氷の山脈
熊肉の味はまずまずだったようだ。可もなく不可もなし……という感想のようで、特にコメントもないキビアルであった。ヒグマよりも体が大きいので、味が大味なのかも知れない。
ひたすら海岸沿いに大草原を南東方向へ進んでいたのだが、次第に植生が変わってきた。見慣れない草木が多いのだが、探すと湯池の泊で見かける種類の高山植物がある。海も再び穏やかになっている。
太陽の高さを確認するが、まだ湯池の泊よりは北だ。
(でも、半島の付け根にあった泊の廃墟で見た太陽よりは高い。このまま南へ行ければ、湯池の泊と同じくらいの寒さの場所に出るかも)
ただ、湯池の泊は地熱がある土地の上に建てられていた。果たして、この南にそんな都合の良い場所があるのかどうか……
川の数も増えてきて、比較的川幅が広いものも出てきた。ほとんどの川は歩いて渡る事ができたのだが、中には水深が背丈以上になっている場合もある。
(でも、わざわざ船をつくるのは面倒だよねえ)
川幅はいずれも十数メートル程度で流れもそれほど強くない。そのため、背負い袋を浮袋に仕立てて渡河していくキビアルであった。
(暖かくて助かるよ)
それでも川の流れに任せているので、10メートル以上は川下へ流されての渡河になるのだが……故郷のアムール川を基準にしているのか、その程度の川流れは許容範囲の様子だ。
数日後。海岸が南向きから一転して西向きに変わった。同時に、南の地平線に氷の壁が見えてくる。上空は再び砂塵が多く舞うようになり、青空が白っぽい黄色に変わっていく。
同時に雲も増えてきていて、雨が降る日も増えてきた。川の数もさらに増えてきている。アザラシ皮のブーツで良かったと、つくづく実感しているキビアルだったりする。
(南に氷の壁って……普通は北にあるものでしょ)
つくづく変な気候の大地だなと呆れながらも、穏やかな海岸沿いに進む。今は西に向かっているのだが、南にある氷の壁に徐々に近づいていくのが分かった。
地平線に浮かぶ氷の壁は、進むにつれてハッキリと見えるようになっていく。砂塵と水蒸気のせいで霞んでいるのだが、その巨大さに驚くキビアルだ。今や、氷の壁は南東から南西まで切れ目なく続いている。
空気も冷えてきて、砂塵を含んだ冷たい南風が大草原を波紋のように横切っていく。雨は雪の混じる割合がどんどん増えてきて、今では半々くらいか。アラレのような氷粒まで混じり始めている。
しかし、太陽の高さは着実に高くなってきているので、植生の変化も大きくなってきていた。草原と潅木メインの風景から、次第にモミの木やシラカバのような木が目立つものに変わっていく。松が少なく、比較的湿気に強い種類が多いようだ。
(湯池の泊に似てきた。やはり暖かいんだな、ここは。何とかして氷の壁の向こう側に行きたいな)
と、ここでキビアルの足が止まった。
(暖かいって事は、南の氷の壁って融けるんじゃ……洪水か)
今は海岸沿いに歩いているのだが、もしここで洪水に襲われれてしまうと危険だ。海を見ると波は穏やかなのだが、どう考えても凍死か溺死の二択しかない。
(仕方がないな。ここは海岸じゃなくて少しだけ内陸部へ入ろう。できれば森の中を歩いた方が良いだろうな)
すぐに進路変更して、大草原を突っ切り目の前に広がってきた針葉樹の森に入っていく。久しぶりの針葉樹林の森で、ほっとしている。黒森の民の習性だろう。
森の中なので視界はあまり良好ではないのだが、特に気になってはいない様子である。
(洪水は氷の壁が原因になるハズ。となると南端へ出て、氷の壁の下へ出た方が安全かな。あれだけ高い壁だから、壁の下は斜面になっているだろうし)
去年の沿海州沿岸を北上した経験を基にしているのだろう。あの時は、高原の雪が融けて洪水が斜面を駆け抜けていた。今回も似たような事態になるはずだと予測している。
それともう一つ気にかかる点があった。この森には熊がいない。居るのはトナカイや馬、野牛にマンモスの大群で、彼らは季節移動する。熊はその土地に棲みつく傾向が強い。
(熊が生存できない事が毎年起きている。熊って寒さに強いから、残るは洪水しかないよね)
よく森の中を見ると、イタチやネズミは結構いる。彼らは森の木に登って難を逃れているのだろう。黒灰色の大熊では木登りするには少々細い木々ばかりだ。巨木があまり見当たらないのも洪水に押し流されたか、根腐れを起こしたのだろう。
果たして、針葉樹林を南へ進み続けると数日後には森の外に出た。目の前には砂塵が巻き上がる草原が広がっていて、その奥には巨大な湖が東西に広がっている。湖の縁は土砂に覆われていて、ダムのようにも見える。
湖の奥には氷河の端があり、今もガラガラと音を立てて巨大な氷塊が湖に落ちている。その氷河はそのまま雪山につながっている。雪で覆われた山脈の高さは優に1000メートル以上もありそうだ。
氷の壁に見えていたのは、この万年雪で覆われた雪山が東西に連なった山脈だったと分かる。
東西に広がっている巨大な氷河湖を丘の上から見下ろして、ジト目になっているキビアルである。
(おいおい……もの凄い量の水が溜まっているんですけど。こんなのが決壊したら大洪水になるよね、間違いなく)
しかも、気温は順調に上がっている。もう夏至は過ぎているのだが。
自然の堤防を見下ろして、視線を東に向ける。氷の壁は地平線の向こうまで延々と続いていて、氷河湖も付随して延々と続いている。しかも、雪山は東にいくほど高くなっているようだ。
(東に行くと、間違いなく洪水に飲み込まれて溺死するよね、これって)
ため息をついてから、今度は西に顔を向けた。こちらも同じような景色なのだが、違う点が一つあった。海鳥の巣があるのだろう、上空に多くの鳥が乱舞している。
(つまり、西に行けば海に出るんだね)
この巨大な氷河湖からは、多くの川が流れ出していた。川はそのまま針葉樹林の森の中へ伸びている。氷河湖には多くの土砂が流れ込んでいるせいか、青白く濁っていて水底が見えない。一方で森の中に入ると、ろ過されるのだろう。澄んだ清水に変わっている。
川にはイワナなどがたくさん泳いでいて、場所によっては川面が黒くなっているほどだ。川岸には多種多様な花が咲いていて、蝶の大群が花から花へと飛び回っていた。野鳥の種類と数も、故郷の溢れ水の泊より多い。
そんな豊穣の景色を丘の上から眺めて、苦笑しているキビアルであった。
(まったく……人が住めない土地って、どうしてこうも美しいのかな)
丘からは針葉樹林と草原の両方がよく見えているのだが、草原にはマンモスや馬、野牛の大群がいた。氷河湖と森との間に帯状に広がっている草原だ。なだらかな丘が連なっている。
しかし自然堤防から巻き上がっている砂塵を浴びているので、草の表面はジャリジャリしているが。
(歯が磨り減りそうだな、ここって)
野牛や馬たちに同情する。
自然堤防の決壊はいつ起きても不思議ではないと分かったので、その後は西に向かって丘伝いに進んでいく。森の木々は細いものが多いので、木登りには適していないためだ。野宿も丘の上なので、結構冷える。
(こんなに氷があるから、夜になると冷えるよね)
キビアルの危惧は残念ながら的中した。
東西へ伸びている氷河湖に沿って、砂塵が巻き上がる荒地の丘を西に向かって歩いていると、自然堤防がズルズルと動いているのを見かけた。背筋が凍りつく。
(げ。決壊寸前じゃないか)
瞬時に自然堤防の状態を見極めてから、迷わずに全速力で通り抜けていく。足元が既にグズグズになっていて、バシャバシャと泥水が飛んで足を濡らしていく。地盤も緩くなってきていて、地面を踏むとグニャリという感触がする。
自然堤防を見上げると、早くも決壊が始まっていた。泥水が堤防の斜面から幾筋も噴き出していて、それが急速に太くなってきている。噴き出す勢いも急速に上がっていて、ホースの放水のような泥水がキビアルにもかかってきた。
(わ。わ、わわわっ)
既に全速力で自然堤防の斜面を駆けているのだが、地面の崩壊が走る速度と同じになってきた。それがあっという間に走る速度を超越していく。
キビアルの目の前の斜面からも泥水の放水が始まった。同時に斜面がズルズルとずり落ちていく。石や岩が転がり落ちてきた。それらを危ういながらも回避していく。
(思ってた以上に大規模な決壊になるぞ、これ)
そう直感して背筋を悪寒が走り抜けた次の瞬間。地面が吹き飛んだ。
悲鳴を出す余裕もなく、自然堤防が幅数百メートルに渡って一気に崩壊した。頭上から氷河湖の氷水が濁流となって、津波のように襲い掛かってくる。同時に足元からも泥水が幾筋も噴き出してくる。
一秒後には津波に飲み込まれて、斜面を押し流されていくキビアルであった。
それでも紙一重で幸運をつかんだのだろう、ゴウゴウと渦巻く泥だらけの濁流の中から、ずぶ濡れのキビアルが這い上がってきた。走っていた場所から一気に50メートルほど下流へ流されていたが、何とか岸に上がる。
(ひええ……背負い袋が浮袋になってくれたのか。助かった)
全身が泥まみれになって、氷水のせいでガタガタ震えているのだが無理やり走って逃げる。足がもつれて何度も派手に転んでいるのだが、そのたびに必死の形相で起き上がって一目散に西へ走っていく。
「!!!」
普通なら、ここで勇ましく「うおおおおっ」とか吼えたりするのだろうが……キビアルなのでこんなものである。
体力が尽きて足が止まり、斜面につまずいて転んで動けなくなった。数分間ほどそのまま倒れたままだったが、ヨロヨロと起き上がる。気分もようやく正気に戻った様子で、ここで初めて周囲をキョロキョロと見回した。
(あ……ここは崩れていないのか)
相変わらず氷河湖の自然堤防の斜面なのだが、ここでは崩壊していない。泥水の染み出しも起きていないので、ほっと安堵する。
背後を振り返ると、幅数百メートルに渡って自然堤防が決壊していた。滝のような濁流になってゴウゴウと空気を震わせながら下の森林へ流れている。
森の草木も濁流に根元から引き抜かれて、泥水の濁流に押し流されている。
キビアルが顔を泥水で洗って、背負い袋をひっくり返して水を抜く。ついでに干し肉をかじりながら水を飲んで一服する。干し肉は皮袋に入れて、しっかりと口を縛って閉じているため濡れていなかった。
モグモグしているうちに、落ち着いた表情になっていく。
(はえええ……こんな凄い洪水が起きるんじゃ、大木なんか生えていないよね。熊も巣穴ごと流されているんだろうなあ)
濁流には馬や野牛、マンモスも流されているのだが、連中は心得たもので犬かき泳ぎで流れの弱い場所へ向かって泳いでいる。濁流の水深は5メートル以上はあるようだ。氷水なので、キビアルが泳いでも凍死するだけだろう。
流されていないモミの木やシラカバの枝には、ホッキョクジリスやハタネズミの群れがよじ登って避難しているのが見える。こちらはキーキー騒いでいる。
(この洪水はすぐに引かないよね。このまま丘に沿って西へ進むか)
無事に危機を乗り越えた事を喜びながら、生乾きになったアザラシ皮ブーツを履いて、背負い袋に荷物を戻していく。
キビアルが居る場所は、氷河湖をせき止めている自然堤防が連なっている丘の上だ。氷河湖は変形を繰り返しているので、自然堤防も二重、三重になっている場所がある。
その丘にもマンモスたちが避難してくるので、彼らを刺激しないように注意を払いながら進んでいく。
その休憩時間に、手ごろな岩に腰かけて干し肉と水を補給するのだが、やはり洪水はなかなか引いていかない。数日経過したのだが、森は洪水の中にあるままだ。水平線まで水没していて、その水面から無数の木々が枝葉を伸ばしている。不思議な風景だ。空は白っぽい青空で、その色がそのまま水面に映えている。
(これまで様々な水没風景を見たけど、こういうのは初めてだな)
とまあ、のん気に思っているのだが……自然堤防が弱くなっている場所は、意外に多くあった。その場所を駆け抜けるたびに、冷や汗をかく羽目になっている。
(洪水の規模がこれだけ広大だったから、海岸や森の中へ留まらずに丘に移動したのは正解だったけどさ。湖が巨大すぎるぞ)
しかし実際には、氷河湖は連結していなかった。そのため、2日ほど経過すると水が引き始めていく。雪山の高さが1000メートルほどしかないので、氷の総量も大して多くない。まあ、それでもこれだけの洪水になってはいるのだが。
もし、キビアルが東へ行っていれば、雪山が高くなっていくため氷の体積が急激に増大していく。そして最深部では厚さ3000メートルにも達する氷床に到達する。
キビアルが渡河したユーコン川は、実はこの氷床由来の氷河湖が水源となっている。当時、この氷床は北米大陸の北半分を覆っていた。今の米国にある五大湖の辺りまで氷床で覆われていた時代である。
キビアルには知る由もないが。
森を沈めていた洪水が引くと、マンモス群が丘から下りて戻っていく。まあ、この自然堤防にはそれほど草木が生えていないので当然だろう。今も、カラカラ……と小規模に崩壊しているのを振り返って眺めながら、マンモスたちに同情する。
(草もここのは砂かぶりだしね。歯に悪い。さて、俺も進もう)
キビアルは念のためにずっと丘に沿って西へ歩いていく。
夜は大きな岩の上で休みながら数日ほど歩くと、ようやく雪山の山脈が低くなってきた。同時に氷河湖の大きさも小さくなっていく。
(おお。ようやく安全になってきたか。服が砂まみれになって困ってたけど、これで洗濯回数も減らせるかな)
洗濯といっても、沢水で水洗いするだけだが。石鹸や洗剤はまだ発明されていない。
そして……
ついに氷の壁と雪山が途切れた。西端は富士山型の火山が三つほど連なっている丘になっていた。
同時に海岸も迫ってきていて、森がなくなる。潮風に当てられて枯れてしまうためだろう。草原も海岸沿いに生える種類の草木に変わってくる。
ついでにカモメやウミガラスなどの海鳥の大群が騒がしく上空を舞っている風景になってきた。何となく安堵感に包まれる。
(やっぱり海が近いと安心するなあ)
海岸沿いは湿気があるので、内陸にある丘の上に行ってみる。潅木交じりの草原があり、かなり広い。マンモスや野牛、馬の群れがのんびりと草を食んでいるのが見えた。
丘は火山につながっているため、少し斜面を登ってみる。すると視界が一気に開けてきた。思わず目を丸くする。
「おお……ここが南端か」
火山の中腹から眺めると、丘の向こう側に真っ青な海が延々と広がっていた。現代のアリューシャン諸島が海面低下によって半島になり、それが丸ごと凍っているためだ。
丘の東には点々と島が連なっているが、海流が強いようで今は渡れそうにない。南側は一面の海だ。水平線しかない。
海岸にはトドやアザラシ、オットセイの群れが寛いでいるのが見える。食糧に困る事はなさそうだ。
太陽の高さは、まだ湯池の泊よりも低い。つまり、より寒さが厳しいという事だ。小さくため息をつく。
(これ以上は南へ行けないから、この丘で越冬するしかないな)
風は既に冷たくなっていて、火山の斜面に生えている高山植物は既に実をつけている。ここではもう秋になっているようだ。間もなく冬になるだろう。




