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沿海州へ

 危惧していた通り、北へ向かう途中では河川の解氷による洪水が発生していた。海岸に近い低地では洪水状態になっている。仕方がないので、少し西の内陸に入って山沿いに北上する事にしたキビアルであった。

 平地と違って山の斜面をひたすら歩くので、洪水状態は沢に限定されている。その点は歩きやすいのだが、アップダウンが多いので疲れる。


(ふう……どうやら冬の間は大雪だったみたいだなあ。乾いてるのは尾根筋くらいしかないぞ)

 樺太半島には高い山はないので、こういった山脈の南北縦走は慣れておらず、大変な様子である。頻繁に休憩している。北海道では標高800メートル台まで沢登りしていたのだが勝手が違う様子だ。


 沿海州の森は、北海道や樺太半島とは少し違っていた。より寒く乾燥した気候に適応した樹種が多くなっている。針葉樹は変わらないのだが、これにシラカバやハコヤナギ、松が増えている印象だ。

 普段は大雪になる事が少ないようで、雪折れした枝や幹が目を引く。今やその雪も融け始めているので、山の斜面全体がズブ濡れ状態になっている。キビアルがグチったように、歩きやすいのは尾根筋くらいしかない。


 結局、アムール川を渡ったようにアザラシ皮のブーツ底に樹皮を巻きつけたままで山越えをしていく。沿海州の西に広がる山地は、結構高い。さらに太古の大噴火の影響で山頂が平坦な高原状になっている。

 高原は乾燥しているために普段は豊かな大草原となり、マンモスや馬、野牛などの大群が暮らしているのだが……今回のように大雪になると、雪が積もってしまう。雪解け頃になると、この根雪が一気に融けて洪水が発生する事になる。

 キビアルが苦労しているのも、この地形のせいだ。



 文句を言いながらも、沢を渡って北を目指していたのだが……ある日、山頂付近で轟音が鳴り響いた。キビアルは山腹にいるために、角度的に山頂は見えない。それでも異様な圧迫感を若ハゲ頭に感じ、思わず足を止めて西の空を見上げた。

(げ……嫌な重低音がする。地響きもしてきたぞ)


 斜面を見上げても当然ながら「その何か」は見えない。

 しかし、焦燥感は急速に膨れ上がってくる。慌てて、沢を猛ダッシュで渡り切り、大きな岩の上によじ登ってみる。この大岩は巨大な火成岩なので、石器の材料になるのだが今はそんな余裕はない。

 周辺は松やモミの林で、見上げるとシラカバが何本か生えている。沿海州ではごく普通の景色だ。


 聞き耳を立てていたキビアルの表情が次第に蒼白になっていく。

(な、なんだこれ。轟音が斜面の上から満遍なく聞こえてくるぞ)


 そう感じた次の瞬間。

 轟音とともに泥水の壁が尾根から迫ってきた。いや、津波が山の上から襲い掛かって来た。

「ぎゃ……」

 慌てて大岩にしがみつく。

 津波は大量の流木を含んでいて、それらが容赦なく風切り音を立てて濁流と共に転げ落ちてきた。すぐにこれは流木ではなくて、たった今、津波によって地面から引っこ抜かれた森の木々だと理解する。

 キビアルの頭上を何本もの松やモミの木が、緑の葉を空中に撒き散らしながら飛んでいく。


 大岩の周辺の木々もこの津波と流木群によって、地面から引っこ抜かれていく。

 大岩はさすがに重量があるのか、数メートルほどずり下りただけで済んだ。必死に大岩にしがみつくキビアル。手足を何度か岩の上で滑らせたが、何とか大岩から振り落とされずに済んだようだ。


 この場所で石器用の石を採取しているので、キビアルも沢の急増水や鉄砲水、土石流に警戒していた。その上で最寄りの大岩の上に避難して対処したのだったが……

(げげ……いつもなら沢から離れれば大丈夫なのに。何だこれ。山の斜面が全部水没してるぞ)


 キビアルは知らないのだが、実は山頂付近の高原では大雪が一気に融けたせいで、いくつもの即席の湖ができていた。その湖の岸が水圧で破壊されて、一気に大量の水が山肌を駆け抜けたのであった。


 ただ、湖の水量はそれほど多くはない。しばらくすると水深が浅くなってきた。一時は水深が1メートルほどもあったのだが、今はもう数センチだ。

 尾根筋が浮かび上がり、陸地が急速に広がっていく。


 轟音が聞こえなくなり、地響きも収まってきた。沢はまだ濁流が渦巻いて滝のように流れ落ちているが、ほっとするキビアルである。

(ふう……やり過ごしたな。この大岩もずり落ちて不安定になってるし、急いで降りよう)

 大岩から飛び降りて、尾根筋に向かう。


 周辺は景色が一変していた。

 山の斜面に広がっていた森は大被害を受けていて、大量の若木が太い老木に絡まっている。さすがに老木ともなると根張りがしっかりしていたのだろう。傾いてはいるが、地面から引き抜かれてはいない。

 沢沿いに永久凍土層が露わになっている場所だらけになっているのを見て、キビアルが若ハゲ頭をペチペチ叩いた。

(うわー……これから夏になるのに。この永久凍土層が直射日光に当たって溶ける。土砂崩れがまた起きそうだなあ)


 北上を急いだキビアルであったが、1週間ほど行動が遅かったようだ。再び、沢の大増水に巻き込まれてしまった。濁流と化した狭い沢を見つめながら、小さくため息をつく。

(はあ……水位が下がるまでは、ここでキャンプだな)



 こうして、何度か増水した沢に足止めを食らいながらも山腹に沿って北上を続けていく。沿海州の山地は南北に伸びているため、ひたすら山腹を歩く事になる。山越えはしなくて済むので体力面では楽なのだが、沢越えのたびに緊張を強いられる。

 実際に何度か沢の急増水や鉄砲水に巻き込まれて、危うく濁流に流されかけていたりする。尾根筋も安全ではなく、斜面崩壊やその前段階の落石に何度も遭遇している。


 今も、先ほど通過した尾根筋がガッサリと崩落したので安堵している。服の袖の中に入れている「お守り」を握りしめるキビアルだ。

(ひええ……お守りに感謝だな)

 この時代は神仏は発明されていないので、「神頼み」をする相手がいない。


 こうも洪水が多発しているという事は、海岸沿いの低地は洪水になっているだろう。

 かといって、山を登って高原地帯に出るつもりもない様子だ。山腹は暖かいので森林地帯になっているのだが、登るにつれて乾燥して寒くなっていく。森が小さくなって草原に変わっていくのだ。洪水が襲ってきた時に逃げる場所がなくなる。

(高原の民に会いに行くのは、今は遠慮しておくか。この洪水が収まってからだな)


 という訳で、山腹沿いにひたすら北を目指して歩いていくキビアルであった。

 倒木だらけの場所も多いので、枝に服を引っかけてしまう場面が増えていく。毛皮の服なので丈夫なのだが、それでも破けたりしている。

 そのたびに一時休止して衣服やブーツの補修を行う。特にブーツは念入りに修繕しているようだ。足元がドロドロになっているので、ブーツの中へ浸水すると大変だ。まだまだ水温が低いので、足の指がシモヤケになってしまう。



 北へ進むにつれて、洪水の頻度も下がってきた。乾いている場所が増えてきて、沢の増水も常識外れのレベルではなくなっていく。それに伴って、気温が再び下がり始めてきているが。熱波の影響域から外れてきたのだろう。

(ようやく、いつもの風景になってきたなあ)


 濁流から元に戻った沢には、上流の高原から流れ落ちてきた獣の溺死体が点在していた。いずれも原型を留めていない。しかも泥まみれなので、食糧にするには不適だ。

 今も、沢の大岩にぶち当たっている雄トナカイの前足に触れて眉をひそめている。

(残念。これも食べるとあたるヤツだ。泥が肉の中にまで入り込んでる)

 泥の中には食中毒の原因になる菌が含まれている場合がある。


 諦めて先を急ぐ事にしたのだが、思わず腕組みをしてしまった。

(むむむ……これだけ多くの獣が溺死してると、狩りにも支障が出るよね。泊の連中が心配だな)

 森が切れて視界が開けた。潅木交じりの草原が山の斜面に広がっている。しかし、まだ北の方に黒い針葉樹林やシラカバの林が望めるので、この草原は森林火災の跡か何かだろう。

 ここは普段は乾燥しているので、落雷などで燃える事があるのだ。


 キビアルが斜面から下を見下ろすと、洪水状態の低地と、それに続いているオホーツク海があった。それなりに風が強いようで白波が盛んに立っている。

(流氷はもうほとんど消えてるなあ。これから暖かくなりそうだ。ん?)

 キビアルが山地から低地になる境目に目を向けると、泥沼の中に多くの骨が見え隠れしているのが分かった。


 今回の洪水は最近になって起きたので、溺死した獣はまだ白骨死体にはなっていない。昔の洪水で溺れたのだろう。それらが、今回の洪水で流されて一ヶ所に集まっている。骨も白くなくて、黒っぽく染まっている。

 その白骨の山の中に数頭のヒグマがウロウロしている。見事に泥だらけだ。

 キビアルとの直線距離は1キロ以上あるので、警戒する必要はない。

(骨をかじって、飢えを凌いでいるのかな? ちょっと南に行けば、結構たくさんの溺死獣が転がってるんだけどな)


 そう思ったのだが、今は北へ急ぐ事にしたキビアルであった。草原地域は乾燥しているのだが、逃げ場が少ない。もし、この斜面の上から洪水が押し寄せると大いに困る事になる。


 この時代の草原は芝やイネ科の雑草は少ない。そのため比較的背丈の低いマメ科やキク科の雑草の中をヤブ漕ぎして進んでいく。日当たりの良い斜面のせいか、永久凍土層もそれほど多くない。

(むむむ……ここに人が住んでいなければ、薄片を埋める事ができるんだけどなあ)

 斜面の上は高原の民の勢力圏だ。この山腹にも下りてくるだろう。



 そんな事を思案しながらヤブ漕ぎしていると、斜面の下から上昇気流に乗ってヒグマの唸り声がかすかに聞こえた。思わず聞き耳を立てて立ち止まる。

 声がした方向を見下ろしたキビアルの眉がひそめられた。

「ああ。自然の罠にかかってしまったのか……」


 遥か1キロ以上も向こうにある山地と低地の境界部分には、かなり広大な泥の海が広がっていた。草原なので、土砂の流出量が多いためだ。


 洪水が引くと、そこには広大な泥沼が出現する。最初はトロトロした状態なのだが、次第に水分が抜けていくと粘土状になっていく。表面がコルク状態になっているのをキビアルが確認して、ため息をつく。

(表面だけは固いから、上を歩いていけると誤解してしまうんだよね……)

 表面を踏み抜くと、その下は厚さ数メートルの冷たい粘土状の泥沼だ。ヒグマが背伸びしても身長は数メートルに達しないので、溺れるしかない。


 ヒグマの頭がゆっくりと泥沼に沈み込んで見えなくなった。それと同時に、かすかに聞こえていた唸り声も途絶える。

 上昇気流の風の音だけを聞きながら、キビアルが憐れんだ。これまで2回もヒグマに襲われている彼だが、このような野垂れ死には他人ごとではない。

「海に近かったのが幸いだったね。魚が食べてくれるよ」


 永久凍土の中で死んでしまうと、そのまま冷凍されてしまう。解凍されない限りはずっとそのままだ。ネズミやオオカミ、キツネ、イタチに見つけてもらって、食べてもらわなければ姿が残り続ける事になる。


 再び見るとヒグマが沈んだ穴には、どこから来たのかオオカミがウロウロしていた。オオカミは賢いので上手く体重をコルク上の泥の上で分散しているのだろう、ヒグマのように落ちていない。

 少しの間ヒグマの臭いを追っていたようだが、諦めたのかテッテッテと軽い脚どりでどこかへ去っていった。



 やがてキビアルも草原を渡り終わって、再び針葉樹とシラカバが交じる森の中へ入った。

 とりあえず背負い袋の底から薄片を取り出して、近くのモミの木の幹に傷をつけておく。下に泥沼があるので、その危険を知らせるためだ。石斧を使っても良いのだが、ちょっとした気まぐれだろう。


 キビアルがその薄片をマジマジと見つめて小さく呻いた。

「むむむ……やっぱり赤いカビが生えてきているなあ。薄片の全面に広がるような勢いだぞ。つくづく変な石だな、もう」

 毒という可能性もあるので、そこらへんの斜面を意味もなく薄片で掘ってみる。赤い粉状のモノが無事に取れて、薄片が再び元の黒い色に戻った。ほっとするキビアル。

「うん。赤いのが落ちたな。泥がベッタリついたけど、まあいいか」

 泥まみれになった薄片を再び背負い袋の底に押し込んで、立ち上がった。

(さて。北へ向かおう)


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