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心に広がるシミ

夏が過ぎ、秋が来て、冬の足音が近づいていた。

セードル公爵ロベールは、王都の自邸で、小さく溜め息を吐いた。


エステル──。


あの夜のことが、頭を離れない。

亜麻色の髪の、女神のような妻が、耳元でささやく(あや)しい言葉……。


重要な書類を前にしているのに、ペンを持つ手が止まってしまう。


あれから何回か、エステルに宛てて手紙を送ったが、返信はない。

母シャルロットは、もっと頻繁に手紙を出しているようだが、そちらにも何の反応もないらしい。

エステルの実家、伯爵家には……聞ける道理もない。


美しい妻は、まるで──ふっつりと、この世から消えてしまったようだった。


「くそっ……くそっ、くそっ」


執務室の机に、握り拳を叩きつける。

隣室にいる秘書官は、きっともう、この音に慣れっこになっているだろう。


発作のように頭に浮かんでくる、愛しい人の姿。

痛みを感じでもしなければ、簡単には消えてくれない。


大人気(おとなげ)なかった。正直、そう思う。

世間では、社交界で浮名を流した令嬢が、結婚して、立派に夫婦生活を送っているではないか。

だから、エステルが男を知っていたからといって……あんなふうに、取り乱した自分が不甲斐(ふがい)ない。


それでも──自分には耐えられなかったのだ。


子供の頃から、ずっと好きだった。

16歳で彼女が大病したときは、そばで看病できないことが、くやしくて、もどかしくてならなかった。

熱病から生還した彼女が、使用人にまで気を配る、聖女と称されるレディーに成長したのを見ると、自分のことのように誇らしくなった。


そんなエステルとの、初めての夜──。

傷つけたくない、嫌われたくないと、心をすりへらして、寝室に向かったのに……。


「はあっ……」


ロベールは深く溜め息を吐いて、頭を抱えた。


彼女が、この手をコルセットの(ひも)に導いたとき。

突き上げるように、燃えたつ情念が自分を支配しなかったといったら、嘘になる。


エステルがささやく言葉のひとつひとつに身体の(しん)がうずき、彼女が触れた一箇所一箇所が、火傷(やけど)でもしたかのようにピリピリと敏感になっていった。


でも、ふいに思ってしまったのだ──ずいぶん、慣れているんだな、と。


男の身も心もとろけさせる、こんな技術を身につけるのに、どれだけの相手と身体を重ねたのだろう。

社交界デビューもしていない彼女が、いったい、いつの間に、あんなにも淫らな楽しみにひたっていたのだろう。


許せない──。


ずっと一途(いちず)に想いつづけてきた自分が、馬鹿みたいだ。

裏切られた絶望感にさいなまれながらも、酔いと疲れに負けて、彼女の腕の中で朝まで眠ってしまった。

その場で疑問をぶつけて、問い詰めることさえできずに。


なんて、情けない──。

早朝になって、癇癪(かんしゃく)を起こしたように彼女の追放を命じたとき、ロベールの頭の中には恥じらいと怒りしかなかった。


婚礼の前に、祖母フランソワーズにささやかれた言葉が、重くのしかかる。


『気をつけなさい、ロベール。聖女などと大袈裟(おおげさ)に噂される女ほど、裏の顔があるものよ。公爵家の未来は、あなたの態度にかかっているのです。万が一のときには、愛する妻に対してさえも、毅然とした対応をなさい。公爵家の血をつなぐのに必要なのは、あなた自身です。覚えておきなさい。子供を作るだけなら、他の女性とでもできるのだということを……』


そうだ。エステルを、簡単に許してはいけない。これは公爵としてのけじめなのだ。

いざとなったら……自分だって、他の女と肌を重ねてみせる。エステルが他の男に抱かれたように。


結婚をひかえた自分に、祖母がこんな()()()()()ことをいうのは、母を気に入らない腹いせだと思っていた。

父の亡きあと、エステルとの結婚を急がせたのは、母だったのだから。


大人になって耳に挟んだことだったが、子供の頃、エステルとの婚約が決まったときも、祖母はこの縁組みに反対していたらしい。

ロベールの両親は、王国に議会を設置し、広く民衆の意見を政治に反映するべきだと主張していた。

エステルの父、シプレー伯爵も〈議会派〉と呼ばれるグループの一員だったから、保守的な祖母は気に入らなかったのだろう。

それでも婚約が成立したのは、公爵である父が反対意見を押し切ったからに他ならない。


もともと気に入らなかった縁組みを、気に入らない嫁が推し進める。

そのことに、祖母はいらだって、()()()()()()()をしているのだ。

ロベールは、そんなふうに思っていた。

それなのに、まさか本当にエステルが、あんなに()()()()な女性だったなんて──。


バンッ


ロベールは、もう一度、机に拳を叩きつけた。

あれから、何もかもがうまくいかない。


突然、エステルを追放したことで、母との関係にも亀裂が入っていた。

エステルの追放を一任した騎士たちは、思ったよりも口が軽く、スキャンダルは(またた)く間に、王都の貴族たちの酒のつまみとなってしまった。


父の遺志を継いで、〈議会派〉の活動に参加したものの、他人の目が気になって仕方がない。

色狂いの女に(だま)された、間抜けな公爵──誰もが裏では、自分を嘲笑(あざわら)っているのではという不安が(ぬぐ)えない。

〈議会派〉の(ゆう)だったシプレー伯爵家の兄弟、カミーユとバスチアンも、すっかり会合に顔を出さなくなってしまった。


《こんな馬鹿げた不始末のせいで、この国の将来はめちゃくちゃだ……》


自分がどうにかしなければと思えば思うほど、誰かに救いを求めることができなくなってしまう。


繊細すぎる……? いや、その通りだ。

公爵家のただひとりの後継ぎとして、ぬくぬくと育ってきた自分の心が、あまりに(もろ)いことは自覚している。

その情けなさが、いっそう、ロベールの自己嫌悪を増幅していた。


「くそっ、くそっ、くそっ、くそ──っ」


手元の本を壁に投げつけたとき、コンコンとノックの音がした。


「……入れ」

「失礼いたします。メイドがお手紙を預かってまいりましたが……扉の前で往生(おうじょう)していたので、わたしが預かりました」


騎士のジェロームが、たんたんと言う。


「サー・ジェローム……君まで、わたしのことを笑うのか」

「笑いはしません。ただ、近頃、家中の者は、公爵さまに近づくことを避けております。理由は……お分かりですね」


ジェロームは、昔からこうだった。

いつから、父の元にいたのだったか。ロベールより、5つ年上の兄のような存在。

遠慮のない、真実をつく物言いが好ましい男──だが、その言葉さえも、今のロベールにとっては心をえぐる凶器のように思える。


「後悔なさっているのでしたら、一度、きちんと話し合われてはいかがですか」

「くっ──わたしは、後悔などしていないっ。エステルから()びてくるならいざ知らず、手紙の返事すら寄越さないのだぞっ」

「そのようですね。本当は、もうお亡くなりになったのではないですか?」

「なっ、なんだとっ!?」


あっけに取られたロベールを冷ややかに見つめて、ジェロームは言った。


「ご命令通り、どこまでも冷淡に、奥方さまを山に捨ててまいりましたので。聞けば、ひとり()(したが)ったメイドのエマも実家に返したと言いますし……絶望してお命を落とされたかもしれません。そうでなくても、晩秋の山は冷えます。伯爵家で育ったお方が、いつまで生き残れることか」

「悪い冗談もほどほどにしろ……第一、そんな大事(だいじ)があれば、別荘番が知らせてくるだろう」

「ああ、別荘番ですか。去年、マルセルが死んでから、夏の別荘は女房のマリーが女手ひとつで手入れをしています。公爵さまのお手紙に何の知らせも寄越さないのは、マリーの手が回らないからかもしれませんね」

「待て……マルセルが死んだだと? では、エステルはその別荘番の女房とふたりきりなのか?」


ジェロームは、さも当たり前のことのように答える。


「ええ、そうなりますね。ちょうど、さきの公爵さまがお亡くなりになった時期と重なりましたから、マルセルが死んだ報告は、ご記憶に残らなかったのでしょう」

「……」

「ご心配ですか?」

「しっ、心配などしていない」

「まったく……奥方さまの火遊びに、お(きゅう)をすえたいだけかと思っておりましたが、この際、お家のために、はっきり申し上げましょう。これ以上、エステルさまを山に閉じ込めておけば冬になります。冗談が冗談ではなくなる。初夜が期待外れだったからと、妻を凍死させるようなお方の言葉に、この国の民が耳を傾けるでしょうか」

「──っ!」


バシャッ


ジェロームの顔から、青黒いインクがポタポタと垂れた。

激昂したロベールが、インク壺を投げつけたのだ。


「出過ぎだ、ジェロームッ! 公爵家の当主は、お前ではないっ」

「……ご無礼いたしました。お許しください」

「黙れ黙れっ、お前の顔など見たくもないっ。あらゆる役目から外れて、当分はわたしの前に姿を見せるなっ」

「御意……」


黒い(しずく)をしたたらせながら、騎士は執務室を去っていく。

ロベールは両手の拳を机に叩きつけた。

ジェロームの言うことが正しいのは、わかっている。だが、自分は公爵だ。妻の無言の抵抗ごときで、簡単に折れては公爵家の名折れではないか……。


冬までは、まだ時間がある。

もう少し……もう少し、エステルが折れてくるのを待とう。

そうすれば、どこか暖かいところに移してやってもいい……。


心に、重いヘドロのようなものがからみつく。

エステルを遠ざけたことで、結局はジェロームまで失望させてしまった。

本当に不始末だったのは、エステルなのか。それとも、こんなにも情けない自分なのか──。


動揺した気持ちのまま、ジェロームが持ってきた手紙を開封する。


《お祖母さまか……茶会……気晴らしにでも行ってみるかな》


パーティーも政治的な会合も楽しめなくなったロベールにとって、祖母の邸宅は、残された数少ない避難場所になっていた。

すがるような思いで、公爵は参加の返事を書きはじめた──

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