魔法は、もうない?
「やはり、まだ外出は早かったのではありませんか」
村はずれの道を歩きながら、黒髪のジェロームがぼそりと言った。
文句ばかり言うなら、どうしてついてきたのかしら。エステルは、つんとして返事をする。
「問題ないわ。反対なら、お屋敷で待っていてくれてもよかったのよ」
「しかし、おくがたさ──」
「エステル。ここでは、呼び捨てにしてと言ったでしょう」
「しかし──」
「しかし、も禁止です。ジェローム兄さま」
「む……」
ジェロームは、気まずそうに押し黙る。
エステルが、ジェロームと連れ立って村を通ったとき、ちょっとした騒ぎになった。
粗末な服装に着替えても、立派な体躯と精悍な顔立ちが目立つジェロームを、おかみさんたちが見逃すはずがない。
「ちょっと、エステル。誰なのよ、このいい男はっ」
「あんた、ポールとはもう別れたのかい?」
好奇心を抑えきれないおかみさんたちに取り囲まれたエステルは、あわてて両手を振った。
「ちっ、ちがうの……この人は、わたしの、お兄さん」
「えっ、あんたの──?」
遠慮のない視線を浴びたジェロームは、はあ、と気のない声を出して頭を掻く。
ちゃんと調子を合わせてよ……エステルは、焦りながら言葉をついだ。
「ほら、わたし、このあいだ怪我をしたでしょう。それで心配して様子を見にきてくれたの」
おかみさんのひとりが、ふぅん、と疑わしそうに首をひねった。
「それにしても、似てないねぇ。髪の色もちがうし……」
「そっ、そうなの。よく言われるのだけれど、年が離れているからかしら。ねぇ、ジェローム兄さまっ──」
エステルはとっさに、ジェロームに身を寄せて腕を組んだ。
騎士は、うっ……と息を詰めて、全身をこわばらせる。
仲良し兄妹のフリをしようと思ったのに、逆効果……釈然としない顔のおかみさんたちから逃れて、ふたりはどうにか村はずれに続く道へと進んできたのだった。
《サー・ジェロームは、いつまでここにいるつもりなのかしら》
エステルは、小さく溜め息を吐く。
あの朝、夫婦の寝室に騎士たちを引き連れて踏み込んできたのが、ジェロームだった。
軽蔑に満ちた目でエステルを見すえ、メイドのエマにまで冷酷な言葉をぶつけて……。
それなのに、エステルを崖下から救い出してから何日経っても、ジェロームが王都に帰る気配はなかった。
最初はてっきり、ロベールから結婚を解消するという伝言でも受けてきたのかと思ったけれど、そんな様子もない。
ただ黙って薪を割り、別荘の冬支度を手伝って、専属騎士にでもなったかのようにエステルを見守っている。
《どうして今さら、わたしを気遣うふりなんか……?》
今日だって、本当はひとりで来たかったのに……そんな恨めしげなエステルの視線には気づかず、ジェロームが言った。
「……エステル、着いたようです」
脇道の奥、鬱蒼と茂った木々のトンネルの向こうに、古びた家があった。
外壁にはうっすらと苔がむして、木の皮を葺いた屋根は、ところどころそそけて穴が空いている。
戸口に立ったジェロームが重そうな扉のドアノッカーに手をかけると、ギィとひとりでに扉が開いた。
騎士は、警戒するように硬い声を出した。
「御免。山の上の屋敷の者です」
「ああ、来る頃だと思ってたよ……ぼさっとしてないで入っといで」
しわがれた老婆の声。
エステルとジェロームは、顔を見合わせて戸をくぐった。
つんと、乾燥した草花の甘い匂いが鼻をつく。
天井からは束にした薬草が吊るされて、壁ぎわの棚には古びた陶器の壺がぎっしり並んでいる。
「あの……アンジェリクさん?」
エステルが声をかけると、薄暗い奥の部屋から、よたよたと覚束ない足取りの老婆が現れた。
「あぁ? どこのお嬢さまだね、こりゃ」
「別荘番のマリーさんの遠縁の者で、エステルと言います。こっちは、兄のジェローム」
ジェロームが会釈すると、老婆は片眉を器用に吊り上げて、ふんと鼻を鳴らした。
「兄ね。ま、いいだろ……冬越しの薬を取りに来たんだね」
「はい、お願いします。いつもより多めにいただけますか」
冬越しの薬は、冬用の薬の詰め合わせだ。風邪薬や、吹雪で凍えたときに飲む薬湯の材料などをまとめたものらしい。
「なんだい。お山の別荘じゃ、今年はあんたたち、みんなで冬籠もりするのかい」
「ええ、そのつもりです。兄は仕事があるので、雪が積もる前に山を降りると思いますけど」
「……まだ、決めていない」
ぶっきらぼうにジェロームが言うと、老婆はケタケタと笑った。
「そりゃ、兄貴は心配だろうさ。こんな美人さんが、あの悪ガキのポールとひと冬過ごすってんならね。ああ、そういうことなら……」
アンジェリクは、ニヤリと笑ってエステルを見上げた。
「下手に仕込まれないようにする薬も、出しといてやろうか?」
「なっ……なんだとっ」
エステルが意味を理解するより先に、ジェロームが叫び声を上げる。
老婆はそんな騎士の顔を見て、いっそう愉快そうに笑った。
《そっか、その手があった……》
エステルは、ジェロームに向かって言った。
「あの、兄さまは、少し外に出ていていただけませんか。冗談はともかく……その、わたしにも、女性特有の相談があって……」
「む……そ、そうか。わかった」
ジェロームは咳払いをすると、いそいそと戸口から出ていく。
ゴソゴソと薬草をかき集めながら、老婆が振り返りもせずに言った。
「なんだい、相談ってのは。まさか、ほんとにあのバカに仕込まれちまったのかい」
「ちっ、ちがいますっ」
「じゃあ、なんだい。まだるっこしいねぇ」
「あの……アンジェリクさんは、魔女、なんですよね?」
「ああ、そう呼ぶやつは多いね」
「それなら、魔法の使い方は、ご存知ですよね?」
老婆の背が、ピクリと震えた気がした。
ジェロームやポールの反対を押し切って、エステルが薬草の買い出しに来たのは、これが目的だった。
精霊に出会ったことは、まだ誰にも話していない。自分でも信じられない出来事だったのに、他の人が正面から受け止めてくれるとは思えなかったからだ。
もちろん、エステル自身が転生前の記憶を持っているのだから、この世界に魔法が存在したり、不思議な生き物がいてもおかしくはない。
けれども、伯爵令嬢として学んだ、この国の歴史の中に、魔法だの精霊だのが登場したことはない。実家の図書室に収蔵された書物をひもといてみても、古代の伝説や伝承以外に神々や魔法の話などなかった。
ここは、剣と魔法の世界ではない。
それが、16歳のエステルが至った結論だった。ちょっぴり──いや、かなり残念なことではあったけれど、それならそれで仕方がないと気持ちを切り替えて過ごしてきたのだ。
けれども、あの谷底で出会った精霊たちは、幻覚だとは思えないほど生々しかった。もし精霊たちの言う通り、魔法が存在するのなら、今までエステルが魔法に出会わなかったのは、なぜだろう。
身体を心配するマリーたちに、半ば軟禁されていた数日間、エステルはベッドルームの天井を見つめて考えつづけていた。
たとえば、魔法使いたちは、ひっそりと隠れて生きている? それとも、自分が知らないだけで、魔法は宗教的な禁忌なのだろうか? あるいは……身分の問題かも? 平民には当たり前でも、貴族社会でははしたないと言われる物事はたくさんある。魔法は、そういう存在なの?
そして、昨日。
エステルは勇気を出して、魔法のことを知っていそうな人はいないかと、マリーに訊いてみたのだった。
「魔法、ですか?」
マリーのめんくらった顔を見て、エステルは心の中で、可能性のひとつにバツ印をつける。身分の問題じゃないみたい。
「まあ……このへんで、それらしいのは、薬屋の魔女でしょうかねぇ」
「魔女ですって──!?」
けれども……老婆は、エステルの問いかけに興味を示すそぶりも見せない。
薬草の束を目元に近づけて確認しながら、魔女はぞんざいに言った。
「……魔法が、どうかしたのかい」
「精霊の加護を受けると、魔法が使えるようになると聞いたのですけれど」
「へえ、誰から」
「それは……精霊からです」
「ふうん、そうかい。まあ、あんたはたしかに、夢見がちな顔してるよ」
「夢なんかじゃありませんっ!」
「やれやれ……」
アンジェリクは、片眉を吊り上げてエステルを振り返った。
「いつ。どこで。そいつは何て名乗った」
「5日前に、崖から落ちたんです。そのとき、谷底の窪地で会いました。ウンディーとグノーという精霊です。わたしを助けると……加護を授けてくれたと言っていました」
「崖から落ちた? 窪地に?」
「はい……にゃっ──?」
グイッと背伸びをした魔女が、エステルの顔を両手で包んだ。
老婆は探るように、エステルの頭をあちらに向け、こちらに向けしてから、ふーむと息を吐く。
「大きな怪我はないようだが……頭でも打ったんじゃないのかい」
「まっ、魔女なのに、信じてくれないんですかっ?」
「信じるも何も、ありえないからね。精霊と人間が言葉を交わした最後の記録は、1000年も前のものさ……まあ、その記録が本物かどうかだって、あやしいもんだ。伝説の世界だよ。それが突然、今になって水と土の精霊王が出てきて、娘っこに加護を授けただって? あんた、本の読みすぎだよ」
「じゃ、じゃあ、あなたはどうなんですか。あなただって魔法を──」
アンジェリクは、深く溜め息を吐いた。
「あたしたちは、魔法なんか使っちゃいない。使えるのは、ただの魔法の残りカスさ」
「残りカス──?」
「古代の魔法使いたちが書き残した魔法の言葉を学んで、真似るだけ……勘のいいやつなら、それで魔法らしきものが使えるようになったりする。あたしにできるのは、草木を元気にすることくらいさね」
それだって、術の効果なのか、肥やしをやってるからなのか、わかりゃしないよ、と老婆は笑った。
「あー、どこだったかね……どこかに魔術書が……ちょっと待っとくれよ」
乾物に埋まった棚の奥から書物を引っ張り出した老婆は、ブフウと息を吹きかける。
真っ白なホコリが舞って、エステルとアンジェリクは、しばらく咳き込んだ。
「ゲホッ……いいかい、これは初歩の魔術書だ。だが、ここに書かれた魔法だって、今じゃ使えるやつなんかいやしない。たとえば……あんたが水の加護持ちだっていうなら、このあたりかね」
老婆は、パラパラと古びたページをめくると、エステルの前の作業台に魔術書を置いた。
「水は、命の象徴。だからまあ、このへんに書いてあるのは、ぜんぶ癒しの魔法だ」
「癒しの……」
「古い言葉だが、読めるかい」
「どうにか……発音には、自信がありませんけど」
「ふん。別荘番の親戚にしちゃ、教養があるんだね。じゃあ、まあ試しに、どれかやってみたらいいさ。白黒はっきりすりゃ、あきらめもつくってもんだろ」
「わかりました……あの、何を癒しましょう?」
「ハハッ、できるかどうかもわからないのに、何を癒そうかって? よし、それじゃあ、あたしの目を癒しておくれ。近頃、景色がぼやけて、かなわないんだよ」
エステルは、魔術書の項目を指でなぞる。
《目……目に効く魔法……あった、〈目を開かせる魔法〉……》
「ほら、早くしとくれ。日が暮れちまうよ」
「あっ、はいっ」
「両足踏ん張る。背筋まっすぐ。初心者なんだから、姿勢くらいしっかりしときな。腹で呼吸して」
「はっ、はいっ」
「ほんとは触れなくたっていいんだが、あんたの手をあたしの目に当てとくれ。そこに意識を集中するんだ」
エステルは、老婆の目を手で覆った。
「ふん、冷やっこい手だね……それじゃ、あわてず、ハッキリ唱えてごらん。魔法の言葉ってのは、ようするに精霊に通じりゃいいんだからね」
「じゃあ、いきますね──」
黄ばんだページの上に書かれた言葉を、エステルはゆっくり読み上げる。
今は使われていない言葉。古典文学でも朗読するかのように、慎重に……。
ピチャン
ふいに、水のはねるような音がして、エステルはハッと手を離す。
老婆は、小さく息を吐いた。
「終わったかい」
「はいっ」
「どれどれ……」
アンジェリクは、ゆっくりと目を開くと、エステルの顔をジッと見つめた。
「うーん、これは……」
「いっ、いかがですか?」
「ぜんっぜん、変わらんわい」
「ううっ……」
ガックリ肩を落としたエステルを見て、老婆はゲラゲラと笑った。
「だから、言ってるじゃないか。魔法なんか使えやしないって」
「はい……」
「まあ、そうしょげなさんな。美人が台無しだよ。そうだ……あんた、どうせひと冬、お山の上で過ごすんだろ? なら、その本も持っていくといい」
「え──?」
「飽きちまったら返しとくれよ。まあ、まぐれで手荒れでも治せるようになりゃ、治癒師として食っていけるだろ」
「いいんですかっ!? ありがとうございます!」
そして──
薬草のいっぱいに詰まったカゴを抱えたエステルとジェロームを、老婆は戸口で見送った。
エステルの亜麻色の髪が木立の向こうに見えなくなると、アンジェリクはひとりつぶやいた。
「変わった娘だ……まあ、あたしゃきらいじゃないけどね」
〈そうだね、ボクもきらいじゃないよ〉
「ああ、そうかい……んん──!?」
魔女は目を見開いて、あたりを見回した。
けれども、聞こえるのは風に揺れる木々の葉の音だけ。
老婆は眉をしかめてかぶりを振ると、そそくさと家に入って扉を閉めた──