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失敗の代償

夏の別荘のまわりには、6月だというのに、まだ雪が残っていた。

〈暗い山〉という不吉な名前で知られるこの場所には、盛夏にだけ、公爵家が涼をとりにやってくる。

それほど大きな邸宅ではない。

ただ、広大な山並みに囲まれて、深呼吸したくなるほど空気の澄んだ気持ちのいい土地だ──こんなふうに、野良犬のように追いやられてくるのでなければ。


まだ、油もさしていなかったのだろう。

サー・ジェロームが扉を開けると、ギイイと重く蝶番(ちょうつがい)(きし)む音がした。


別荘番の老婆が、あわてて駆け寄ってくる。


「これは、エステルお嬢さま……いえ、奥さま、それに騎士のみなさまも、いったい、どうなさいました」


2年前の記憶がたしかなら、たしか、マリーという人だった。

あまりに突然の来訪で、髪は乱れ、結んだエプロンの紐もよじれたままだ。


ジェロームは、マリーの胸に手紙を押しつけると、暗い声で言った。


「公爵夫人は、これからここに(すま)われることになった。よくお世話をするように」

「ええっ、なんですって?」

「……詳しいことは、公爵さまからの手紙に書いてあるだろう。とにかく今後、公爵夫人は外出されない。客人も招かない。公爵家と伯爵家の者以外、誰とも会ってはならぬ。その点だけは、しかと守ってくれ」

「は、はあ……」


ガタガタッ


若い騎士たちが、乱暴に旅行鞄を玄関ホールに放り込む。

エステルとメイドのエマが、どうにか詰め込んできた衣装や荷物だ。

作業を済ませると、騎士たちは挨拶もせずに、そそくさと馬留めへ帰っていく。


最後まで残ったジェロームは、ポツリと玄関に立つメイドのエマを振り返って、無感情な声で言った。


「あなたも、間違った主人について、不運でした。今からでも遅くない。遠慮なく、別の働き口をお探しなさい」

「うっ……ううっ……」


押し殺した嗚咽(おえつ)をあげるエマを、ジェロームはあわれみの目で見つめてから、玄関の扉を閉じた。


「……嵐のようだね。まったく、わけがわからないわ」


マリーが、白髪混じりの頭をかいた。

疲れ切ったエステルは、投げやりに言った。


「きっと、その手紙に書いてあるでしょう。わたしの素行(そこう)が悪くて、公爵家の恥になるのだと」

「まさか──奥さまが、そのようなことを。それに素行も何も、まだ婚礼をあげられたばかりじゃありませんか」

「たった、一晩よ」

「え……?」

「たった、一晩、公爵さまと過ごしたら、捨てられてしまったわ」

「……奥さま。いえ、以前のように、エステルさまとお呼びしてもよろしいでしょうか」

「ええ……構わないわ」


がっしりした働き者の腕を組んで、マリーが言った。


「それじゃあ、エステルさま。お疲れのところ、本当に申し訳ありませんが……このマリーだけでなく、そこで泣いているメイドさんのためにも、何があったのか包み隠さず、お話しくださいませんか。公爵さまからのお手紙は、エステルさまのお話をお聞きしてから、開封することにします」


1時間ほどして──

ともかくも、居室に荷物を運び終えたエステルたちは、食堂に集まっていた。

マリーが、起こしたばかりの暖炉の火を気にしながら、すみませんねえと言った。


「まだ、シーズンではないので、ちゃんとした準備も整っていなくて」

「いいのよ、こちらこそ迷惑をかけて、ごめんなさい」

「とんでもありませんよ。息子のポールが街から帰ってきたら、もっと(まき)を割っておくように言いますね」


エステルは、ふと気がついて(たず)ねた。


「そういえば、ご主人の……マルセルさんは?」

「去年、ポックリ逝っちまったんですよ。だから、あたしもお(ひま)をもらおうかと思ってたんだけど、先代公爵さまがお亡くなりになったりで、なかなか言い出せなくて……そうこうしてたら、息子が一緒に住んで、手伝ってくれるって言うんでね。続けさせてくださる限りは、あたしたちでこのお屋敷をお守りしようと思って」

「そう……ご主人のことは、残念だったわね」

「死んだ()()()()亭主なんて、今はどうでもいいんですよ。エステルさま、あたしゃ、お嬢さまのことが心配なんです。いったいぜんたい、何があったっていうんです?」


エステルは、長いまつ毛をまたたかせて、少し悩んでから口を開いた。


「ここには、殿方はいらっしゃらないから……すべて、ありのままにお話しするわね──」


暖炉にくべた焚き木が、パチパチと音を立てた。

エステルは、マリーとエマにすべてを話した。


ロベールの祖母から、初夜の指南書として大量のロマンス小説をプレゼントされてきたこと。

婚礼のあれこれで疲れ切った身体に、お酒をあおって、深夜に夫婦の寝室に戻ったこと。

真っ赤な顔をして戸惑うロベールの耳元で、ロマンス小説から学んだ熱いセリフをささやいたこと。


最初は、何を言い出したのかと怪訝(けげん)な顔をして聞いていたマリーとエマも、次第に前のめりになる。


エステルに(いざな)われるまま、震えるロベールの手が、コルセットの紐を解いた。

少女のように細くて白いロベールの指が、エステルの肌に触れた。

ロベールをベッドに押し倒したエステルは、義祖母の送ってくれたロマンス小説そのままに、貴公子の耳たぶを甘く噛んだ──。


「そっ、そっ……それでっ……!?」


ゴクリとのどを鳴らしたメイドのエマが、真っ赤な顔で口を挟む。


「公爵さまが、急に切ない悲鳴をあげて、わたしの胸に抱きついてきたの。子供みたいに……そのまま、わたしが震える公爵さまを抱きしめて──ふたりで眠ってしまったわ」

「──えっ?」


拍子抜けしたように、エマが目を丸くした。

マリーが、咳払いをして言った。


「……それだけですか?」

「そう、それだけよ。でも……自分で言うのもなんだけれど、初夜としては上出来だったと思うの。公爵さまが、あんなに切ないお顔をされたんですもの。お義母さまの言いつけ通り、男女の幸福を感じていただけたと思うのだけれど──追放されちゃった」


ふうむ、とマリーが考え込んで言った。


「こりゃ、重症だね」

「重症……?」

「公爵さまの()()()()ぶりですよ」

「……どういうこと?」


エステルさま……とマリーが溜め息を吐いた。


「おぼっちゃま……公爵さまは誠実なお方だけれど、プライドは人一倍高くていらっしゃいます。そのことは、お分かりですよね?」

「ええ、もちろん──」

「そして、エステルさま。あなたさまが、世間でなんと呼ばれているか、ご存知ですか」

「世間で……? いいえ」

「汚れなき聖女、ですよ」

「まさか──わたしはそんな、大層(たいそう)なものじゃないわ……」

「とにかく、です。そんなふうに言われている奥方さまを、初夜のベッドに迎えるのです。公爵さまが夫として、何を考えていたか……お分かりになりませんか」

「えっ……」


そう言われてはじめて、エステルはロベールの気持ちに思い至った。


ドキリとした。


ロベールだって、自分と同じ……ウブな新妻をリードしなければ、夫婦のなんたるかを教えなければと思っていたかもしれない。

そんな夫の耳に、自分はこの唇で、ささやいたのだ……あんな──扇情的な言葉を。


エステルは、愕然とした。

転生してからこのかた、エステルは他人に尽くすことばかり考えてきた。


貴族令嬢に生まれ変わってしまったことは、もうどうしようもない。

なら、せめて自分は、威張り散らすだけの最低の貴族にならないようにしよう。

そのためには、領民や周囲の人々に感謝し、奉仕するしかない。

そして、実家の伯爵家と、嫁ぎ先の公爵家の未来を考えるなら、初夜には自分が頑張るしかない──。


他人に()()()()()のではなく、自分が()()()()()()()()ならない。

最低だった前世の親不孝を、恋人への裏切りを、少しでも(つぐな)えるなら。


そんな思いにがんじがらめになって、逆にロベールの気持ちに気がつくことができなかった。


《ロベールなりに準備して、気合いを入れて来てくれたのに……わたしが台無しにしたんだ……》


(みだ)らすぎる──そんなふうに批難される覚えはないと思っていたけれど、ロベールは十分、傷ついたのだろう。


《だったら……やっぱり、悪いのは、わたしなんだ》


不当な扱いへの怒りで張り詰めていたエステルの心に、音を立ててヒビが入った。

自分が悪い。

そう思った瞬間、これまで大切にしてきた人たちのことが、走馬灯のように頭をよぎる。


お父さまとお母さまは、どう思われるだろう。

内務省で働きはじめたカミーユ兄さま、バスチアン兄さまは、周囲の人になんと言われるのだろう。

ロベールとの結婚を後押ししてくれた、お義母さまは?

伯爵家の使用人たちだって、破廉恥なスキャンダルで傷つくかもしれない。

それに──これまで尽くしてくれた、エマの立場はどうなるのだろう。


「……ごめんなさい」


しばらく黙り込んでいたエステルの口から、そんな言葉がポロリとこぼれた。

マリーとエマが、顔を見合わせる。


「エマ。サー・ジェロームの言ったことは正しいわ。今なら、まだ間に合う……一度、伯爵家に帰って、今後のことを相談してちょうだい。伯爵家で働いて、つらいことがあるようなら、どこか他家に……あなたなら、きっとどこへ行っても、大切にされるはずよ。いつもお日さまのように明るくて、優秀なんですもの」

「おじょ……お嬢さま、いえ、エステルさま、何をおっしゃっているんですかっ」

「いいのよ。こんな馬鹿げた失敗に、あなたを巻き込むわけにはいかないわ」


エマは、もう真っ赤になっていた目から、またポロポロと涙をこぼした。


「いやですっ、エマはお嬢さまのおそばを離れませんっ」

「いいえ、ダメよ。ここは公爵家の別荘ですもの。公爵さまに望まれないわたしが、あなたにお給金を払うわけにはいかない。だから、お願い」

「そんなのっ、そんなのご本心では──」

「くどいわ、エマ。公爵夫人として、今日限り、あなたには暇を出します。あなたを推薦した伯爵家に身柄を差し戻すから、すぐに準備をして。マリー、悪いのだけれど、どうにか馬車の手配を……何度も山道を旅をさせて、ごめんねエマ」

「おっ、おじょうさまぁ……ううっ……」


泣きじゃくるエマを見ていられなくて、エステルは立ち上がった。


「今日は疲れたわ。もう休むから──見送りにも出ない、冷たい主人のことなんて、早く忘れて。どうか元気で……」


エステルは逃げるように食堂を出ると、階段を駆け上がった。

ホコリっぽい寝室のベッドに突っ伏して、声を殺して泣く。


《ああ、わたしはまた失敗したんだ……転生までして、二度目の人生なのに、どうしてうまくできなかったんだろう……》


冷え切った高地の空気に震えながら、エステルはこのまま消えてしまいたいと、強く願った──。

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