表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/27

高原の民

 山腹に沿って北上を続けていくと、森がさらに変わってきた。シラカバが増えてきている。シラカバは枝葉の量がモミやツガよりも少ないので、林内が明るい。その分だけハコヤナギのような潅木が増えてくるので、多少歩きにくくなる。

(こんな北には初めて来るなあ。意外と明るいんだね)


 雪渓が点在するようになると、洪水になった沢の跡も減ってきた。地面も乾いてきて、ブーツに樹皮を巻きつける手間をしなくて済む場合が増えてきたのだが……

(まあ、そう甘くはないよね)

 森がバッサリと切り取られた場所に出たキビアルが、眼前に広がっている激流にため息をついた。


 ここも元は小さな沢だったようだが、突然の大増水によって川幅10メートルの激流に変わっていた。斜面の傾斜が30度以上はあるので、ほとんど滝のような勢いだ。

 しぶきと一緒に石や枝がぶっ飛んでくるので、いったん森の中へ引き返してキャンプの用意をするキビアルである。さすがに何度も経験しているので手際が良くなっている。


 木の枝を束ねて、それをちょっとした岩場に立てかけてキャンプを設営してから、囲炉裏もつくる。これもすっかり手馴れているので、すぐに白い煙が立ち上った。

 それを確認して、キャンプの外へ出るキビアル。軽く背伸びをして、再び激流の川岸に行く。上流を見上げて、気楽な表情で若ハゲ頭をペチペチ叩いた。

(これまでの経験だと、この洪水も明日、明後日には収まるでしょ。それまで休憩だな)


 しかし、洪水に流されてきた溺死トナカイが予想以上に良い状態だったので、解体して干し肉にする事にしたのであった。持ってきた保存食や干し肉は、まだ大量にあったのだが……

(まあ、狩人の性質さがだよね。ははは)


 干し肉が完成するには数日間かかるので、その間は暇になる。しばらくの間、濁流の下流を眺めていたキビアルだったが、若ハゲ頭をポリポリかきながら背負い袋を担いだ。

(ちょっと探検してみるか。ここは洪水被害が少ないから、獣が多いはずだしね)


 傾斜が30度から時には40度になる急斜面なので、慎重に斜面を下りていく。1時間もすると低地が見えてきた。キビアルの目がジト目になっていく。

(まあ、そうなるよね……)


 山が終わって平野部になる場所は、広大な泥の海になっていた。先日、ヒグマが溺死したような状況だ。ただ、草原ではなくて森が山の斜面にあるので、流出してきた土砂の量はそれほど多くない。

 それでも立木の埋まり具合から推測するに、泥の厚さは2メートルほどか。人が溺れて凍死するには充分な深さである。泥沼にはあちらこちらに動物の骨が見え隠れしている。どれも泥に染まって黒っぽい。


 その骨の中にマンモスの象牙が何本か交じっていたのだが、取りにはいけないな……と残念がる。

(泥沼の上を歩くのは無謀だよね。ん~残念。探検はここまでか)


 キャンプ地へ引き返そうとしたキビアルの耳に、久しぶりの人間の声が届いた。

(ん?)

 驚いて振り返るキビアル。泥沼の中州から人が姿を現した。それも10名ほど。その中のリーダー格っぽい男がキビアルに手を振っている。服装がキビアルたちとは異なっていて、さらに髪とヒゲも茶色だ。

「おーい! そこの旅の人っ。我々が脱出する手助けをしてはくれまいか」


 見慣れない服装と顔立ちなので、もしかすると彼らが高原の民なのかな……? と考えながらキビアルが了解した。

「分かりました。綱か何かを投げてください」


 既に準備をしていたようで、打根の根元に太めの皮紐が結びつけられ、それが投擲器にセッティングされた。それをリーダー格らしき茶髪の男が持って、大きく振りかぶる。

「では、投げますよ!」

 鋭くて重厚な風切り音を立てて、打根がキビアル目がけて射出された。皮紐の抵抗で打根それ自体は、飛んでくる途中で減速してヘロヘロになった。紐が付いていなければ、かなりの射程距離がありそうな武器だ。


 それが見事にキビアルの足元に突き刺さる。感心するキビアルだ。

(おお……狙いが正確だな)

 皮紐が早くもコルク状の泥沼に沈み込み始め、それに引っ張られて打根が泥沼へ引きずられていく。

(おっと、感心している場合じゃない)


 キビアルが急いで泥沼に落ちかけていた打根を拾い上げた。それを近くに生えている根張りの良さそうな松の幹に巻きつける。皮紐は当然のようにマンモスの皮だった。マンモスは巨体なので、長い皮紐を切り出す事が可能なのだろう。

 キビアルが中州の連中に手を振る。

「縛りつけました。渡ってきても大丈夫ですよ」


 彼らは中州に閉じ込められている間に流木製のソリを作っていた。それを使い、一人ずつソリの上に乗って皮紐につかまって渡ってくる。

 ソリには別の皮紐が取りつけられていた。最初の人が無事に渡った後に引っ張られて、再び中州へ引き戻されていく。


 キビアルが最初に渡ってきた男の手を引くと、聞き慣れない言葉で返事をしてきた。小首をかしげるキビアルに、中洲の茶髪の男が解説してくれた。

「我々は黒森や南の民ではないのですよ。高原の民と呼ばれています。君に攻撃を加える事はしませんので、安心してください」


 高原の民と聞いて、なるほど……と理解するキビアルであった。まさか、こんな低地にいるとは予想していなかった。



 しばらくすると、中州から高原の民が全員脱出してきた。特にケガをしている人は見られないので安堵するキビアル。茶髪の男に自己紹介した。

「俺は黒森の民で、溢れ水の泊のキビアル。北へ一人旅をしている途中です」

 茶髪の男が柔和な笑みを浮かべた。近くで見ると、40代前半という印象だ。茶髪とあごヒゲには癖が強くあり、顔の彫りも深めである。身長は170センチほどで結構ガッシリしている。瞳は黒く二重まぶただ。

「これはご丁寧に。私はキルデ。高原の民で「石数え」をしています」


 キビアルはフードを外して若ハゲ頭をポリポリかいた。

「い、石数え……ですか? 聞いた事が無い役職ですね、それ。何をする仕事なんですか?」

 キルデが少し考えてから、穏やかな口調で簡単に説明してくれた。

「物見が見聞きした情報を、石に置き換えて記憶する仕事です。マンモス狩りには人数が多く必要で、数日かけて仕留めます。その狩りの段取りを整える仕事ですね。他にトナカイの群れを狩る際にも使いますよ」


 キビアルが何となくながらも納得した。

「俺も罠の見回りをしていますが、記憶し損なう事が結構ありますね。なるほど、石を見て記憶を思い起こす方法ですか。確かに便利で必要な仕事ですね」

 そして、キルデたちの荷物に視線を向けた。ほとんど全て衣服だ。

「ちょうど、俺がキャンプしている場所で干し肉をつくっているんですよ。お腹が減っているでしょうから、今から取りに行きましょう」



 キャンプ地から泥沼まで、キビアルは2時間かけて山の斜面を下りてきたので、登るとなると半日がかりになる。キルデたち一行は総勢10名で、子供ら老人はいなかった。そのためキビアルと一緒に森の中を登っている。

 その間に、キルデから色々と話を聞くキビアルであった。


 キビアルが直感した通り、この一団のリーダーはキルデだった。彼の話によると彼らが住んでいたのは、ここよりも少し北、山の斜面の上に広がる高原という事だった。

 キビアルが森の中から尾根を見上げる。

「それほど広いんですか? この登り坂の先って」

 キルデが息を切らしながら微笑んだ。どうやら、それほど体力はないらしい。

「そうですね。高原になっています。豊かな大草原が広がっていますよ。私も西の端へは行った経験がありません。まる一年かけても端に着かないそうです」


 それを聞いて少しがっかりするキビアルであった。

(何てこったい……西もダメか。北しか残ってないなあ)


 そんな広大で豊かな高原だが、先日の大雪と大寒波で一変した……と、キルデが深刻な表情になって話す。今は小休止しているので、息切れしていない。

「語り部の間では知られていたのですが、「氷の暴風」と呼ばれる大嵐が起きました。私の泊の最年長者も知らない嵐だったので、相当昔に起きただけなのでしょう。ろくな対策ができないまま、ほうほうの態で高原から逃げ出してここへ来た……という次第です」


 そう言ってから、低地で洪水に巻き込まれて酷い目に遭ってしまいましたけどね……と自虐的に苦笑している。

「高原以外の土地の情報って、あまりないんですよ。小さな沢でしたので油断していました」

 キルデが率いていたのは最初は50人ほどだったそうなのだが、脱落者が続出して10人になってしまったらしい。


 キビアルが驚きながらも同情する。キルデたちの服装は、毛皮が分厚くモコモコして温かそうなのだが……

「そんなに「氷の暴風」って致命的なんですか……他の高原の民は無事に避難できたのですか?」

 キルデが両目を閉じて否定的な仕草をした。

「石がないので何とも。ですが、高原に残ったままだと確実に凍りついてしまったでしょうね。多くの高原の民は、私のように南に逃れていかずに東や西へ逃げたと推測しています。ほとんどは西でしょうね。高原が続いていますから」


 キビアルが小首をかしげた。

「南……? この山の斜面は南北に伸びていますよ。泥沼がある低地は東になりますが」

 キルデが明るい表情になる。

「いえ、南で合っています。高原からまず東に出て、斜面を下りてこの低地へ出て、それから南へ進路を変える予定なんですよ。南にはトナカイやマンモスが少ないので、私の泊しか行動していませんけどね」


 それでようやく納得したキビアルであった。

「ああ、なるほど。そういう事ですか。俺はその南から来たのですが、この先の低地は洪水で泥沼だらけですよ。俺の故郷の溢れ水の泊まで南下しないと、まともな土地はないかと」

 キルデが軽く頭を抱えた。

「げげげ……本当ですか、それ。南下行を決定したのは私なんですよ。判断を誤ったかなあ」

 キビアルが苦笑しながら、追い打ちをかける。

「しかも、溢れ水の泊にはマンモスはなかなか来ません。トナカイや馬はいますけどね。途中に大河があって、冬が来るまでは渡河できませんよ。ですので、焦らずにゆっくり南下する事を勧めます」


 キルデが天を仰いだ。

「ははは……ではそうする事にします。石がないと本当に無力だなあ、私は。ああそうそう。実は、東へ向かった泊の連中もいたんですよ。西へ向かった連中よりは遥かに少ないですが」


 再び小首をかしげたキビアルに、キルデが説明を続ける。今はもう小休止を終えて、再び針葉樹の森の斜面を登っている。

「東に広がる海ですが、実は陸地と島に囲まれているんですよ。海の向こう側に大きな半島があるんです。周囲が海なので、極端な寒波は襲ってこない場所ですね。氷の暴風から避難するには適していると判断する石数えが向かったんですよ。無事に到着できたかどうかは、石が無いので分かりませんが」


 この頃になると、かなり登って標高が高くなっていた。キビアルが森の中から東を眺めてみる。当然ながらオホーツク海がボンヤリと見えるだけで、その先にあるという島影や半島は見えない。

「へえ……そうなんですか。この海って内海だったんですね。知りませんでした。南の民も知らない様子でしたよ」


 今度はキルデが意外そうな表情になった。

「そうなんですか。高原の民の間ではかなり知られた情報ですよ」

 そう言ってから、森の中から東の低地を見下ろしながら指さした。

「東の低地に出て、北上するとやがて道が二つに分かれます。一つは北へ進んで、峠を越えて「夏だけの草原」へ出る道です。これはお勧めできません。夏だけしか居られません。冬になると寒すぎて凍死します」

 サラリと断言するキルデである。


 キビアルがピクリと反応した。

「夏の間だけ人が住んでいる場所ですか……俺でも行けますか?」

 キルデがキビアルの服装を見て、即座に否定的な仕草を返した。

「その服装では無理ですね。凍死しますよ。高原ですので、寒波が襲ってきたら逃げる場所がありません。そこの泊にも保存食は残っていないでしょう」

 キビアルは裁縫が得意ではあるのだが、キルデのようなモコモコした分厚い服の仕立て方は学ぶのに時間がかかる。さらに、そんな服装のキルデたちが寒波から逃げているという事実がある。

 小さくため息をつくキビアルであった。

「……そうですね」


 キビアルの表情から何かを察したキルデだったが、そのまま話を続けた。

「もう一つは海沿いに南へ向かう道です。半島になっているんですよ。半島の先は、この海を取り囲む島々につながっています。ですが、ここも問題がありまして。火山だらけなんですよ」

 キビアルが知らない情報が立て続けに出て来るので、少し目を回している。キルデがそれを察して、話を切り上げた。

「南ですし、海に囲まれた半島ですので暖かい場所です。ちなみに、火山を越えると東に「黄昏たそがれの大地」と呼ばれる大草原があります。ここも同様に夏の間しか暮らせませんが、高原ではないんですよ。どこかに避難場所があるかも知れませんね」


 キビアルは、この「黄昏の大地」という単語も初耳だった。

(高原じゃないんだ。強烈な寒波はあまり来ない……かな。薄片を捨てに行くなら、この方面か)


 高原で起きた「氷の暴風」で凍死したり、カグサのように逃げ出したのは人間だけだったらしい。マンモスやトナカイ、馬といった獣は寒波に耐えたという。

(……と言う事は何年かしたら再び、高原の民が高原へ戻ってくるだろうなあ。よっぽど北の大地に薄片を埋めないと、見つかるかも知れないのか)

 そんな北では永久凍土層だらけになるはずなので、深く掘る行為そのものが不可能な恐れがある。石器では大して深く掘削できない。


 素直にキルデの情報に感謝するキビアルである。そろそろキャンプ地へ到着する頃だ。夕方になって空が暗くなってきている。

「重要な情報ありがとうございます、キルデさん。北の高原ではなくて、南の半島を目指してみます。ああそうだ。俺の服装だと、どの辺りまで行けそうですか?」


 キルデが改めてじっくりとキビアルの服装を見て、少し考えてから答えた。

「そうですね……半島を目指す前に、少しだけ北への道を進んでみてください。山のふもとに高原の民が夏の間だけ使っている泊があります。その場所の太陽の高さを記憶しておくと良いでしょう。その高さよりも太陽が低い場所からは、早急に南へ逃げる事です」

 つまり今のキビアルの服装では、その高度以下の場所には対応できない。


 キルデは他にも何か指摘しようかとしていたが、軽く頭を振っただけに留めた。

「北へ行き過ぎると、その太陽の動きが変になるのですが……まあキビアル君の服装では、そこまで行けませんね」


 キビアルが少し考えてから、お守りを服の中から取り出した。トナカイの骨でつくったものだ。それをキルデに手渡す。

「溢れ水の泊の住人の証です。これを族長のカグサに示してください。これで俺の紹介だと分かります。きっと泊で受け入れてもらえるはずですよ」

 黒く変色した骨製のお守りを手にしたキルデが恐縮しながらも感謝した。

「とても助かります。ありがとうございます。ここから南は洪水で泥沼だとキビアル君から聞いて、大いに迷っていたんですよ。君の泊に滞在できるなら、願ってもない朗報です」


 キビアルが少し照れながら、フードの上から頭をかく。

「いえいえ。重要な情報を色々と教えてくれたので、そのお礼ですよ。10人くらいでしたら、問題なく暮らせるはずです。川のほとりなので溺死した獣が多く流れ着くんですよ」


人物紹介です。高原の民の石数えキルデですね。年齢は40代前半で身長は170センチあります。


挿絵(By みてみん)


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ