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北へ

 キビアルは一人でソリを引いて北上し、樺太半島の北端にある溢れ水の泊へ戻ったのだが……ピリャリュが予想した通り、泊に到着するまでに地面の雪が融けてしまっていた。

 おかげで、途中からはソリを空にして、荷物を担いで歩く羽目になったのであった。

(うひー……本当にいつもよりも暖かいぞ)


 雪が融けると泥に覆われた大地に変わる。その中を苦労しながら歩いて、ようやく泊に戻ったキビアルである。出迎えたカグサ族長に挨拶して、若ハゲ頭の汗を拭いた。

「今、戻りました。今年はいつもよりも暖かくなりそうですね。川が解氷する前に出発します」

 カグサ族長がうなずく。

「そのようだな。明日にでも出立した方が良いだろう。既に物見から、川の氷が薄くなって動き始めているという報告を聞いている」

 そう言ってから、目元を和らげた。

「だが、今晩くらいはゆっくりしていけ」


 カグサ族長との話が終わると、今度はキビアル母が手招きした。かなり黒く染まったトナカイ骨の小片をキビアルに手渡す。

「旅のお守りをつくったから、持っていきなさいキビアル」

 キビアルが受け取って、太陽にかざした。

「……あー。泊の近くにある黒沼で溺死したトナカイの骨ですね、これ」

 カグサ族長が補足説明してくれた。

「あの黒沼はここにしかないからな。溢れ水の泊の住人という証明になる。旅先でどこから来たか尋ねられたら、コレを見せてやると良いだろう」


 キビアルが内心で了解した。

(つまり……俺が旅先で野垂れ死にしても、コレで身元が分かるという事か。なるほど、重要なお守りだな)

 キビアル母がジト目になってキビアルの肩をバンバン叩く。

「南で良さそうな娘さんを見つけてこなかったのかい、まったくこのハゲは」

 キビアルがその若ハゲ頭を軽くかいて苦笑した。

「あの島には泊なんてありませんってば。ヒグマと結婚する気もありませんし」


 黒沼というのは、タールが自然に染み出して池になった場所を指している。樺太の北部には油田やガス田があるため、こういった場所がある。

 タールには毒性があるので、溺れた動物は中毒死していく。動物は死後に腐って骨になるのだが、タールに浸っている部分は変色して黒くなる。そんな骨は珍しいので、こうした証明書として使えるのだ。

 ちなみに毒として狩りでは使っていない。刺激のある悪臭がタールにあるので、獲物の肉にその臭いが移ってしまうからである。



 薄片はキビアルが袋の底に収めて人目につかないようにしていたので、泊の住人たちから特に聞かれたりはしなかった。その母石は室の重石に使われていて、「役に立たない石」とみなされている。

 キビアルが黒い母石に触れてみたが、やはり氷のように冷たい。素手ではなくて長袖越しに触れたのだが、その長袖が母石にくっついてしまった。

 ため息をつきながら慎重に引き剥がすキビアルである。

「むむむ……本当に厄介な石だな、もう」


 それを見た子供らが、早速キビアルを取り囲んで冷やかし始めた。その中には、薄片で指を切った男の子の姿もあった。すっかりケガは治って、元気になっている。

「キビアルー! まぬけーまぬけー。その石に触るとくっつくんだぞー」

 キビアルが「ぺリぺリ」とゆっくり長袖を母石から引き剥がしながら、口元を緩めた。

「だよねー。うっかりしていたよ、ははは。ん。よし、はがれた」


 母石に少し毛皮の毛先がくっついたままになっているが、放置する。その母石には多くの割れ目が走っているのだが、薄片は取れないとカグサ族長が言っていたのを確認する。

(新たな薄片はできそうにないな。放置していいだろう。今後は重石として役に立ってくれ)

 しかし、じっくりと母石を見ると、割れてささくれ立った所が赤くなっている。ジト目になるキビアルだ。

(むむむ……これって、毒かな? 拾ってきたのは失敗だったなあ)


 子供たちはキビアルに飽きて、今は廃棄された骨を的にして打根を投げて遊んでいる。石刃は黒曜石ではなくて、この近辺でとれる石を割ってつくっている。アムール川を渡った先には、火成岩が結構たくさんある。スーパープルームという超巨大噴火が大昔にシベリアで起きた名残りだ。


 男の子の親たちにキビアルが会って、明日から薄片を捨てに行くと知らせた。ほっとした表情を浮かべている親たちに、キビアルが二重まぶたの目を細める。こうして見ると、南へ行ったキビアルだけは顔が少し黒くなっている。

「薄片もこれ以上増えないみたいですし、ケガをする子供が出る事はもうないと思いますよ」


 男の子の親たちによると、子供の切り傷は治るまで時間がかかったという事だった。キビアルが腕組みをして呻く。

「むむむ……やはり薄片には毒があるのかも知れませんね。氷のように冷たいのも異様ですし。では、重石に使っている母石は捨てた方が良さそうですかね?」

 その提案には否定的な親たちであった。

「あれほど重い石は滅多にないんだよ。重石に使うには都合がいい。触らないように注意すれば大丈夫さ」


 溢れ水の泊はアムール川の河口にあるため、季節によっては強風が吹く。室は土で覆っているため頑丈なのだが、夏場に使う苫はそうでもない。重石はあった方が便利なのだ。


 不意に南風を感じて、キビアルが空を見上げた。

(むむむ……ピリャリュさんが危惧している通りになりそうだな。出発の準備を整えておこう)

 しかし友人らに絡まれてしまい、準備を終えたのは夜遅くになってしまったようだが。



 翌朝、日の出と共に出発するキビアルであった。見送りをする人はいない。離散集合を常にしているので、去る者は追わず、見送らずという習慣になっている。

 まだ雪が積もっているのだが、ソリは曳いていない。そのため、背負っている荷物だけの軽装である。キビアルがチラリと南の空を見上げる。

(暖かくなりそうだ。急ごう)


 一人で泊を出立して針葉樹の森を抜けると、すぐに凍結したアムール川の南岸に出た。辺りは朝日に照らされてほのかに赤っぽい。

 川岸に立って、上流となる南西に聞き耳を立てる。凍結した川面を寒風が吹き抜けていく音しかしていない。

(……まだ氷は厚そうだな。さっさと渡河するか)


 キビアルはアザラシの皮製のブーツを履いているのだが、そのままでは氷や雪の上で滑ってしまう。そのため樹皮を靴底に巻きつけている。簡易なアイゼンのようなものだ。



 アムール川はこの時代、今ほど川幅が広くない。それでも大河である事は変わらない。キビアルが渡河を始めて徐々に川の中央へ差し掛かると、水深が深くなってきたのか氷が薄くなってきた。

 薄い氷は砕けやすいため、ブロック状の氷が川面から突き出ている。冷や汗をかくキビアル。

(うわ……慎重に進まないと氷を割ってしまう)


 と、その時。キビアルの背筋に悪寒が走った。同時に川面を吹き抜けていく寒風に獣の荒い息が混じっているのを察する。

「げ。こんな時にヒグマかよ」


 ヒグマとの距離は20メートル弱というところか。ヒグマは巨体の癖に隠密行動が得意だったりする。キビアルがこの距離で気づいたのは幸運だったと言えよう。

 ヒグマは今回もオスで、キビアル目がけて真っすぐに迫っている。ヒグマの手足はその鋭い爪がアイゼンの役目を果たしているので、氷上でも迅速に行動する事が可能だ。

 ヒグマの顔を見たキビアルがジト目になった。

(俺を食うつもりか……冬眠しとけよな、もう)


 渡河するのは下策になるため、氷がさらに薄くなる海側へ向かって進路を変えるキビアルであった。渡河して陸上に上がっても、ヒグマの脚の方がキビアルよりも速い。たちまち追いつかれて食われてしまうだけだ。

 途中で拾った枝の多い流木を、迅速にブーツに縛りつけて即席のカンジキにする。氷が薄い場所では体重の分散が必須となる。


 この作戦は功を奏したようだ。キビアルよりも遥かに体重が重いヒグマが、呆気なく薄氷を踏み抜いて水中に落下した。しかし、すぐに氷上へよじ登ろうとしてくる。

 キビアルも用心のために四つん這いになって逃げていたのだったが、好機とみて石斧を背負い袋の中から取り出そうとして……その手を止めた。視線はアムール川の上流に向いている。

「おいおい……今来るか」


 毒づいてから、四つん這いのままで全力ダッシュをかけるキビアルであった。氷面からビリビリと振動が伝わってきた。風にのって轟音も聞こえてくる。川の解氷だ。

 今やヒグマを相手にしている場合ではない。そのヒグマはようやく氷上に上半身を乗り上げた段階だった。石斧で攻撃すれば、今なら簡単に頭をかち割る事ができるのだが……

「残念っ。今は逃げるのみ」


 対岸が近づいてきたが、岸は高さ2メートル以上の崖になっている。その崖が崩れて階段状になっている場所を急いで探す。

 早くも川氷の上に泥水が流れて来始めた。上流から流れてきた大量の水が凍った川の上を流れているのだ。今はまだ深さ1センチもないくらいだが、すぐに深くなる。流速もかなりあるため、もたもたしていると足をとられて流されてしまう事になる。

 焦りまくるキビアルだったが、何とか崖の登り口を見つけた。

「あった!」


 氷混じりの泥水の水深は、くるぶしの上まで達していた。猶予はもうない。足元の氷に伝わる振動も激しくなってきていて、川氷の薄い場所が轟音を立てて砕け始めた。川氷それ自体もズルズルと海へ向けて動き始めている。

 キビアルの視界の隅で、ヒグマが再び氷の中へ落ちたのが見えた。同時に咆哮もキビアルの耳を打つ。

(げ。至近距離まで接近してたのか、このヒグマ。どんだけ腹減ってるんだよ、もう)


 もはやヒグマの安否を確かめる時間や気持ちの余裕はなかった。恐らくは、ヒグマとキビアルとの距離は数メートルまで接近していたのかも知れないが、もうそれを確認する暇はない。

 カンジキをつけたままのブーツで、やっと岸に上陸した。当然ながら歩きにくいのでブーツごと脱いで、裸足で階段状の崖を駆けあがっていく。


 上流からの轟音がさらに大きくなり、水が渦巻く音、氷が砕けて流れていく音も加わっていく。

 キビアルが崖の上に一気に駆け上がり、急いでカンジキをブーツから剥がして履き直す。陸上はまだ雪で覆われているままなので、素足のままだとシモヤケになる。

 同時に背負い袋の中から黒曜石の石斧を引き抜いた。それを振りかぶって、川からの登り道に引き返す。

(やっぱりね)


 ヒグマが登ってきていたので、容赦なく石斧をヒグマの額に振り下ろした。

<カツーン!>

 乾いた音が響いて、額を黒曜石の斧にかち割られたヒグマが崖を落ちていった。そのヒグマは呆気なく氷混じりの泥水の渦に巻き込まれて、下流へ流されていく。


 ここでようやく一息ついた。

「ふう……」


 アムール川は今や泥色の濁流と化していた。つい先ほどまでは完全に凍結していたのだが……

 氷の破片が2メートルの高さのある崖の上まで噴き上がってくる。水しぶきはもっと高く噴き上がっているので、慌てて川岸から距離をとる。

(冬が終わったなあ。溢れ水の泊へ戻る事ができるのは、当面できそうにもないな。ピリャリュさんの予測に感謝だよ)


 水位も1メートルほど上昇していた。そのため、川岸から離れていても川面が見える。解氷に巻き込まれたマンモスや馬、トナカイが茶色の濁流の中に時折見え隠れして流れていく。

(むむむ……拾いに行くには絶好の機会なんだけどな。今は急いで北へ向かわないと)

 川はアムール川だけではない。大河こそ無いがこの北にも多数の川がある。


現在位置です。


挿絵(By みてみん)


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