満月と猫と恋と
夏なんてなくなればいい。
坊主頭のてっぺんから滝のように流れる汗が目に染みて、集中力がふつりと切れた瞬間、
ザッ、ドタンッ、ダンッ
師範代に一本背負いで投げ飛ばされた。
俺は畳の上で受け身を取りつつ、四肢を投げ出しほんの少しの間、道場の天井を仰いだ。空気がむわっと籠っている。夕食の時間も近いというのに、灯り取りの天窓から見える青空はまだ昼のようだ。この道場は照明がないため、夏は太陽の出ている限り稽古が続く。
ああ、今日こそ家に帰ってから夕食までの自由時間で絵を描こうと思ったのに。昼間が長い夏はこれだから嫌だ。
不意に視界が暗くなり、筋骨隆々の師範代に顔を覗きこまれる。
「秀一、早く起きんか! ぼんやりしおって、陸軍将校のお父上の名を汚すつもりか! 軍に仕官したお前の兄たちはもっと気合いが入っていたぞ! かかってこい!」
「……はい」
決まり文句の怒鳴り声に、俺は顔から感情を削ぎ落とし、構えの姿勢を取った。
ようやく陽が傾きだした頃、稽古が終わった。結局集中力は取り戻すことはできず、何度も投げ飛ばされ体中悲鳴をあげている。
早く家に帰ろう。ほんの少しの時間も惜しく、道着を脇に抱えて道場の玄関を出ると、数人ほどで固まっていた同期生の一人から声をかけられた。
「なあ、今夜隣町で祭りがあるそうだ。みんなで行ってみようぜ」
「遠慮しておく」
「そう言わずに、あの資産家の美人姉妹も来るらしい。ぜひ顔を拝んでみよう……」
「結構だ」
尚も言い募る相手を適当にあしらう。すぐに諦めるだろうと足を早めると、後ろから不機嫌そうな声が上がった。
「はっ、すかしやがって。軍部のお偉いさんが父親だから、自分も同じようだと自惚れているんじゃないのか?」
「奴の家から道場への寄付も多額らしい。師範代がやる気もない奴に目をかけているのも道理だ」
「この前、帳面か何かに絵を描いているのを見たぞ。金があって親がご立派だと、道楽にうつつを抜かせるんだな」
「あんな奴のことは放っておこう。それよりその美人姉妹の話だが、姉は華やかで舞台女優のように美しいが、妹の方は地味でたいしたことがないらしいぞ」
「ははあ、それは残念だな。姉に似れば良かったのに」
「まったくだ」
大声で笑う彼らに背を向け、俺は西日のきつい大通りへ出た。むき出しの地面から熱が立ち上る。奴らの笑い声がいつまでも追いかけてくる。逃げるつもりはない。言わせておけばいい。
なのに、足が勝手に走りだす。ここから遠ざかろうとする。
夏なんてなくなればいい。
暑さで頭に血が上りやすくなる。いつもなら、くだらない奴らの戯言など気にも止めないのに。
気付けば、町境の川にたどり着いた。
頑張れば飛び越えられる川幅に、大人の膝くらいまでの深さで、蛍が住み着くほど清らかな水が流れている。反対の岸のその奥には、森に囲まれた神社の鳥居が見える。今夜祭りがあるのはあの神社だ。
はあはあと弾む息を整え、夕暮れに染まる川の水で顔や頭を洗う。その冷たさに、ようやく溜まっていた熱が引いたように思えた。
土手にドサリと寝転ぶと、近くにいたらしい猫の親子を驚かしてしまった。母猫はしゃーっ! と俺に威嚇をし、子猫が数匹母猫にぴとりとくっついている。
「……動いてる動物って、どうやって描けばいいんだろ。柄も様々だし、色もただ一種類だけじゃ出せないし……」
猫たちを見ていて、つい考えていたことが口からこぼれる。
寝ても覚めても頭の中にあるのは、「絵を描きたい」。ただそれだけだった。
町の名士で根っからの軍人である父と、武家の出の母が、兄たちのような立派な軍人になってほしいと願っていることは知っている。親戚や周囲は、軍人一家として生まれたからには、その道しかないと決めつけている。
しかし俺は、絵の魅力にとりつかれた。
母が懇意にしている画家の個展が開かれるということで、渋々付き合って画廊を訪れたときのこと。
画廊の扉を開けた瞬間、俺は言葉を失った。風景や人物などが生き生きと描かれたそれらの絵画は、父や兄たちと比べられ過ぎてくすぶっていた俺の魂を、根っこから強く揺さぶった。
時間を忘れて全ての絵画を食い入るように見ていたら、しびれを切らした母は先に帰り、いつの間にか閉館の時間となった。すると、個展を開いた老画家に声をかけられた。老画家は妻と二人で隣町に住んでおり、やる気があるなら住み込みの弟子として、絵を勉強させてくれると。
名のある画家に指導してもらえるなんて、何という行幸だろうか。しかし、どうしても両親に言えなかった。
なので時間を見つけては、小遣いを貯めて買ったスケッチブックに鉛筆でデッサンを描き、鍛練の一環と言い訳をして隣町まで走り込みに行き、その途中で老画家の家へ寄ってこっそり指導を受けている。
『様々な事柄に興味を示し、様々な感情を自分の中に見つけることだね。秀一くんは、ご家族のことで色々思うことがあるだろう? そういったことも、全て絵に託せばいい。いつか必ず、実を結ぶはずだよ』
これは師匠である老画家の言葉だ。ある日絵の上達法を尋ねると、師匠は穏やかに微笑んだ。
俺は目をつむる。夕焼けがまぶたの裏に焼けつく。
誰にも家族は選べない。家族である以上家族から逃れられない。唯一自由になる術は、自分が自分たる「何か」を手に入れたときではないか。
俺は絵描きになる。なってやる。そして、自由になるんだ。
不意に、先程道場の同期生たちが話していた、隣町の姉妹のことを思い出した。
妹の方は、ずっと姉と比較され続けてきたのだろうか。俺のように、人知れず悩みを内に秘めているのかもしれない。俺は絵を描くことと師匠の存在で救われた。彼女の心を癒やす存在は、あるのだろうか……。
みぃ、にゃう、ふにゃん
何かの鳴き声が聞こえる。これは夢か現か。
ぼんやりした頭で辺りを見渡す。満天の星、雲がかかった朧月、さやさやと流れる川の水、お囃子の笛の音、にゃおん、ふにゃあ……。
自分が今どこにいるのか思い出した俺は、ガバッと勢いよく体を起こす。
「……まずい。今何時だ?」
どうやら寝ていたらしい。とっぷりと暮れた空から、確実に夕食の時間は過ぎており、門限を破った事実に青ざめる。
今は雲がかかっているものの、今夜は満月ということで、周囲はそこまで闇に包まれていない。隣町の神社の付近が提灯で明るいし、お囃子の音が聞こえるし、祭りへ向かう人の気配を感じられる。
ふにゃあ、みゃおん
今度ははっきり聞こえた。というよりも、向こう岸で影が動いた。
よくよく目を凝らすと、どうやら黒い子猫のようだ。夕方この辺りで見かけた母猫にくっついていた子猫と同じ大きさなので、もしかしたら兄弟なのかもしれない。
あの黒猫、さっきはいなかったような。どこか出掛けていたのか? 親猫たちはどこへ行ったんだろう。いやそれよりも、早く帰らねば。
手早くシャツやズボンについた草を払っていると、
「猫ちゃん……黒い猫ちゃん……どこですか……」
心配そうな、しかし柔らかな囁きが耳に届いた。
どうやら神社へ続く道から小走りで川辺へ近付いてくる、提灯を下げた人影が発したらしい。
それは、白地に朝顔の柄の浴衣を着た少女だった。顔までは見えないが、声音から17歳の俺より少し年下くらいか。
ひぎゃっ、ふしゃあ!
呼ばれた子猫は、先ほどより動きが慌ただしくなった。すぐ側には川があるというのに。
子猫の威嚇が聞こえたのか、少女がさっきよりも明るい声を上げて走ってきた。
「あ、猫ちゃん! そこにいるのね? 大丈夫よ、少しだけ足の怪我を、見させてほしいの……」
「動くな!」
「ひゃっ!?」
俺は思わず少女に小さく声をかける。しかし、遅かった。
みにゃっ……チャプン
「きゃあ!! 猫ちゃんが、川にっ!! た、助けなきゃ……えっ」
「くっ!」
少女があわてて下駄を脱ぎ、浴衣の裾をあげるが、それより早く俺の体が動いた。
サブンッ、ザバッ、バシャッ
俺のいた位置が若干川下だったおかげで、溺れていたのは数秒ほどか。全身びしょ濡れの子猫をすくい上げ、胸元に抱き寄せる。すぐに子猫は全身を震わせて水気を吹き飛ばし、俺から逃れようとジタバタと暴れだした。元気そうで何よりだが、小さな爪が痛い。
そのままザブザブと反対側の岸に上がると、少女が駆け寄ってきた。
「ああっ、猫ちゃんもあなたも無事で、本当に良かった……! ありがとうございます! ありがとうございます!」
「いや、別に……飼い主じゃ、なさそうだな」
「はい、先ほどあちらの神社で見かけたこの子が、足を怪我しているように見えて、追いかけてきたのですが……あら?」
子猫は俺の腕からピョンと飛び出し、近くの草むらで自分の毛についた水滴をせわしなくなめとった。そして何事もなかったのかのように立ち去る。
「普通に、歩いているように見えるが。もしや、これが血に見えたとか」
俺は腕についていた、布の切れ端を指でつまんだ。少女が持つ提灯の明かりで、色まではっきりとわかる。少女はあっけにとられた顔をして、まじまじと見つめる。
「まあ、赤い、布? す、すみません……私ったらてっきり……」
「気にしていない」
「あの、こちらをお使いくださいませ。風邪を引いてしまいますわ」
少女は提灯をそっと地面におろし、持っていた巾着から手ぬぐいを出すと、おずおずと俺に差し出す。
「結構だ。それよりも、見知らぬ男に無闇に近付かないほうがいい。危険な奴だったらどうする」
「まあ……ふふっ!」
「何故笑う?」
「川に入ってまで猫ちゃんを助けてくださった上、そんな忠告をしてくださるなんて、なんて優しい方なんだろうと思いまして」
満月が雲間から顔を出し、少女の顔を正面から照らす。決して華やかな顔立ちではない。それでも、内面の優しさがにじみ出ていて、とても愛らしい。きらめくつぶらな瞳、白い肌、愛らしい唇、何よりその無垢な微笑みは、まるで天女のように神々しかった。
彼女を、描きたい。ありのままの彼女を、俺が。
自分の胸に沸き起こる初めての感情に言葉を失う俺を見て、怒っていると思ったのか少女は少し俯いた。
「ご忠告を笑ったりして申し訳ございません。おっしゃるとおり、夏祭りで少々はしゃいでしまいました……気を付けます」
「ああ……」
「あの、差し支えなければ、お名前をお聞きしても? 改めてお礼とお詫びをしたいので、よろしければ教えて下さい」
「俺は……」
名前を言うか迷う俺を遮るように、遠くから「あかねー!」「お嬢様ー!」と数人の切羽詰まった声が聞こえた。
少女は顔色を変えて提灯を慌てて持ち上げる。
「大変! 何も言わずに離れてしまったから、藍子姉様やばあやたちが心配して探しに来てくれたのだわ。ここでお待ちになってください。あなたのこと、二人に紹介しますから」
「いや、それは……」
「藍子姉様、ばあや! 茜はここにおります!」
元来た道を足早に戻る少女。その後ろ姿をしばらく眺めていたが、提灯が三つ四つ集まる様子を見て、気取られないようにその場から立ち去る。少女の前で出自を話すのが嫌だったからだ。
夜道を走って走って、家の近くまでたどり着いたとき、ようやく少女の手ぬぐいを握りしめたままなことに気付いた。
「……というわけで、藍子姉様とばあやを連れて川辺へ戻ったら、子猫を助けてくださった方はもういらっしゃらなかったのです。ちゃんとお礼もできませんでしたわ」
「そうなのですね」
「私、男の方が苦手だったのですが、とても優しい方がいるのだなって、苦手意識が少し薄くなりました。秀一さんとこうしてお話できるのも、きっとそのおかげです」
「じゃあ、その人には感謝しないと。茜さんと二人で、こうして夏祭りに行けるのだから」
満月がぽかりと浮かぶ夜空の下、僕はつい先日恋仲になれた女性――白地に朝顔柄の浴衣に身を包んだ茜さんと並んで、川辺を歩いていた。
夏祭りが行われている神社へ向かう道中、茜さんが数年前にこの川で子猫を救ってくれた男の話をしてくれた。その男が僕だということは、全く気が付いていない。
それもそうか。あれから僕は見た目も言葉遣いも変わったから。
川から家へ戻ってすぐに、両親へ画家になりたいことをはっきり伝えた。父には軟弱者と怒鳴られ、母には情けないと泣かれた。
しかし兄たちが、「秀一が高名な画家の弟子になることで、我が家が武に優れているだけでなく、教養も兼ね備えている証拠になる」と説得してくれたのには心底驚いた。どうやら二人とも僕が隠れて絵を描いていることに気付いていたらしい。師匠である老画家の元へも訪ねていき、僕の資質ややる気を確かめたそうだ。
あのときほど、出来のいい兄たちを妬んでいじけていた自分を恥じたことはない。そして彼らに心から感謝し、両親に頭を下げ続けた。
説得の末、渋々ながらも両親の了解を取り付けると、すぐに家を出て師匠夫妻の屋敷へ住み込んだ。弟子として絵の修行をしながら、師匠の付き人としても働くことになった。
いつでも絵筆を握ることができ、師匠や繫がりのある画家たちの絵を見て目を肥やしていった。充実した毎日に、自然と言葉遣いや見た目も落ち着いたほどである。
『この女性は?』
『一度会っただけなのですが、彼女は僕の恩人であり……初恋の人、なんです』
絵の修行を始めて数年が経ったある日、師匠に隠れて描いていた絵が見つかってしまった。それは、満月に照らされた浴衣姿の少女のデッサンで。
あのときの彼女との出会いがきっかけで、僕は夢を現実にさせる一歩が踏み出せた。そして……恋を知った。
会いたかった。幸せにしているか知りたかった。
しかし、自分はまだ未熟で修行中の身。育ちの良さそうな彼女は良家の子女に見えたので、許嫁が居るかもしれない。色々考えると、焦燥と嫉妬で暗い気持ちになるほどだった。
それから数日後、『今度君の絵を画展に出すよ。知り合いの娘さんたちにモデルを頼んだから、姉か妹のどちらにお願いするか決めてきなさい』と、突然師匠から言い渡された。
戸惑いながら、この街で有名な資産家の屋敷を訪れると……。
「ははっ、全く師匠も人が悪い」
「え?」
「いえ、何でもありませんよ」
茜さんがこてんと首をかしげた。その可愛らしい仕草に心が癒やされる。
通された座敷にいたのは、あのときから少し大人びたように見える彼女――茜さんと、その姉の藍子さんだった。
恋い焦がれていた彼女との再会に、嬉しさ以上に動揺が勝った。師匠としては茜さんをモデルに絵を描けばいいと思ったのだろうがそれどころではない。結局、消去法で僕がお願いしたのは藍子さんだった。
藍子さん曰く、僕はとてもわかりやすいらしい。視線が常に茜さんを探しているという。すぐに茜さんへの恋心を見破られ、出自や性格、想いの本気の度合いなどを質問攻めにされた。自分の兄たちのように、妹を考えての行動だろう。
藍子さんの協力もあり、とある夕立の日、僕は茜さんに想いを告げた。奇跡的なことに、彼女も僕を慕っていたというではないか。
信じられないことに、両思いだったのである。
茜さんが、夜の川を横目に見つつふんわり微笑んだ。
「黒い猫ちゃんもあの方も、今頃どうしているでしょう」
「……恋人が横にいるというのに、過去の男を気にかけるとは、茜さんも罪な方ですね」
「い、いえっ、違うのですっ! 猫を助けてくださった方は、当時の私の淡い初恋のような感じで、良い思い出のひとつで! 今お慕いしているのは、秀一さんだけですからっ!」
猫を助けたのは自分のことだとわかってはいても、つい意地の悪いことを言ってしまった。茜さんの口から、僕だと認識されていない男の話を聞きたくない。数年に及ぶ片思いの日々が、嫉妬と執着の塊を心の奥底に溜め込んでしまったようだ。
しょんぼりと俯くふりをする僕を見て、茜さんは顔を真っ赤に染めて言い募る。常に穏やかで楚々とした彼女だが、年相応に慌てふためく姿は何とも愛らしい。
ああ。茜さんも、あの満月の夜に、僕と同じ想いを抱いたのですね。あなたを幸せにすると誓ったのに、幸せにしてもらっているのは僕ばかりだ。
必死な表情で、僕の浴衣の袖をぎゅっと両手で掴んでいる茜さん。悪いことをしてしまった。彼女の震える手をそっと外し、ぎゅっと自分の両手に閉じ込める。
「困らせてしまってすみません。大丈夫です、茜さんを信じていますから。ところで、これに見覚えは?」
濃紺の浴衣の袂から一枚の手ぬぐいを取り出し、茜さんに手渡す。不思議そうな彼女の顔が、段々と驚きに変わっていく。
お囃子の軽妙な笛の音、川からの涼やかな風、煌々と明るい満月。そして、最愛の人が隣に。
夏が一番好きな季節になった。
川で溺れかけた黒い子猫は、数年後の新月の夜、とあるお屋敷の庭に迷い込み、その家の優しい娘さんに助けられました。「ヨル」と名付けられ、末永く可愛がられましたとさ☆
(拙作「夕立と猫と恋と」参照)