新しい、はじまり
「おじさん、こんにちは」
「おお、エステルちゃん。見てってくれ。今日のオススメはこっちのカブだよ」
〈暗い山〉の麓。
小さな村の商店に、亜麻色の髪の乙女が姿を現すと、にわかに周囲がにぎやかになった。
「エステル、聞いとくれよ、うちのジャンが……」
「ちょっとでいいから、うちに寄っとくれよ。シモンに会えば、あんたもきっと……」
近所のおかみさん連中が、懸命にアピールしているのは、年頃の息子たちの話だった。
産業らしい産業もない、山あいの寒村。
どの家も、気立てのいい、よく働く息子の結婚相手を探すのに、必死なのだ。
おかみさんたちは互いに競り合っていたけれど、一致している意見があった。
『こんないい子を、あのポールに嫁がせるなんて、もったいない』
エステルは、山の上の別荘をあずかるマリーの遠縁の娘、ということになっていた。
だから、村のおかみさんたちは、マリーがポールと結婚させるために、この美しい娘を呼び寄せたのだと思っているのだ。
「みなさん、お誘いありがとう……でも、もうお屋敷に帰らなくっちゃ」
エステルが荷物を抱えなおすと、おかみさんたちから溜め息が漏れる。
山の上までは、歩いて2時間……エステルのように華奢な身体では、3時間かかるかもしれない。
長い時間、村に引き留めるのが無理なことは、誰の目にも明らかだった。
親類だということにしてほしい、と提案したとき、マリーはとんでもないと飛び上がった。
「そんな、畏れ多いこと……」
「だって、ここにはわたしたちしかいないのだから、お手伝いをさせてほしいの。そのためには……身分は邪魔だわ」
公爵夫人などと言ってしまったら、山村で日常生活の買い出しをすることなど、とてもできない。
そもそも、この一帯全域が、公爵領なのだ。誰もが萎縮してしまうことは確実だった。
それに──追放された公爵夫人ということが知られたら、村の人たちからも、いわれもない侮蔑を受けるかもしれない。
村からの帰り道。
エステルは、どこまでも続く山並みを見つめて、深呼吸した。
気持ちのいい風──。
晩秋の空気は、すっかり冷たくなっていた。
それでも、自然に囲まれていると、新鮮な木々の香りに癒される。
肺を刺す冷気さえ、心地よいくらいだ。
《村の人たちは、ポールのことを誤解しているのよ》
ふいに、エステルは、そんなことを思う。
遠慮のないおかみさん連中は、ポールがいかにろくでなしかを、耳にタコができるほど語ってきかせてくれた。
いわく、乱暴者で、酒場に来ては誰かれ構わず喧嘩を吹っかけるので、生傷が絶えない。
いわく、少しでもスキのある娘がいると、たらし込んで納屋に連れ込んでいる。
いわく、戦争に行ってから、発作的に暴力を振るわないといられないようになった。
ポールが戦争に行ったというのは、本当のことだった。
マリーによると、先代の公爵にポール自身が志願の手紙を書いて、王都で訓練を受け、国軍の一員として遠征隊に参加したらしい。
でも……ポールが乱暴者だとか、物騒な男だというのは、間違いだと思う。
あんなにも、マリーのことを大事にしている、孝行息子なんだから。
女たらしについては……エステルは、意見を保留中。
一度、井戸端でポールが身体を拭いている場面に出くわしたことがあった。
背の高いポールは、シャツを脱ぎ捨てて、浅黒い肌をさらしていた。
すぐに顔を背けたけれど……隆とした筋肉の上に、いくつもの傷痕が残っている様子が、残像のようにエステルの目に焼きついた。
桶を抱えて、壁ぎわに隠れているエステルの頭上から、面白がるような声がした。
「ふうん……そうやって恥じらうと、生娘みたいだな」
「──っ!」
エステルが振り返ると、目の前に、小麦色の胸板があった。
シャツをゆるく羽織ったままのポールが、エステルを抱きしめそうな格好で壁にもたれかかっている。
汗を拭いたばかりの湿った匂いを感じて、エステルは頭から湯気が出そうになった。
「シャ、シャツを、ちゃんと着てください……」
「それは、奥さまとしての命令? それとも、ウチの嫁のお誘い?」
「なっ──」
遠くから、マリーの叫び声が聞こえる。
「こらっ、ポール! エステルさまが困ってるだろっ。さっさとこっちに来て、手伝っとくれ!」
「へいへい」
ポールはニヤリと笑うと、エステルの頭をポンと撫でて歩き出す。
ちょっとしたボディ・タッチ……公爵夫人と、使用人の息子には、決して許されないはずの距離感。
それなのに、エステルがマリーの親類として振る舞うようになってから、ポールは遠慮なく、その距離を縮めてくる。
《やっぱり、女たらしは本当かも……》
そんなことを考えていた矢先──
ガシャン……ドタン……という、何か重いものがひっくり返る音がした。
《何かしら》
小走りに道を急いだエステルは、曲がり道の先をのぞいて、思わず息を飲んだ。
人間の2倍はあろうかという熊が、荷馬車を引き倒していた。
積荷の豆や小麦が、あたりに散らばる。
その中で──日焼けした青年が、剣を抜いて熊と睨み合っていた。
《ポール……!》
今朝早く、平地の村まで、冬に備えて食料の買い出しにいったポール。
その荷馬車が、襲われたのだ。
「グルガァァァッ」
フーッフーッと興奮した鼻息を吐きながら、熊が立ち上がって、前脚をふるう。
すんでのところで身をかわしたポールだったが、二の腕をかすめた鋭い爪に、肉が引き裂かれた。
「がっ──」
「ポールッ!」
叫んでしまってから、エステルはハッと口をおさえた。
熊がクルリとエステルのほうを見て、ガアァッと咆えた。
「バカッ……逃げろっ!」
ポールが叫んだときには、熊は荷馬車を背に、エステルに向かって突進してきていた。
逃げる……どこへ……?
エステルはとっさに、背後ではなく横へ──谷底に向かう崖のほうに、よろめくように動いた。
ドンッ
「あぐっ……」
「エステルーッ!」
熊が頭からぶつかってきた、とてつもない衝撃。
エステルの細い身体は宙を舞って、崖の向こうに落ちていく。
薄れていく意識の中で、エステルの目に、雄叫びをあげて熊に打ちかかるポールと、もうひとりの人影が映った。
《……よかった……だれかが……ポールを、たすけ、に……》
バキバキバキッ──ゴンッ……
木々の梢に全身を打ちすえられて、とどめの一撃を後頭部に受けたとき、エステルの視界は真っ暗になった。
……
…………
………………ピチャン
ポタポタと、葉の先から垂れた水滴が、エステルの頬を打つ。
「う……ぁ……」
やわらかい泥の上で、エステルはゆっくりと意識を取り戻した。
息が、できない。
呼吸をしようとするたびに、肋骨から痛みが突き上げる。
「ごぼっ……ごぼごぼっ……ぜはぁっ」
肺が痙攣するような、深い咳が出て、ようやくエステルは空気を吸い込むことができた。
薄く目をあける。
視界はぼやけて、そのうえ、顔が濡れた髪におおわれているので、あたりの様子がわからない。
〈なんだ、死なないのかぁ〉
妙に甲高い声がする。
〈死んだら、仲間にしてやろうと思ったのにぃ〉
〈こんなに、こんなにきれいなのに、土にしちゃうのはもったいないよ〉
〈シツレイなぁ。土だって、ちゃんと美しいんだぞぉ〉
「だ……れ……」
〈──っ!〉
エステルが声を出すと、甲高い声を出していた何かが、ビクリとしたのがわかった。
〈……うわごとかな?〉
「きこえる……だれ、なの……」
〈こいつぁ、おどろいたぁ〉
何か、小さなものが、エステルの濡れた髪を、ひょいともちあげた。
手のひらに乗るほどの、小さな土人形──?
〈この声が、聞こえるの?〉
〈この姿が、見えるのかぁ?〉
ポチャンと水音を立てて、土人形のよこから、全身、水だけでできたミジンコのようなものが顔をのぞかせた。
「ん……」
エステルが、どうにか首を縦に動かすと、土人形とミジンコは、おおっとそろって声をあげた。
〈スゴイなあ。久しぶりだ〉
〈ああ、久しぶりだぁ〉
ミジンコが、くるくると目の前で舞って、エステルに聞いた。
〈どうしてほしい? どうしてほしい?〉
《え……》
〈え、じゃなくて。どうしてほしい?〉
《──っ!》
〈そう、考えるだけでいいんだよっ〉
土人形が、のんびりと言った。
〈精霊を見たらぁ、お願いをするんだよぉ〉
《たすけて……おねがい……》
よしきたっ、とミジンコがキュッキュと鳴いた。
〈ワレ、ウンディーは汝を助けるっ〉
〈オィ、ぬけがけだぁ〉
土人形がフンと泥を吐いてから、言った。
〈ワレ、グノーは汝を助けるぅ〉
エステルは、何かが起こるのを待った。
けれども、折れ曲がった手足からジンジンと響いてくる痛みは、いっこうに消えない。
《……それ、だけ?》
ミジンコが、驚いたようにキュウキュウと鳴いた。
〈助けろっていうから、加護をあげたのに。他にどうしてほしいのさ〉
《からだが……いたくて……なおせる……?》
〈なんだ! そんなことかっ〉
ミジンコのようなウンディーがキュンキュンと音を立てる。
泥地の横を流れる清流から、生き物のように水が盛り上がって、エステルの身体を包んだ。
スッ──と、痛みが引いていく。
熱を持っていた傷のうずきが、消えていく。
全身を縛っていた、痺れるような感覚が洗い流されて、エステルは身を起こした。
目の前には、こんこんと湧き出す水源。
澄んだ水が、白い砂の上を流れて、森のほうへと流れていく。
見上げると、そこは岩場にぽっかり空いた、大きな穴の底だった。
あと少し、落ちる場所がズレていれば、岩に激突して命はなかっただろう。
そう思うと、震えが襲ってきて、エステルは自分の肩を抱いた。
「ありがとう……ウンディー、グノー」
ミジンコは、空中をピョンピョンと飛び跳ねた。
〈いいかい、こんなことは、もう自分でできるんだからねっ。精霊にばかり頼っちゃダメだぞっ〉
「自分で……?」
土人形のグノーは、ポリポリと頭をかいた。
〈精霊の加護を受けたらぁ、魔法が使えるんだぁ。しっかり練習するんだぞぉ〉
「練習……」
〈いつでも会えるとは、限らないからなぁ。でも、また会えるといいなぁ〉
ミジンコはピクリと上を見上げると、もう行かなきゃ、とせわしなく言った。
〈最後に、名前を教えてよ〉
「エステル……わたしは、エステル」
〈エステルかぁ、じゃぁ、またなぁ……〉
土人形はそういうと、ズブズブと崩れて砂地に溶け込んだ。
ミジンコはピョンと流れに飛び込んで、見えなくなった。
「エステルーッ、どこだぁーっ」
「エステルさまぁっ、聞こえたら、お声をあげてくださいーっ」
《あれは……ポールと……サー・ジェローム?》
エステルは、濡れて重くなった裾を引きずって、ゆっくり立ち上がった。
「ポール! サー・ジェローム! わたしはここよっ!」
岩場の上、ポッカリあいた丸い空に向かって叫んだとき、エステルの心には、何か新しいことがはじまる予感が沸き起こっていた──
今日はここまでー、6話まで一挙公開ですっ!
(一挙がいいのか悪いのか、よくわかりません……貯金があったほうがよかったのかも汗)
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