黄昏の大地
北上を続けていると、火山の山脈の北端へ到着した。太陽の高さを確認したキビアルが気を引き締めている。
(夏だけの草原に近い太陽の高さと、空の色だ。空気も乾いてきて砂塵が舞っている。越冬ができない大地に来たか……)
西にあった火山は南に遠ざかり、今は高原が西に伸びている。しかし、万年雪は覆っていないため洪水の恐れは少ないはずだ。一方の東に広がっている海もすっかり穏やかになっていた。沖合では白波が立っているのだが、湯池の泊の辺りほど強烈ではない。
(お? この波だったら皮張りカヌーで航海できるかも)
実はもうキビアルはこの時、ベーリング海に入っていたのだが……地図がないので知る由もない。
東に広がっていた海が次第に遠ざかっていく。それと共に海岸沿いに広がっている草原の幅がどんどん広くなってきた。一方で西にある高原はそのままだ。
砂塵が混じる風に吹かれながら、確信した。
「ここが黄昏の大地か……夏だけの草原とつながっているんだね」
実際は、まだカムチャッカ半島の北端部分に居る。しかし、あと数日も進めばベーリング地峡に到達するだろう。
高原からの洪水は心配しなくても良さそうだと判断して、斜面から下りて海岸沿いに進路を変えた。
(キルデさんやアララナさんが、内陸には絶対に入るなって言ってたからね。確かに広すぎて迷ってしまいそうだ。海岸沿いに進もう)
海岸に近すぎると海風で冷えるため、それなりに距離を置いて進んでいく。海岸はしばらくの間は北東方向へ伸びていたので、太陽の高さが気になるキビアルだ。今や、すっかり弱々しくなって、黄色がかっている日差しになっている。
それを浴びながらキビアルが緊張している。
(もう、夏だけの草原の入り口よりも、ずっと北に来ているんですけど……このまま北に黄昏の大地が続いていたら、越冬できずに凍死確定だな)
焦りまくるキビアルだったが、黄昏の大地はさらに豊穣な風景になっていた。芝の類は生えておらず、幅広の高山植物と潅木だらけの緑の大草原である。平坦な大地なので、大草原を吹く風の波紋がよく見えている。
黄昏の大地と呼ばれているように、日差しは常時夕暮れ時に近い。空気は適度に乾燥していて、雲もそれなりに浮かんでいる。
川も多く流れているのだが、いずれも飛び越えて渡る事ができる程度のものだ。ただ、永久凍土層ばかりで、川沿いには大小多くのクレバスが生じている。
そのクレバスの内部を調査していくキビアルであった。もしも氷の暴風に遭遇したら、こういった場所へ避難するしかない。内部の水溜りや氷、有毒ガスに枯葉などの堆積物の量を確認していきながら、その場で拾った小石を鍵にして記憶していく。
緊急避難場になるので、調査も大真面目である。
そのような調査と記憶を続けながら、海岸沿いに進んでいくと、ついに海岸線が南側へ後退している場所へ到着した。キビアルが近くの大岩の上に乗って、海岸線の先を確かめる。水蒸気の量が多いために遠方は霞んでいるのだが……大きな安堵の息をしてから、大岩の上に座り込んだ。
「良かった……ここからは南へ行ける」
足取りがかなり軽くなったキビアルが、海岸沿いに南下を開始した。次第に夏が本格化してきたようで、気温がグングン上がっていく。湯池の泊と比べると、明らかに太陽の高度は低いのだが……。
頭のフードを外して、若ハゲ頭に残っている髪の毛を南風に揺らしながら呻く。
(むむむ……昼の時間が長いせいかな。こんなに暑くなると、大地が溶けてしまうぞ)
キビアルの危惧は的中した。
川沿いにある丘の縁が、この暑さで溶けて崩落している。そんな場所が南へ行くにつれて目立ってきた。足元が泥沼になっている場所も増えてきたので、さらに海岸の近くへ寄っていく。海岸には当然のようにトドやアザラシ、オットセイが大群で居座っているので、刺激しないように注意して歩いている。
それでもボス格トドに追いかけられたりしているが……
(あまり海岸に近いのも良くないよね。洪水が起きたら逃げ場がない)
夜の時間が短いので、暗くなったら眠るというパターンは通用しなくなってきていた。そのため夜が明けてもしばらくの間は、そのまま寝ているキビアルである。
(怠け者になった気分だな、ははは……)
故郷では罠猟ばかりしていたので、寝過ごしたりして出遅れると獲物をオオカミやイタチなどに横取りされてしまう。今は狩りを極力せずに、南へ向かう事を最優先にしている。
それでも寝不足気味になってしまい、トドに追いかけ回される頻度も増えてきた。幸いな事に、海岸にはヒグマが近寄らないらしく遭遇していない。
(トドに感謝かな)
ヒグマよりもトドの方が倍以上巨大なので、当然といえば当然だろう。
そんなこんなで、海岸近くの草原を南東方向へ向けて進んでいると、比較的大きな川に差し掛かった。キビアルが渡河しているマンモスや野牛の群れを見送りながら、浅瀬を探す。
(水深はそれほど深くないかな。流れも穏やかだ。しかし、この川ってどこから流れてきたんだろ。北には山なんか見当たらないんだけど)
確かに、川の上流には山や丘は一つも見えず、そのまま砂塵に霞んだ地平線になっている。実は、この川は遥か夏だけの草原からはるばる流れてきているのだが、キビアルには知る由もない。
しばらく川沿いを歩いて、野牛の大群が渡河している場所に来た。数は数百頭はいる。どの野牛も丸々と肥えていて、毛皮の艶も良い。
そんな大群がバシャバシャと水しぶきを撒き散らしながら川を渡っていくのを、丘の陰から見守るキビアルだ。
(彼らが渡り終わってから、渡河すれば良いよね。どうせ夜は短いし)
キビアルが視線を丘の縁に向けた。ガッサリと崩れていて、厚さ10メートルを超える永久凍土層が露出している。エドマと呼ばれている地形だ。
その永久凍土層から巨大な野牛の頭が顔を出しているのに気がついた。暇なので近寄ってみる。
「でっかいな……」
今、渡河している野牛よりも倍以上も巨大だ。永久凍土層からニョッキリ出ている頭に生えている一対の角の長さは、差し渡し2メートル弱もある。アララナくらいの背丈であれば、4人くらい並んで座る事ができそうだ。
その野牛の頭に触れてみるとグズグズしていた。冷凍肉が解凍失敗した時の状況だ。悪臭も漂い始めている。小さくため息をつく。
(残念。もう腐っているか……削り取って保存食の足しにしようかと思ったんだけどなあ)
ちなみに、この野牛は大昔に絶滅した種類である。さらに永久凍土層の奥の方には、同時期のサーベルタイガーやホラアナライオン、ハイエナも眠っていたのだが、キビアルは気づかなかった様子だった。
とりあえず待ち時間を使って、丘の周辺を散策する。すぐに目的の場所を見つけたようだ。キビアルの目が満足そうに細くなる。
「あった、あった」
エドマにはクレバスも多くある。その中からキビアルが中に入って休めるサイズのものを見つけて、小石を拾って記憶する。
クレバスの中は枯草や氷があり、腐敗臭がしていた。早速、長袖の中から小さな皮袋を取り出す。中身は灰で、中に赤く光る熾火を一つ取り出した。それを乾いた枯草の上に置いて発火させる。
パチパチ……と炎が上がった段階で、その火をクレバスの中へ投入した。
<ドカン!>
爆発音が起こり、火柱が一瞬立った。渡河中の野牛の群れも驚いて、大慌てで水しぶきを上げて向こう岸へ走っていく。
そんな野牛に軽く謝るキビアル。
「驚かせてしまったか。すまないね」
火の粉がクレバスの周囲に散らばったので、アザラシ皮のブーツで踏み消していく。
クレバスから立ち上っている煙が消えてから、内部を確認してみる。枯草は全て燃えていて、悪臭も感じられない。満足そうに微笑む。
(うん。これで良し。氷の暴風が来た際の避難場所に使える。渡河する場所の目印にもなるしね)
しかし、この爆発の衝撃で別の場所のクレバスが開いてしまったようだ。先程までは普通の大地だった場所に裂け目が出ている。危うく落ちそうになったが踏みとどまった。
(おっと……この暑さじゃクレバスだらけになるよね。足元に注意しなきゃ)
そう言い聞かせた次の瞬間、さらに別のクレバスに落ちてしまったキビアルであった。中にはメタンガスや硫化水素ガスが充満していたようで、這い出てきた時は顔が真っ青になっている。
「や……やばかった。毒の空気が酷い」
まあ、猛毒の一酸化炭素ではなかっただけ幸運だったと言えよう。
クレバス内の枯草などが堆積すると泥炭になる事がある。これが何らかの切っ掛けで燃えると、不完全燃焼となって発生する事になる。
野牛の群れは既に渡河を完了していて、向こう岸で草を食んでいた。アザラシ皮のブーツに穴が開いていないかどうか最終確認してから、川に踏み入れる。水温は数度というところか。意外と川の流れも強い。
(転ぶと悲惨な事になるな、これは)
足元の石や岩に注意しながらも、それでも迅速に渡河していく。石斧を取り出して、その柄先で探りながらなのだが慣れた仕草だ。
しかし結局は水深がブーツの高さよりも深くなって、ブーツの中に川の冷水が入り込んでしまったが。水の冷たさにグチを漏らしながら、軽く肩を落とす。
(まあ、こうなるとは思ってましたよ。はい)
とにかくも浅瀬を歩いて渡り切り、向こう岸に上陸した。すぐにブーツを脱いで、振り回して脱水をかける。皮製なので速乾性が高い。これが高原の民のブーツであれば、フサフサ毛皮のせいで乾くのが遅くなってしまう。
(さすがアザラシの皮だね。さて、先へ進みますか)
再び海岸沿いの草原を南東へ向けて進んでいくと、さらに気温が高くなってきた。海風が冷たいので、汗だくにはならずに済んでいるのだが……それにしても暑い。25度くらいはありそうだ。
北の地平線を見ると、砂塵が舞っていてぼやけている。しかも蜃気楼も出ている。ジト目になるキビアルだ。
「北の大地の方が暑いって……変な場所だなあ、黄昏の大地って」
その頃、内陸部では日中の最高気温が40度に達していた。実はこの高温のために永久凍土層が発達しない場所があり、草木が深く根を張っている。マンモスや野牛、馬の大群が存在できているのも、これが理由だ。
しかし、当時の人類はここでは越冬できない。
こう暑くなると、永久凍土層がよく溶ける。前年には氷の暴風が吹いたのでなおさらだ。
緩やかな丘の斜面や、川の沿岸では「夏の地滑り」が起こりやすくなる。暑さで溶けた表層の永久凍土が、溶けていない層に沿って滑り出すためだ。ただ、黄昏の大地の多くは高温のために永久凍土層があまり発達していないため、夏の地滑りが起きる場所は限定的だが。
しかしキビアルは、その限定的な場所に出くわしてしまった。緩やかな丘の斜面が数ヘクタールに渡って、ズルリと滑っている。地面に生えている草や潅木はそのままで、水平移動したような見た目だ。
足元の感触が、いきなり頼りない感じに変わったので驚いている。
「な……なんだここ。地面なのに何となくフワフワしてるぞ」
夏の地滑りの規模が数ヘクタールなので、広すぎて把握できていない。地面に亀裂が走っている場所もあるので、大慌てでこの場所を横断していく。
(な……何か分からないけど、危険だここは)
実際、見事に亀裂に落ちていたりするキビアルであった。この夏の地滑り地域を脱する頃には、何度も亀裂に落ちたせいで泥だらけになっていた。背負い袋のおかげで全身泥だらけにはなっていないが。
ようやく地面が普通の踏み応えに戻ったのを感じて、ほっと安堵している。
(ひええ……何だったんだ? 背筋が凍りまくりだったんだけどっ)
夏の地滑りを起こした際の地面の厚さは、平均して1メートルくらいになる。穴を掘らないと分からない。
その後も小規模な夏の地滑り地を横断して、やはり何度も亀裂に落ちていくと、ある日、焦げ臭い臭いが北の空から漂ってきた。
亀裂から這い出して一息ついていたキビアルが、北の方向を見てジト目になっていく。北の空が急速に黒い煙で覆われてきている。
(火事か。マジか)
恐らくは泥炭が落雷か何かによって発火して、それが燃え広がってきたのだろう。この暑さで地面や草木に枯草が乾いていたせいもある。
急いで立ち上がり、海岸へ駆けていく。トドやアザラシ、オットセイの群れが居座っているので、避難場所はかなり限定されている。
相変わらず南風が吹いているのだが、黒く染まった空は北から迫ってきている。風上に燃え広がってくるとか、おかしいだろ……とグチを漏らしながらも、海岸の岩場に到着した。急いでトドの群れから離れた場所に向かう。
実は風上に向かって逃げたので、こうして煙に巻かれずに助かっているのだが……
岩陰に避難してしばらくすると、ゴウゴウという火災特有の轟音が聞こえてきた。しかし、南から吹く海風のおかげで煙はそれほど濃くない。それでも焦げ臭い臭いが充満しているが。
トドたちが喚きながら海中へ避難していく。それを見送りながら、ジト目になるキビアルだ。
(こういう時は君たちが羨ましいよ)
しばらく様子を見て岩陰でじっとしていたが、やがて立ち上がった。北の方角を見て少し安堵する。
(海岸には炎や煙は来ないか。まあ、ここには草木は生えていないし)
次に太陽の高さを確認する。まだ日没までには時間がありそうだが……
(日没になったら風向きが変わる。陸から海へ吹くようになるから、それまでに火事の場所から脱出しないと)
幸い、この火災のせいで海岸沿いにはトドやアザラシ、オットセイの群れは残っていなかった。小走りで海岸を南東へ向かっていく事にする。
場所によっては海岸まで炎が延びていた。少し考えてから、袖の中から熾火を入れた小袋を取り出す。
(せっかくだから、種火を補充しておこう)
ちゃっかりしている。
しかし、この草原火災の延焼面積はかなり広かった。結局脱出できず、その晩は海に突き出した岩だらけの岬の先で野宿している。周囲が海なので湿気がかなりあるため、草原火災で燃えている潅木を引っ張ってきて、それに適当な流木を添えて焚火をしている。
(火には不自由しないな。ははは)
ついでに、焼死していた馬を見つけて、ちゃっかりと解体していたりする。今は焚火に当たりながら、馬の肝臓を口にしてモグモグしていた。
(美味いなー。焼肉さいこー)
当然ながら生焼け状態だが。
さて、この草原火災だが翌日に起きた洪水で強制消火となった。北の方で大雨でも降ったのだろう。この洪水の水深は深い場所でも30センチほどなので歩く邪魔にはならない。
しかし、洪水のせいで四方全てが水で覆われた世界になっている。この辺りは高低差がほとんどない場所だったようだ。これまでは海岸だったのだが、今では海と陸地の境界線が消えて一面の汽水域に変貌している。
海からの波が内陸まで伝わっていくのを見ながら、バシャバシャと水音を立てて歩いていくキビアルだ。
(アザラシ皮のブーツで良かったよ、まったく……)
溺死したハタネズミやホッキョクジリスが漂ってくる。それを適当に拾って手早く解体して食糧の足しにしていく。今や、背負い袋には干し肉になる前の生肉がビッシリと吊るされていた。干し肉売りの行商人のようにも見える。
当然ながらホクホク顔のキビアルだ。陸地が見当たらない水だらけの大地でヘラヘラ笑っている。
(これで腹ペコで歩く事は避けられそうだな。火災と洪水に感謝しなきゃね)
洪水は一時的なもので、翌朝には引いていた。草原火災も完全に鎮火している。泥炭が溜まっているクレバスからは、まだブスブスと細い黒煙を出しているが。
やがて火災の延焼地域を抜けて、再び大草原に入った。マンモスや野牛の大群が何事もなかったかのように、のんびりと草を食んでいる。海岸にはトドたちが戻ってきていて、カモメやウミガラスらと一緒に騒々しい。
そんな風景を見て、再び海岸沿いの草原を歩きながら安堵しているキビアルだ。ヒグマや見慣れない黒い熊もチラホラ見かけるが、キビアルには関心を持っていない様子である。
(黄昏の大地の風景にも慣れてきたのかな。ほっとする)
とは言え、太陽の高さはまだ低いままなので南へ急ぐ事にしたのであった。




