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川を越えて

 ユーコン川の幅は2キロほどもあるのだが、両岸とも植生は同じだった。蝶や蜂に甲虫などが普通に飛び交っているので、彼らによって均一化されているのだろう。人は越冬できないのに、虫は元気だ。人だけが住めない大地だという印象をさらに強める。


 加えてキビアルが驚いたのは、この東の黄昏の大地はさらに豊穣な大草原だった事だった。芝のような草はここでも生えておらず高山植物と潅木だらけなのだが、種類が多くなり草丈も高くなっている。初めて見る草木もある。

(土が肥えているという事か。まあ、南に延びている大地のようだしなあ)


 大草原にはマンモスや野牛、馬の大群が草を食んで寛いでいるのが見える。こちら側の獣の方がより肥えているような印象だ。

 マンモスを刺激しないように遠回りして避けながら、海岸沿いの草原を南下していく。まだ海岸は南東に向けて緩やかに続いている。

(野牛や馬の群れも桁違いに多い。相当に広大な草原なんだなあ)


 それにしても……と数日間歩いてみて、キビアルが小さくため息をついた。海岸沿いしか確認していないのだが、人の居る気配が全く感じられない。

 泊の廃墟すらもなく、苫の痕跡もない。罠も全く見当たらない。人の足跡もない。


(これは本当に誰も住んでいないな……世界の果てって、こんな感じなのか)

 水を飲みながら干し肉をかじる。息が再び白くなってきたので、気温が下がってきていると知る。熱波が通り過ぎたのだろう。

 上空には砂塵が薄っすらと舞っているのだが、その上には白い雲が目立ち始めている。空気も若干湿気を帯びてきているようだ。


 キビアルの腰まである大草原と潅木を眺めながら、軽く若ハゲ頭をペチペチ叩く。

(すっごく豊かな大草原が世界の果てだった……かあ。なんだかなあ。この事を知ったら、いずれ移住してくるよね)

 キビアルが故郷へ生還して黄昏の大地の状況を話せば、遅かれ早かれ移住しようとする者が続出するだろう。そして、キビアルが一路向かっている黄昏の大地の南端が越冬可能地であれば……

(ここにも人が住むようになるよね。ゴミ捨て場としては不適か……)


 まあ、ここまで来てしまうと、冬までにアララナの居る湯池の泊まで戻る事は不可能だ。既に太陽の高度が徐々に低くなってきている。今は海岸沿いに南下しているのにも関わらず……

(多分、戻る途中で冬になって、氷の暴風に巻き込まれるのがオチだろうな。このまま南へ向けて進むしかない)



 海風に吹かれながら進んでいくと、日を経るに従って湿度が徐々に上がってきた。空に浮かんでいる雲も分厚くなり、にわか雨が降るような気候になっていく。

(でも、砂塵はまだ漂ってるんだよね……どこかに裸地か荒地でもあるのか? 雨が降ってるのに)

 それなりの青空なのだが、湯池の泊や溢れ水の泊の空のように清澄ではない。草原はさらに深くなり、草の種類も増えている。潅木も増えていて、チラホラとモミの木やシラカバの姿も散見できるようになっているのだが。


 この大地にはヒグマはおらず、黒灰色の大熊だけだった。体が大きいので足跡がよく目立つ。獣道のサイズも大きくなっているため、楽に事前回避できているキビアルであった。

 それでも毒団子を仕込んだ打根は常時持って警戒しているが。

(出会い頭の不意の遭遇にさえ注意すれば問題なさそうだな)


 確かに熊への対策は良かったのだが、背負い袋の中の対策までは考えが及ばなかったようだ。ふと歩いている間に、背負い袋の中から腐敗臭を感じてガックリと肩を落としている。

(しまった……湿気が高くなってたんだよね)


 背負い袋の中には干し肉があるのだが、それが湿気を吸いこんで腐り始めていた。すでに色とりどりのカビが生えている。そんな状態の干し肉を手にして、ジト目になる。

(これは、もうダメだな。何てこったい)


 さらに荷物を確認すると、毛皮の衣服にもカビが生えていた。皮袋にも生えているので、呆れながらも困惑する。予想以上に、この大地は湿気が高いようだ。

(仕方がないな。南下行はいったん中止して、食糧の確保をするか……)


 罠猟それ自体は心配無用だった。ホッキョクジリスやハタネズミを中心にして、かなり簡単に獲れた。さすが、人間がいない大地である。

 獲った獲物を早速解体して、天日干しで乾燥させていく。潅木が多いので物干し台には困らない。一部はカモメやワタリガラス、オオカミに食べられてしまったが、それでも充分な量を確保できた。ホクホク顔のキビアルである。

(あんまり美味しくない種類の肉だけど、贅沢は言えないよね)


 熊についてだけは注意していたので、気配を察知し次第、とっとと逃げている。その移動の際に、背負い袋に干し肉を吊るして乾燥を続けているのだが……意外な事に気がついた。

 薄片を太陽に当てると、熱くなるのだ。

(つくづく変な石だな。でもまあ、赤い毒をきちんと拭き取っておけば便利に使えるね)

 今は薄片を背負い袋の上に乗せて、日光に曝して熱くしながら干し肉を上に乗せている。さすがに焼き肉にはならないが、乾燥が早まるようだ。


 こうして完成した干し肉は、海水に浸してからさらに干し、塩の結晶が肉の表面に浮かぶようになってから皮袋に入れている。黒森の民の知恵だ。

(これまでは寒かったから腐らなかったんだろうな。怠けずに処理をしようっと)

 皮袋も海水に浸してから乾燥させているので、塩の結晶がついている。最後に干し肉を詰め込んだ皮袋の口をしっかりと縛って閉じて完成となる。


 道中では池や低湿地があり、場所によっては液果ベリーが実っていた。ここでも熊に注意しながら採集していくキビアル。

 液果はよく水洗いしてから皮袋に詰め込む。それほど液果の糖度は高くないのだが、それでも炭酸ガスを帯びたアルコール発酵が起こる。同時に乳酸発酵も並行して進むので酸っぱくなる。

 ただ、雑菌が含まれるので風味の方は今一つだが。アルコール度数もビールより低い。


 それでも上機嫌のキビアルである。南へ歩きながらニコニコしている。

(出来上がりが楽しみだなー)


 そんな事を考えながら浮かれていると、不意にフードに何かで叩かれた。

「うわ……!」

 いきなりの襲撃で慌ててしゃがんで、打根を投擲器に装填しながら周囲を見る。と、上空には白いフクロウが旋回していた。それで状況を理解する。

(あ。なるほどね)


 再び白いフクロウが全くの無音飛行でキビアルに蹴りつけてきたので、これを何とか回避する。そのまますぐに、小走りで離脱していく。

 どうやら、知らない間にフクロウの巣の近くへ来てしまったのだろう。

(はいはい。邪魔者はすぐに退散しますよ)


 数分ほど小走りで海岸沿いに逃げていくと、フクロウが攻撃してこなくなった。ほっとして立ち止まり、頭のフードを調べてみる。キビアルがジト目になった。

(やっぱり裂けてるな……修繕するか)

 フードはフクロウのカギ爪によってザックリと引き裂かれていた。高原の民仕様の分厚いフードだったのが幸いしたと分かる。もしも黒森の民仕様の薄い毛皮だとカギ爪が完全に貫通していただろう。若ハゲ頭をペチペチ叩く。

(髪が薄いからなあ、俺。頭をザックリ切り裂かれていただろうね)



 熊の他にフクロウにも注意する事にして、数日ほど海岸沿いに南下していく。海はすっかり穏やかになり、湖のような波しか立っていない。ベーリング海の奥に差し掛かってきたためだ。

 と同時に、気温が再び上昇し始めた。前回の熱波ほどではないのだが、それでも暑さにやられて足元がフラフラしている。

(参ったなあ……太陽は湯池の泊よりも低いのに、なんで暑いんだよ。もう……)


 南風が不意に強まり、海に白波が立ってきた。海岸から離れて草原の中を進む事にしたのだが……どうも嫌な予感がする。空を見上げると、急速に分厚い雲が立ち込めてきた。太陽が雲に閉ざされて周囲が暗くなっていく。

(な、なんだなんだ?)


 そう訝しんだ瞬間、南から大粒の雨を伴った突風が吹きつけてきた。一斉に砂塵と枯草が舞い上がって、背の高い大草原を薙ぎ倒していく。視界が急速に悪化していくのを感じて、近くの大岩の下に身を潜めるキビアル。

 同時に轟音が遠くから聞こえてきた。それも、地平線方向ではなく……

(上空か!)


 キビアルが真っ黒くなった空を見上げると、雲がねじれて筒状になり、それが地面へ向けてグングン伸びてきた。あっという間に黒い風の筒は地面に到達して、さらに筒の直径が増大していく。

 風の筒は真っ黒に染まり、その中に大量の草木が巻き込まれていくのを見るキビアル。それに交じって、マンモスや野牛、馬もいる。

(は? 空を飛んでるんですけど)


 思わず目を点にしてしまうキビアルだったが、強風がここにも吹いてきたので慌てて大岩の下へ潜り込んだ。そのため、その後どうなったのか直接見る事はなかったのだが……大岩がグラグラと揺れたので急いで大岩からも適度な距離をとっている。

(凄い突風だな。こんな大きな岩でも揺れるのか)


 耳をつんざく轟音が続き、修繕したばかりのフードを深く被って耐える。

 ……と、その轟音と岩の振動が急速に止んできた。数分間ほど岩の下でじっとして様子を伺っていると、再び太陽が雲間から差してきた。外が明るくなったので、キビアルもようやく岩の下から顔を出す。

 その目が再び点になった。

「ひええ……なんだこれ」


 大岩の周囲には草原があったのだが、それが根こそぎ引き抜かれて消失していた。潅木も多数が引き抜かれて転がっている。海岸から数百メートルほど離れているのだが、今はその海岸がよく見える。まだ白波が立っていて大荒れだ。

 溢れ水の泊でも小さな旋風は発生するのだが、ここまで巨大な竜巻は見た事がない。とりあえず――

「世界の果てってスゲーな」

 の一言で済ませるキビアルであった。


 竜巻で空中に巻き上げられた野牛や馬は、裸地になった大地に落下していた。見事なまでのバラバラ状態で、しかも木の枝が何本も深く突き刺さっている。

(空を飛ぶのって大変なんだな)

 間の抜けた感想を抱きながらも、早速解体して干し肉の材料にしていく。

(もう既にたくさん作ってるから、あんまり多くは持っていけないか……馬の肉は美味しいんだけどなあ)


 黒灰色の大熊も空を飛んでいたようで、ズタボロになって地面に転がっていた。せっかくなので、味見も兼ねて少量を切り取っていく。残りはもったいないが、そのまま放置だ。

(美味しいと良いけどな。ヒグマ肉は結構美味しいから期待だけしておこうっと)


黒灰色の熊はハイイログマですね。ヒグマと同じく散々な待遇になっています。

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