南の果て
薄片の事がばれてしまったので、素直に事情を話すキビアルである。
「……とまあ、こんな事情でして。毒があるかも知れない石ですので、人の手が届かない場所に捨てに行く事になったんですよ。ここへ寄ったのは、その長旅に必要な石刃を用意するためです」
「なるほどなあ……そりゃあ、厄介だな」
ピリャリュたちも同意してくれた様子だ。ピリャリュがキビアルから黒い薄片を受け取って、マジマジと観察する。太陽にかざしてみたりもしてから、彼の仲間に手渡した。
「確かに、これは魔法の武器みたいだな。持ち主を不幸にするのは簡単に想像できる」
魔法といっても、この時代にはファンタジー小説や英雄譚、神様が活躍する神話はない。ピリャリュが言う魔法というのは、訳の分からない現象全般を指す。病気や地震雷火事のような災害も魔法に含まれる。
キビアルが苦笑して若ハゲ頭をペチペチ叩く。
「今回のように、時々役に立ったりしますけどね。あ。この薄片って冷えやすいんですよ。素手で不用意に触れると……」
「うわわっ。指がくっついたぞ」
早速、ピリャリュの仲間の一人が悲鳴を上げた。彼の指が黒い薄片にくっついてしまっている。
キビアルが頭をかきながら謝った。
「言い忘れていましたね、すいません。その薄片って氷のように冷たくなるんですよ。氷に指が貼りついた時の対処法で指を離す事ができますよ」
結局、囲炉裏で薄片を炙って事なきを得たのであった。小便でも良かったのだが、それだと手が濡れて再度凍りつく恐れがある。今は日中なのだが、小便が凍る気温である。夜間だと、空中で小便が凍る場合すらある。
ほっとしているピリャリュたちから黒い薄片を受け取ったキビアルが、それを再び袋の底へしまい込んだ。そして少し思案してから聞いてみる。
「あの、ピリャリュさん。南の民が多く住んでいる南の大地には、コレを捨てるに適した場所ってありますか?」
ピリャリュが仲間たちと相談してからキビアルに首を振った。否定だ。
「ないな。俺たちは知ってのように、泳いだり潜る事が得意だ。海に投げ捨てても拾いにいく馬鹿者が絶対に出てくるさ」
今のオホーツク海は氷水だが、夏になれば短時間であれば泳ぐ事ができる。
素直にうなずくキビアルである。
「そうですよね。度胸試しで拾いに行く若い人って、絶対いますよね。やはり当初の方針通りに、北へ捨てに行くべきですね」
石刃づくりは目途が立ったのだが、ピリャリュの仲間の二人が暇になったらしい。オホーツク海を探検しに行くと言って、キャンプ地を出て川を下っていった。
キビアルも他のヒグマの有無を調べたかったので、湧別川の河口までピリャリュと一緒に出て彼らの出港を見送った。
まだまだ厳冬期で分厚い流氷が海を覆っているのだが、その開水路に沿って器用に皮張りカヌーを漕いでいく。彼らは一路東へ航路をとるそうだ。
オホーツク海から吹きつける寒風に震えながらも見送ったキビアルが、もう一隻の皮張りカヌーのチェックをしているピリャリュに聞いてみた。
「彼らが戻ってくるまでの間、その皮張りカヌーの作り方と補修方法を俺に教えてくれませんか? 北の大地にも海があるかも知れませんので」
ピリャリュがチェックを終えて立ち上がった。彼も寒風に震えて寒そうにしている。キビアルよりも軽装なので当然だ。
「構わないぞ。どうせコイツは試作船だしな。完成品にするには、いろんな人と場所で試してもらうのが必要だ」
かくしてキャンプ地を海岸近くに移動して、石刃づくりと皮張りカヌーづくりをする事になったのであった。この湧別川の下流域は河岸段丘になっているので、風よけになる場所が結構ある。それに標高も下がるので、それなりに気温も高い。
キャンプを設営するついでに、南の民の調理装置も設けたピリャリュたちである。興味津々の表情で見ているキビアルに、自慢気になって説明してくれた。
「焼いた石を使った蒸し焼き装置だ。ヒグマの肉が大量にあるしな。冷凍のままじゃ味が単調になるだろ。燻製にすると長持ちして風味もつく」
キビアルも作業を手伝いながら期待に目を輝かせる。
「良い考えですねっ。ヒグマ肉ってあんまり香りが強くないですからねえ、食べ飽きがちなんですよ。燻製して香りをつけるのは賛成です」
この蒸し焼き装置は単純な仕組みである。土中に2つ穴を掘り、奥でつなげたトンネルを作る。ここには永久凍土層がない河岸段丘なので可能な方法だ。一方で火を焚き、もう一方の穴の中に肉や魚を吊るす。
焚き口には大きめの石を組んでおく事で、長時間の加熱が可能になる。
ピリャリュが少しドヤ顔になって補足説明した。太い首と腕がさらに太くなったように見える。
「ハイマツがたくさん生えているから薪には苦労しないんだけどな。まあ、薪の節約ってこった。それに、熱い煙でいぶすよりも、ぬるい煙でじっくりいぶした方が美味い燻製になるんだよ」
特に魚を燻製にする場合は、低い温度の煙の方が良質な燻製に仕上がる。
それに飲料水を保管する際にも便利だ。野外に出しておくと凍結してしまうが、こうしておけば凍らない。
ピリャリュによると、薪を大量に使って盛大に燃やした場合では、ヒグマの肉は半日もかからずに燻製になるらしい。しかし、今回は探検に出た二人の帰りを待つため、低温の煙でじっくりと時間をかけるつもりだと話してくれた。
「帰りの航海中は、海藻とか海獣ばかりを食う事になるんでな。獣の肉はごちそうになるんだよ。どうせなら、少しでも美味いように工夫した方が良いだろ」
キビアルが昆布の味を思い出して、深く同意した。
「なるほどー……昆布ってあんまり味がしないですもんね。ヒグマの燻製が少しでも美味しくなるように俺も祈っておきますよ」
昆布は干してからカビによって発酵させれば風味が出てくるのだが、採れたては今一つな味である。
この厳冬期でも雷雲が発生する。落雷も起きるものだ。そして、落雷によって森林火災が起きたりもする。ただ雪が積もっていて大地が湿っているために、燃え広がる事にはならない。
枯草や潅木、それにカラマツの樹皮を少し焼くだけだ。樹脂が多いカラマツだが丸焼けになる事はまずない。
そのような話をキビアルが石刃をつくりながらピリャリュに話すと、少し興味を持った表情になった。
彼も石刃をつくっていたのだが、その手を休めてキャンプの外に視線を向けた。河岸段丘にあるので視界はそれほど良くないのだが、それでも雪に覆われた山々と分厚い針葉樹林の森が見えている。
「森林火災なあ……俺たちの泊では大騒ぎになる事が多いな。燃え広がると手が付けられなくなるんだよ。海に漕ぎ出して逃げた事もあったな。山の中へ逃げるとヤバイ」
キビアルも手を休めて一緒に外を見つめた。
「この島の森も厄介ですよ。デコボコしていて、とても歩きにくいんです。森の中は意外と明るくて見通しが利きますけどね」
北海道のような場所にある森の中は、土饅頭型の盛り土の塊だらけだ。カラマツやシラカバの根は、地表をのたうって土饅頭を包んでいる。この上に潅木や草コケが生える。
落雷があった森の一角からは細い煙がしばらく立ち昇っていたが……やがて細くなって消えた。鎮火したようだ。オホーツク海から吹く冷たい強風は相変わらずなのだが、燃え広がっていない。
ヒグマ肉の燻製が出来上がり、石刃も充分な数をつくり、そしてキビアルが皮張りカヌーの作り方を習得した頃、オホーツク海の東方探検に出かけていた二人が戻ってきた。ケガもなく元気なのでほっとしているピリャリュである。
「無事で戻って何よりだ。東の海はどうだったかい?」
日焼けした二人が互いに顔を見交わして、残念そうに否定的に首を振った。
「噂の通りでしたよ。ピリャリュさん。キビアルが言う所の「世界の果て」ってヤツですかね」
ピクリと反応するキビアルである。ヒグマの燻製肉を渡した。
「そ、そうなんですか。詳しく話してもらえますか?」
ヒグマ肉の燻製をパクパク食べ始めた彼らの話によると、東は全て高い絶壁ばかりだったようだ。
「上陸できないような崖ばかりで苦労したよ。狭い浜くらいしかなかった。高潮になったら水没しそうな浜ばかりだな。この燻製肉、美味いねっ。ほのかな甘みも感じるよ」
そんな絶壁の海岸は最終的に半島になって、外洋につながっていたそうだ。
「半島の先端に近づくにつれて、どんどん波が荒くなってきてね。船がひっくり返りそうになったので、引き返してきたんだよ。半島の向こう側の外洋は、相当に荒れた海になってるぜ」
南の民はキビアルと比べても首や腕が太くて、胸板も分厚い。そんなパワーで漕いでも転覆の危険を感じる海という事なので、相当な荒波なのだろう。
話を聞き終えたキビアルが軽く腕組みをしながら呻いた。
「むむむ……であれば、その半島から外洋に投げ捨てれば良いのかな?」
即座に否定する二人だ。
「あー、無理だな。半島の崖って半端なく高いんだよ。浜からは登れないな。しかも、なぜかヒグマが多く居る。食われてしまうのがオチだぜ、キビアル」
ピリャリュも同意している。
「そうだな。行くのは危険だな。それにもし捨てても、南の民に知れ渡る。いずれ、どこかの勇者が薄片を拾いにやって来るさ。度胸試しになるからな。荒波に飲まれたりヒグマに襲われて死ぬ勇者も出るだろう。そんな話を聞くのは忍びないのが正直な所だな」
少し残念そうな表情だが、納得した様子のキビアルであった。
「俺の泊の族長も似たような事を心配していました。そうですね、やはり北の大地へ捨てに行くかな」
ピリャリュたちも「その方が良いな」とうなずいている。と、そのピリャリュが何か思い出したようだ。
「そう言えば……俺たち南の民って、これまで何人もが北の海へ漕ぎ出して行ったんだがね。誰も生きて戻っていないな。相当に荒れた海なんだろうさ」
キビアルが指摘する。
「っていうか、ピリャリュさん南の民の服が、寒さに対応できていないんだと思いますよ」
さて、キビアルはピリャリュたちに船で送られて樺太半島へ戻ったのであったが……行きと違って海峡にある流氷が目に見えて少なくなっていた。
おかげで順調な航海になったのだが、ピリャリュが南の空を睨んで呻いている。クシャクシャな黒髪が海風になびいて弾んだように動く。
キビアルは樺太半島に上陸して、荷物を船から下ろしてソリに乗せている途中だったが聞いてみた。
「? どうかしたんですか、ピリャリュさん」
ピリャリュが視線をキビアルに戻した。やはり大真面目な表情のままだ。石刃づくりの間はずっと陸地に居たので顔が若干白くなっていたのだが、今はもうすっかり日焼け顔で黒く戻っている。
「いつもよりも暖かくなるのが早いようだ。雪解けが早まるぞ。川の洪水に気をつける事だ」
しかしキビアルにはピンとこない様子だ。地面に積もっている雪を踏みしめて、小首をかしげている。
「そうですか? 雪の積もり具合は、いつも通りに見えますよ。風の冷たさも普通ですし」
つい先日までは厳冬で震えていたので、キビアルが不思議に思っているのも当然だろう。
それでも北の大地へ行くので、今年の気温が高めだという情報は嬉しい。
「色々と学ぶ事ができました。ありがとうございました、ピリャリュさんたち。楽しかったですよ。暖かくなったら、溢れ水の泊へ遊びに来てくださいな。族長に言っておきますので歓迎してくれるハズです」
ようやくニッコリと笑顔を浮かべるピリャリュである。白い歯がよく目立つ。
「そうだな。この試験航海が終わったら遊びに行くよ」




