世界の果て
雪山と氷の壁を東に見ながらの航海を続けていくと、次第に壁が低くなって陸地側へ後退し始めた。再び島や岬が現れて、海鳥や海獣の大群が騒々しく暮らしている風景が広がってくる。
ほっとしながらも、太陽の高さに驚くキビアルだ。既に太陽は湯池の泊よりもはるかに高くなっている。それでも空気は冷えていて巨大な氷の壁と雪山が続いている。
(こんなに南に来ても、まだ氷の壁が続いているのか。しかし、陸地がチラホラ見えてきたぞ。そろそろ未知の大地かな)
シロクマに警戒していたのだが、不思議とこの海域には居なかった。そのせいで、こんな大群になっているのだろうか。
さらに数日ほど南へ航海を続けると、氷山や流氷が急激に少なくなってきた。同時に海がうねり始めて波が高くなっていく。嵐にも警戒して、実際に何度か岬に避難していたりする。
今も嵐をやり過ごすために、岬に上陸して休憩している。ついでに飲料水を補給して、冷えた腰をさすっている。
(熊が居ないと気楽でいいな)
さらに南下を続けていくと、氷の壁の間に岩山が散見するような風景に変わってきた。岩山にはウミガラスやウミバトなどが棲みついていて、上空を乱舞している。かなりうるさい。
キビアルも耳を塞ぎながら、期待に目を輝かせている。
そして――
ついに氷の壁が途切れた。沿岸風景が岩山に変わり、その斜面には草木が生えている。針葉樹の松とモミの木だ。雪山も内陸へ遠ざかっていく。
さらに南下していくと、岩山が草木に覆われて森に飲み込まれてきた。氷山と流氷もほとんど見られなくなり、海水温も徐々に上がり始めたのを感じる。腰から下の冷えが気にならなくなってきた。
森の中にシカや野牛の群れを見かけて、キビアルが海上で満足そうに微笑む。
「到着だな」
キビアルが上陸したのは、今の米国オレゴン州のポートランド近郊だった。コロンビア川の河口にある砂浜にカヌーを引き上げる。海岸には大量の貝がいて、川には無数の魚が泳いでいた。
(こりゃ凄いな。故郷の川よりも豊かじゃないか)
空気は雪山が近いので冷たいままだが、それでも南風は暖かい。
とりあえず、最寄りの一番高い岩山に登ってみる。
西はやはり水平線だけで、北は雪山が東へ延びているのが見える。南へは延びていないようだ。
南東には岩山と森に覆われた山脈が続いていて、かなり奥行きがありそうだ。そして南には豊かな大草原と森が広がっていた。野牛や馬の大群が草を食んでいる。野牛の数は万単位になりそうな勢いだ。
何よりもキビアルの目を引いたのはマンモスの大きさだった。彼が知っているマンモスよりも一回りほど体が大きい。しかも毛深くない。
「はええ……でっかいなあ。それだけ豊かな大地って事か」
シベリアのマンモスとは別の種類でコロンビアマンモスと呼ばれている。体高が4メートルに達し、体重も10トンになる巨体だ。
岩山の頂上で腕組みして呻くキビアルである。
「むむむ……夏だけの草原や黄昏の大地よりも豊かな大地じゃないか。移住したら生活が楽になるよね、これって」
そして、しばらく考えていたが……軽く若ハゲ頭をペチペチ叩いて苦笑した。
(移住は無理だな。陸路がない。海路も危険すぎる)
そして結論に至った。
「よし。ここを「世界の果て」とする!」
念のために数日間ほど周囲を歩いて、人が住んでいるかどうかを調べてみた。予想通り、人の痕跡は全く発見できなかった。足跡は当然なく、海岸には人工物も漂着していない。
道すがら液果が実っていたので、それを摘まんで食べながらうなずく。見慣れない種類だが甘くて美味しい。
(ここへ来るまでの海路でも、人の痕跡はなかったしね。これで確定だな)
背負い袋の底から薄片を取り出すと、またもや赤い粉にまみれていた。ジト目になりながら、それを岩山の頂上へ持って上がって埋める。
(ここなら、この土地の獣も薄片に触れる機会がないよね。これでゴミ捨て完了っと)
岩山から河口へ戻る際に森の中へ入ってみたのだが、興味深そうに様々な草木に触れている。
(へえ……見た事がない草木ばかりだなあ)
森の樹種は針葉樹はよく似ているのだが、広葉樹は別種だった。草の種類も別種ばかりである。これだけ離れていると、シベリアとは異なって当然だろう。
河口に戻って、トド皮張りカヌーを点検してみた。かなり擦り切れている。これは補修ではなくて、張り替えにした方が良いだろう。幸い、予備のトド皮は用意している。
(今から戻ると途中で冬になって、湯池の泊その二まで到着できない恐れが高いかな。水路も流氷で塞がってしまうだろうし。ここで越冬するか)
しかし、実際には既に南の民が上陸して泊を築いていた。その場所は今のメキシコ辺りになるので、かなり離れているが。その南の民は故郷には海流の流れの関係で戻れなかったため、キビアルが会ったピリャリュたち南の民も知らない。
その頃。
キビアルの故郷では、重石に使っていた黒石から新たな薄片が数枚発生していた。赤サビの浸食が隕鉄内部にまで及んだのだろう。
その数枚の薄片を手にしたカグサ族長と、居候になっているキルデが困った表情を浮かべている。
ややあって、カグサ族長がため息混じりにつぶやいた。
「今になって薄片が生まれるとは。黒石は重石にせずに捨てた方が良さそうだな。薄片の処理はキビアルが戻って来たら考えるとしよう」
キルデも同意している。
「そうですね。彼が戻ったら任せましょう。結婚がさらに遠のきそうで、気の毒ですが……」
同時刻。
湯池の泊で、子供たちに石数えと語り部の訓練をしていたアララナが、どこからかの視線を感じて振り返った。当然ながら誰もいないので、不思議そうに小首をかしげている。
(変な悪寒を一瞬感じたんだけど……気のせいか)
子供たちに急かされて、訓練を再開した。既にキビアルよりも石数えの技が上の子供ばかりだ。石を基にしたシフト構築や、将来の計画策定まで普通に練習している。語り部の方は、既に百科事典数十冊分の情報を歌にして覚えている状況だ。これもキビアルには到底無理である。
そんなキビアルの困惑した顔を想像したアララナが、口元と目元を緩めた。
(キビアルさんが戻るまでには、あたしも暇になりそうね)
そんな思惑が交錯する中、北米で越冬を終えたキビアルがコロンビア川にトド皮張りカヌーを進水させた。カヌーの中には野牛の干し肉が満載だ。残念ながらマンモスは仕留められなかった様子である。
北風がまだ吹いているが、北の海に広がっている流氷が動いて開水路がいくつも生じている。春と共に北上していく船旅だ。
コロンビア川の近くにある丘の上には、冬の住処にしていた苫が建っている。思った以上にここの冬は暖かく、苫だけで充分だった。室の建設も一応終えていたのだが、結局倉庫として使っただけだった。
この土地でも多くの石を得ており、それらをいくつかの小袋に入れている。その最終確認を終えて、記憶と石との紐づけを強めておく。
(キルデさんとアララナさんへの土産も充分だな。アララナさんへの告白にも役立ってくれよ)
意気揚々とカヌーに乗ったキビアルが、竿を突っ張って離岸する。川の流れに乗って海に向かいながら、一度だけ振り返った。
(良い土地だったな。いずれ、俺たちの子孫がここへたどり着けますように)
そして、北の海を見据えた。流氷が互いにぶつかって音を立てている。沖合に生じた開水路に進路を決めた。
「さて、帰ろう」
了
キビアルが得た石は無事にキルデとアララナに共有されたのだが、彼らの世代では黄昏の大地やその先への移住は実現しなかった。
キルデの言を借りると「30人ぽっちしか越冬できない土地なんか、無意味ですよ。あはは」という事らしい。
一方のアララナは喜んだ。
「これで黄昏の大地へ行く馬鹿者を、湯池の泊に踏みとどまらせる事ができます。キビアルさんのおかげで、多くの無駄な死を未然に防げますよ」
当のキビアルは、その後もう一回ゴミ捨てに行く羽目になった。そして捨てて戻ってきてから、アララナと結婚した……と、語り部によって伝えられている。
北東アジアと黄昏の大地への本格的な民族移動が始まったのは、この後1000年が経過してからであった。
同時に、高原の民や黒森の民とは別の民族として変わっていく。北東アジアではトナカイを狩る「トナカイの民」に、黄昏の大地では「黄昏の民」に変わっていった。
さらに6000年後。黄昏の民は氷床が小さくなったアメリカ南北大陸に広がって、南北2つの先住民族となった。キビアルがたどった航路を使ったと伝えられている。
黒森の民とトナカイの民は中国大陸の諸民族に、南の民は縄文民族へなっていくのだが……それはまた別の語り部の話。
地図情報の最終更新です。
エンディングのイメージとしては、MYRKURという北欧のバンドが演奏している Leaves of Yggdrasilのような感じですね。
ttps://www.youtube.com/watch?v=1KhalomXRU0 (冒頭のhを抜いています)
作者がイメージしているキビアルとアララナの声は以下のような感じです。歌詞はネパール語で、内容は「再び会えるのを待ちわびてますよ」という要約です。
ttps://www.youtube.com/watch?v=J66zqnkf3io (冒頭のhを抜いています)
せっかくなので、キビアルとアララナの絵を。これは、キビアルがアララナを連れて湯池の泊その2へ旅行した際のものですね。本編の後になります。背景は氷河が結合してできた氷の壁が海にせり出している様です。
ここまで辛抱強く読んで下さり、ありがとうございました。




