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彼女が初夜を意識したわけ

ひとつ年上のロベールと婚約したのは、エステルが8歳のときだった。


ロベールの家門セードル公爵家と、エステルの実家シプレー伯爵家は、領地も隣り合わせで、王都に構えた邸宅も近い。

ロベールの父親である先代公爵は、エステルの父親と馬があったらしく、互いの家を行き来しては、政策論争や哲学談義に花を咲かせていた。


自然と夫人同士も近しくなって、やがて子供たちを連れての家族ぐるみの交流が深まった。

夏の別荘、誕生日のパーティー、ロベールやエステルの兄たちがアカデミーに入学したお祝いの会……。


もちろん、貴族の子供同士……とくに男子と女子だったから、気軽に誘い合って遊んだことなど一度もない。

両親に連れられて、年に何回か顔を合わせていただけだ。

当然、思春期を迎えても、恋だの愛だのと呼べるようなものが、エステルとロベールの間に存在したことはなかった。


それでも、ロベールとの婚約に、エステルは幸せを感じていた。

子供の頃から顔を合わせてきた相手と結婚できる。

たとえ親が決めた縁談でも、エステルは満足だった。


顔も知らない、はるかに年上の貴族と政略結婚させられたなんていう話も珍しくない世の中だもの。

自分の相手は、年齢も近く、誰もが振り返って見るほど美しい、公爵家の嫡男ロベール。

これ以上、何を望めっていうの──。


ただ……ロベールと結ばれる日は、想像よりも早く訪れた。


先代公爵が流行病(はやりやまい)で急逝し、ロベールは若干20歳で公爵の地位を継ぐことになったのだ。

そうなってはじめて、のんびり構えていた両家は、ふたりの結婚を急がせた。


16歳で大病(たいびょう)(わず)い、生死の境を彷徨(さまよ)ったこともあって、エステルは19歳でも、まだ社交界デビューしていなかった。

両親は、またエステルが倒れては困ると、この末娘をガラス細工のように扱っていた。

それに実のところ、結婚相手を探す必要がないのだから、無理にパーティーに出す必要などなかったのだ。

結局、エステルは社交界デビューを果たさぬまま、公爵家に輿入(こしい)れすることとなった。


ところで、大人の事情を言えば、この結婚には反対意見がなかったわけではない──主に、公爵家の側から。


広大な領地を持ち、王家に次ぐ伝統と権力を持つセードル公爵家のほうが、家格は圧倒的に高かった。

それでも最終的に、公爵家のうるさがたの親類たちが、ふたりの結婚を許したのは、伯爵家の莫大な財産があったからだ。

シプレー伯爵領の山々から切り出される木材は質がよく、王国の内外で建築資材として重宝された。

それに、ここのところ繰り返されている隣国との戦争で街が焼かれるたびに、大量の木材が必要とされる。

一方の公爵家は──広い領地を経営するため、そして家の体面を保つために、(ふところ)はいつも火の車だった。


だから、公爵家の親族たちの中には、エステルを冷たくあしらう者も少なくなかった。

プライドの高い公爵家の人々は、一族の資産状況がかんばしくないこと自体に腹を立てていたのだ──それは、エステルのせいでも、シプレー伯爵家のせいでもないのに。


「戦争の被害で儲けた、新興貴族のくせに」

「金貨で公爵夫人の地位を買った娘だよ」

「あんな山育ちの娘より、ロベールにふさわしい淑女がいくらでもいただろうに」


結婚披露宴の席でも、ヒソヒソとささやきあう声がエステルの耳に聞こえてきた。


さらに悪いことに、先代公爵にはロベールしか子供がいなかった。

だから、公爵家と縁を結びたがっていた貴族たちの(ねた)(そね)みは、すべてエステルに注がれることになった。


「お高くとまって、伯爵家にいらっしゃる頃から、パーティーにも出席なさらなかったでしょう」

「公爵夫人になると決まっていたから、わたくしたちを見下していたんですわ」


同年代の貴族の令嬢たちからも爪弾(つまはじ)きにされて、新婦のエステルはパーティー会場の(すみ)で、さみしく座っているしかなかった。


それでも──光り輝く新郎のロベールが、やさしく微笑みかけてくれる。

たくさんの来賓への挨拶を、そつなくこなしながら、時折、みずから飲み物を持って、エステルのそばに来てくれる。

それだけで、エステルは折れそうな心を奮い立たせて、初夜に向かうことができたのだ。


そう、()()に向かうことが。


エステルに、その特別な一夜を意識させたのは、ロベールの祖母フランソワーズだった。

ロベールが爵位を継いで、ひと月ほど経った頃、エステルは公爵家の〈湖の御殿〉と呼ばれている、フランソワーズの屋敷に呼ばれた。


庭園に揃えられたティーセット。

見慣れた午後のお茶会の風景。それなのに、エステルは緊張していた。

いつもなら、近くに控えているメイドや執事たちまで、フランソワーズが遠くに下がらせたからだ。


《何か、重大なお話があるのかしら……》


エステルが、口を開きかけると、先手を打つようにフランソワーズが言った。


「ここだけの話だから、正直に教えてちょうだい。エステル、あなた、殿方と恋仲になったことはあるの?」

「えっ……ございませんわ」

「あなたほど美しいご令嬢に、その歳になるまで、誰も言い寄らなかったの?」

「はい、あの……世間の常識とは、ズレているのかもしれませんけれど、16のときに大きな病気をしてからは、よそのパーティーにおうかがいすることもなくなりましたし……」


はあ……とフランソワーズは溜め息を吐いた。


「そう。じゃあ、男の方と一夜を過ごしたこともないのね」

「あっ、ありません、そんなこと」

「あのね、エステル。もう、あなたは身内になるのだから、恥を忍んで言いましょう。わたくしの息子アルノー……亡き先代公爵には、ロベールひとりしか子供ができなかったわ。自分には4人も弟がいるのにね。なぜだか、わかるかしら」

「いえ……」

「ロベールの母親、シャルロットが女の(よろこ)びを教えなかったからよ」


エステルは、しばし絶句した。


「シャルロットさまは、女性としても、とても魅力的な方だと思いますけれど……」

「才気活発、音楽にも文学にも優れている。見た目だって申し分ない。わたくしにも自慢の嫁だわ。でもね……昼の魅力と、夜の魅力は、また別のものなのよ」

「そう……なのですね」

「そんなに、おかしなものを見るような目でわたくしを見ないでちょうだい。わたくしだって、あなたのようにウブだったときがありました。でも、その汚れなき心のままでは、公爵家の妻はつとまりません。ロベールは、アルノーに輪をかけて潔癖なのだから、正妻のあなたが世継ぎを作らなければ、よそで外子(そとご)を作るようなことは、決してないでしょう」


世継ぎ……貴族としては、当たり前のはずの単語。

けれども、社交界デビューもせず、同年代の令嬢たちとの交流の少ないエステルに、面と向かって世継ぎを作れなどと言う者は、これまでいなかった。


「わたしも、ロベールさまが……公爵さまが、よそに子供を作られるなんて、想像したくありません」

「ええ、そうでしょうとも。でも、あなたが積極的に動かなければ、(めかけ)が必要になってしまうかもしれない。公爵家の血を絶やすわけにはいかないの」

「はい……」

「貴族の結婚は、幸福なことばかりではない……残酷な側面も多いわ。妻が世継ぎを作る重い義務を課せられるのも、そのひとつよ。それなのに、あなたのご実家のご両親もシャルロットも、あなたの聖女のような心に、男女の営みのあれこれを植えつけるのをいやがって、何も教えていないようじゃない。だからね、エステル──これから、わたくしの言う通りに、しっかり男女のことを学びなさい。そして、すべての知識を、()()()()()に使うのです」

「しょ、初夜、ですか……?」

「なんといっても、肝心なのは、初夜なのです。ロベールは女を知らない身……リードなど期待してはいけません。あの子が、あなたの情熱的な行為で愛の悦びを知り、女の肌のやわらかさに気づけば、あなたたち夫婦が幸福になるだけでなく、公爵家の未来も安泰なのです。反対に、初夜でしくじれば、ロベールは男女の愛を交わす自信を失い、父親と同じくベッドでは淡白なままで生涯を終えるでしょう。すべては、あなたとの初夜にかかっているのよ、エステル」


ぎゅっと手を握られて、エステルはビクリと身震いした。

自分の顔が火照(ほて)って、真っ赤になっているのがわかる。


初夜に、しくじってはいけない。

その日から、エステルの心には、その言葉が水に落ちたインクのように広がっていった──。

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