉には仕事にかこつけて来たんだ」
「お仕事……内務省の?」
「ああ。そうでもなければ、妹をないがしろにしている公爵さまの領地に、兄貴がズカズカ入ってくるわけにいかないだろ?」
「……いやな言い方」
「ははっ、嫌われたかな。でも、安心してよ……僕は、何があっても、エステルを嫌いになったりしないから──」
お知らせ:このあとに、ロベールのかなり濃厚なエピソードを入れていたんですが、ちょっとこれはちがうなと思って削除しました!