やっちまった。転生だ。
ゴトゴトと、乱暴に走る馬車。
騎士たちに放り込まれてからだいぶ経つのに、一度も休憩していない。
夏の別荘は、北方の山間部にある。
あそこには、2年前に招待されて行ったきり。
でも記憶がたしかなら、デコボコ道を通るとき、馬車はいつもよりペースを落として、ゆっくりと走ってくれたものだった。
追放された淫乱な妻には、そんな気づかいすら不要ということだろうか。
すっかり痛くなった身体をすくめながら、エステルは思いに沈んだ。
いったい、何がいけなかったというの──。
エステルは、また義祖母のことを思い出す。
お茶会から数日後。
義祖母からの秘密のプレゼントが、こっそり届けられた。
送られてきたのは、3冊のロマンス小説──そうとでも呼ばないと、恥ずかしくて持っていられないような、男女の営みを描いた書物。
そして、本と一緒にラッピングされていた、色ガラスの美しい小瓶──。
〈エステルへ 気持ちを高めるときに使ってね。とても滑りがよくなるから── Fより〉
そんなカードがついていた。
瓶の蓋を開けてみると、ほんのりと甘い香りが漂う。
傾けて指先に少しつけてみると、トロリとした香油のようなものだ。
ええっと、これって……。
その香油の使い道に思い至って、エステルの顔は火を吹いたように真っ赤になった。
まさか……まさか、この世界に来て、こんな手ほどきを受けることになるなんて。
16歳の、あの冬──
高熱にうなされたエステルは、生死の境を彷徨った……と、誰もが思っている。
でも本当は、エステルの意識はあのとき、熱くて真っ暗な世界に沈んでいって……代わりに、〈わたし〉が目を覚ました。
それは、とてもぼんやりとした入れ替わりで、〈わたし〉にはエステルの記憶が残っている。
でも、誰かの記録映画でも見るかのように、記憶の中の景色は遠い存在で、〈わたし〉の心には響かない。
〈わたし〉は、たしか、サチコという名前だったと思う。
大学を卒業して、小さな出版社に入社したばかりだった。
学生時代から付き合っていた恋人とは、就職してしばらく経った頃から、疎遠になっていた。
生活のリズムが合わなくなっただけじゃなくて……サチコが彼を遠ざけたのだ。
あるとき、会社の先輩に連れられて、作家が集まるという文壇バーに行った。
サチコは雰囲気に飲まれて、たいしてお酒を口にしたわけでもないのに、ボウッとしてしまった。
それで、気がついたら先輩とからみあって、ホテルのベッドの上にいた。
先輩は、遊び人だった。そんなことは知っていた。
それなのに、その夜は、すごく、すごくよかった。
サチコは、初めてだったのに。
酔った勢いで遊ばれた自分に腹が立つ。そんな夜がよかった自分にも腹が立つ。
何より──いつか、彼と迎えると思っていたその夜が、そんな形で終わってしまったことに、腹が立つ。
だから、サチコは恋人を遠ざけて、仕事に集中した。
意味もなく、深夜まで会社に残って、印刷所に入校する前の原稿とにらめっこをした。
ふらふらになるまで働いて、会社の前の道路に出て、タクシーを拾おうと手をあげたとき。
ふらっ
視界が歪んで、身体が車道に向かって倒れた。
キーッとブレーキの鳴る音……ドンッと身体のぶつかる音……ドタバタとまわりで駆け回る足音。
そこで、ふっつりと、意識が途切れた。
16歳の伯爵令嬢の身体で、そんなどうしようもない前世の記憶を取り戻したサチコは、茫然とした。
なんだこれ。なんなんだ、この状況は。
真っ白で、青い静脈が透けてみえるような、頼りない手。
長い髪を指にからめてみる。細くてサラサラした、亜麻色の髪だ。
熱っぽい身体を無理に起こして、鏡を探す。映ったのは──
やつれているのに、とんでもない美少女。
気が遠くなりそうで、サチコはベッドに倒れ込んだ。
やっちまった。転生だ。
なんて親不孝な娘だろう……。
都会の雰囲気に酔って、先輩に身体を許して、そんな自分が許せなくて健康を犠牲にした。
その結果が、死──そうだ、自分は確実に死んだと思う。
だから、もといた世界に帰りたいと願っても、無理に決まってる。
ひょっとしたら、これは軽薄だった自分への、神さまの罰なのかもしれない。
お母さん、お父さん、最後までバカな娘でごめんね……。
サチコは泣いた。
伯爵令嬢の、折れそうな身体を震わせて、思い切り泣いた。
それから、たっぷり1ヵ月、熱が引いてもふさぎ込んだ。
だから、伯爵家では、あの冬にエステルが2ヵ月寝込んだことになっているけれど、後半はサチコが自己嫌悪にまみれて、落ち込んでいた時間なのだった。
ともかくだ。
前世のサチコだって、男女の営みに詳しかったわけじゃない。
むしろ、めちゃくちゃ奥手だったのだ。
周囲の友達が、彼氏とデートした夜のノロケ話を振ってきたりすると、サチコはどうにか話題を変えようとした。
彼がデートコースにわざわざホテル街の近くの道を選んで、モジモジしているのを見ると、サチコは気がつかないフリをしてズンズン先を急いだ。
そんな前世だったから、大人になるまで生きたとはいえ、エステルの参考になるような知識は、ほとんどない。
わかっているのは、ただ、男女がするという行為が、どういうものであるか。
そして、それが、すごくいいと感じられる場合もある、ということ。
でも、そんなことは、自分では認めたくもなかった。
きっと、世の中には肉体をからめあうだけではない、すばらしい愛というものもあるはずだ。
ちゃんと、ステップを踏んで、心を通わせて、はじめてちゃんと愛し合えるはずなのだ。
《あんな、一晩限りの関係が転生してまで記憶にこびりついているなんて、ありえない……》
この世界では、ちゃんとしよう。ちゃんと、愛を育もう。
そんなふうに気負ってしまったエステル=サチコにとって、義祖母に与えられたミッションのプレッシャーは、とてつもないものだった。
この世界で、自分はお貴族さまなのだ。
貴族の夫人は、世継ぎを作らなければならない。まあ、そりゃそうだよね。
ノブリス・オブリージュってやつでしょう。
毎日毎日、メイドや執事たちに助けてもらって、こんなに贅沢な暮らしをしているのだから、せめて、彼らが支えたいと思う主家を守って、維持していかなければならない。
転生してから、エステルはずっと、こんな調子だった。
前世のことは、泣きに泣いて、どうにかあきらめをつけたつもりだった。
でも、前世で親不孝をした自覚があった分、この世界の両親に尽くしたいという気持ちが強くなった。
両親だけではない。
前世ではひとりっ子だったけど、この世界ではふたりの兄もいる。
両親と自分だけの核家族だった前世とはちがって、この世界には子供の頃から世話をしてくれた乳母や料理人、庭師のおじさんや下男たち……そういう、たくさんの人たちもいる。
お貴族さまの暮らしというのは、そういうみんなに支えられているんだから、みんなに恩返しをしなくっちゃ。
どうせ自分は、好き勝手に生きて、一度は死んだのだから……今度は、みんなのために努力しよう。
それは結局、罪悪感の裏返しだった。
けれども、そうとは知らない伯爵家の人々は、驚き、そしてよろこんでくれた。
回復して以来、悟ったようにワガママを言わなくなり、無駄な買い物もせず、進んで使用人の手伝いまで買って出るエステルを、誰もが聖女のようだと噂した。
使用人たちの言葉がひとり歩きして、「聖女のようなエステル」という表現を、義祖母までが使うようになっていた。
だから、今度もまた、聖女のようなエステルは、性愛の指南書に真剣に向き合ったのだった。
何しろ、自分は公爵夫人になるのだから……初夜の営みで、男女の悦びのなんたるかを、ロベールにたっぷりと味あわせなければならない。
そして……最初のプレゼントが届いた翌朝──
エステルお嬢さまを起こそうと、部屋のノブを回したメイドは、首をかしげた。
いつもカギなんかかかっていないのに、昨夜はどうして、カギをおかけになったのかしら?