越冬を終えて
トド皮張りカヌーの試作を繰り返しているうちに、夏はすぐに過ぎ去って冬になった。雪混じりの冷たい風が常時吹くようになり、外洋に面している海がさらに荒れていく。
白波だらけになった海を海岸から見つめていたキビアルが、ガックリと肩を落とした。
「むむむ……こんなに海が荒れてしまうと、船の試験航海もできないなあ。残念」
アララナが泊からやって来て、キビアルに水が入った袋を手渡しながら苦笑している。突風のせいで彼女の茶髪が盛大に巻き上がっている。
「この嵐が止むと、今度は流氷が押し寄せてきます。春になるまでは試験航海は無理ですね」
キビアルの服装は黒森の民のままだった。これに袖口や襟に追加の毛皮を縫いつけている。アザラシの皮製のブーツに代表されるように、防水性能が高めの服だ。海岸で船づくりをしているので、濡れてもすぐに乾く黒森の民方式の服が便利な様子だ。
一方のアララナやラリク族長の服装は高原の民の方式である。防寒性能が高めなので、毛皮がかなり分厚い。その分だけ乾きにくいが。これに加えて狩りの際に潅木の枝で服を損耗しないように、エプロンを腰にかけている。ちなみに、今のアララナはエプロンをかけていない。
フサフサした毛皮の服なので、これを着て泳ぐのは大変だろう。
キビアルが水を一気飲みしてから、肩を落としたままで同意する。彼の横にはトド皮張りカヌーが上下逆さまになって置いてあった。長さが3メートル弱あるので、結構大きく見える。
「ですよねー……ですが何度か試作したおかげで、波のない穏やかな海であれば無理なく航海できるようになりました。すいません、アララナさん。何度も救助してもらって」
アララナの苦笑度合いが深まっていく。
「そうですよ、キビアルさん。海に浸かり過ぎです。ですがそれに伴って、泳ぎは上手くなってますね」
キビアルが若ハゲ頭をかいて恐縮している。
「アララナさんを船に乗せるという約束でしたが……守れなくてすいません。二人乗りになると操舵が難しくて」
アララナがキビアルから空になった皮袋を受け取って、軽く肩をすくめた。軽く団子鼻を指でかく。
「見るからに危うい感じですしね。キビアルさんと仲良く一緒に溺れるのは、少し遠慮したいところです。あたしは泳ぎが下手ですし」
アララナがキビアルを少しからかってから、本題に入った。真面目な表情になる。
「湯池の泊での越冬を強く勧めます。キビアルさんの服装では、ここよりも北での越冬は不可能ですよ。凍ってしまうだけです。この泊に滞在して、春になるまで待った方が良いと思います」
素直に了解するキビアルである。
「滞在許可をくださって、ありがとうございます。アララナさん。そうですね、春になって暖かくなるまで、この泊に滞在したいと思います。狩りは苦手なので、川魚やカエルなんかを獲って貢献しますね」
アララナが明るく微笑んだ。年相応の少女らしい表情になっている。
「干しサケの備蓄がかなりできましたから、そんなに狩りや採集をする必要はありませんよ。石数えの仕事も暇になってしまいましたし。ゆっくりして下さいな」
冬の間は確かに暇だったようで、アララナから石数えの技をいくつか教えてもらったキビアルであった。それでも若ハゲ頭をかいて、石を前にして呻いているが。今も練習問題を前にして頭を抱えている。
「むむむ……技を覚えるたびに、記憶すべき事が増えているんですけど。計算の方法も増えて、頭が混乱します」
ラリク族長たちが「うんうん、そうだよな」と深く同意しているのを横目で見ながら、アララナが振り返った。今は10代前の子供たちに石数えの技や、語り部に必要な記憶訓練を行っているところだ。学校のようなものだろう。
「あら。まだまだ基本的な内容ですよ、キビアルさん。しっかり覚えないと、黄昏の大地をたった一人で旅する際に苦労しますよ」
アララナの態度が学校の数学教師みたいになっている。
「うひ~……」と悲鳴を上げつつも勉強を続けるキビアルであった。こういった勉強は子供たちの方が速く習得するものだ。数週間もすると、すっかり子供たちに追い越されてしまった。
(むむむ……ここでも落ちこぼれですか俺は)
今では10代前の子供たちからも、石数えの技と記憶術のコツを教えてもらっているキビアルであった。
食糧はアララナが計算した通り、充分に余裕ができていた。そのため狩りに奔走しなくても済み、気楽な越冬生活になっている。
ラリク族長がキビアルの肩を満足そうに叩いて感謝してきた。
「サケ漁のおかげだな。教えてくれて感謝するよ、キビアル君。アザラシ肉も最近では食べ慣れてきたしなっ」
食べ過ぎて鼻血を出す子供もいなくなったらしい。ただ、トド肉だけはダメらしいが……
やがて冬が終わった。風向きが変わり、空の色合いが明るくなってくる。
それでもまだ風は冷たいままで、時々雪も舞っている。それでもご機嫌な表情で背伸びするキビアルである。早くもワタリガラスの小さな群れが南から飛んできたのを見送った。
「越冬できたな。さて、ゴミ捨ての旅を再開するか……」
視線を海岸に向けると、まだ分厚い流氷で覆われていた。あちこちにアザラシが昼寝をしている姿がある。
(船づくりは無理だな、これは。仕方がない)
キビアルが出立の準備を始め、久しぶりに背負い袋の中身を取り出して点検してみた。途端にジト目になる。
「むむむ……やっぱり赤くなってたか」
薄片は袋の一番底にしまい込んでいたのだが、袋も一部が赤く染まっている。仕方なく、冬でも凍結しない泉へ行って、その下流で薄片と背負い袋の内部を洗う事にした。キビアルはこの赤い粉を毒だと思っているので、念入りに洗い流している。
ゴシゴシ洗っていると、アララナが石数えの仕事を終えてやって来た。今はキビアルよりも泊の子供たちの方が優秀なので、キビアルはクビになっている。
「あら。また赤くなってしまったんですか、その薄片。本当に不思議な石ですね」
洗い水が薄いながらも赤く染まっているので、アララナも驚いた顔をしている。
とりあえず洗い終えたキビアルが黒い色に戻った薄片を地面に置いた。続いて背負い袋についた赤い色を洗い始める。
「本当にそうですよね、面倒な石ですよ。背負い袋にまで色が着いてしまうし、まったくもう」
そうグチをこぼしてから、川の中州を見た。
「ここって地面が温かいんですね。雪解けが早いから、渡り鳥の巣だらけになってますよ」
火山地帯なので地熱がある場所があるのだ。そして、そういった場所は草がいち早く芽吹くため、渡り鳥が集まりやすい。実際にキビアルとアララナがいる川の周囲は緑の草原になっていて、小さな中州には南から渡ってきたばかりのコクガンなどが羽を休めている。
コクガンはまだ大人しいのだが、フクロウとなると攻撃的だ。そのため、キビアルが洗濯をしている場所もフクロウの巣から離れている。
こういった渡り鳥はまだ産卵する時期ではなく、巣をつくっている段階だった。中州なので周囲を水で囲まれているため、キツネやイタチなどの襲撃が少ないのだろう。ヒグマは容赦なく川を渡って中州へ侵攻するが。
アララナがキレイになった真っ黒い薄片を手にして、川の上流を見あげた。火山がいくつか連なっているのが見える。
「湯池の泊と呼ばれる理由が、この泉と川なんですよ。火山の影響なのでしょうね」
飲料水はここから汲み上げているのだが、泉の水を汲むのではない。地下水が湧き出ている場所があるので、ここから出てきたばかりの水を汲んでいる。
泉はヒグマやオオカミなども利用していて、糞が水辺に転がっているためだ。
ちなみに黒森の民や、高原の民には入浴の習慣はない。
アララナの表情が真面目な感じに変わった。
「北に連なっている火山地帯ですが、狭い谷を歩くと死んでしまう事が稀に起こります。できるだけ幅が広い谷を進んだ方が無難ですよ。谷にヒグマやキツネの死体が転がっていたら、死の谷になっている恐れがあります。注意してくださいね」
キビアルが了解した。ちょうど背負い袋を洗い終わって、岸に広げる。
「そんな不思議な場所があるんですか。分かりました、用心する事にします。しかし結局、石数えの仕事を手伝えなくなってしまって……自分のバカさに呆れています。すいません」
アララナが気楽な表情でキビアルの謝罪を受け流した。
「元々、石数えや語り部というのは子供の仕事なんですよ。物覚えが速いですから。あたしの歳でも、そろそろ引退を考える頃合いなんです。キビアルさんは、さらに年上ですので気にしないでください」
記憶力が重視されるため、大人よりも子供の方が適しているのだろう。
それでも肩を落としてキビアルがへこんでいるので、アララナが励ます。
「実は子供たちが大勢学ぶようになったのも、キビアルさんが手伝ってくれたおかげなんですよ。キビアルさんの姿を見て、あれなら我が子でもできそう……っていう雰囲気に。あ。すいませ……」
口が滑ったのか、少し慌てるアララナ。その拍子に、手に持っていた薄片の縁で指を切ってしまった。傷は浅かったようだが、少しすると血が滲み始めてきた。
アララナが困惑した表情でケガを負った右の人差し指を見つめる。血が赤い一筋となって垂れている。
「あらら……うっかり切ってしまった。毒の強さはどのくらいですか?」
「!!!!」
キビアルが大慌てになってアララナの指をつかんで、そのまま口に含んで血を吸い上げ始めた。今度はアララナがびっくりしている。
「え? あの?」
混乱しているアララナをよそに、キビアルがアララナの右の人差し指から吸い取った血を地面に吐き出した。
「毒を吸い取りますねっ。くすぐったいでしょうが、我慢してくださいっ」
さらにキビアルが数回ほど指を吸って血を抜き、その後すぐに泉へ連れていって、地下水からの湧き水で直接指を洗った。必死の形相のキビアルである。一方のアララナは顔が真っ赤になっているようだが。
「俺の故郷の溢れ水の泊でも、似たような事故が起きまして。念入りに洗えば大丈夫です。ですが、傷の治りが遅くなるかも知れません」
さらに数分ほどかけてアララナの右指を洗い終わったキビアルが、ようやく一息ついた。
「これで大丈夫だと思います。傷口も浅かったですしね。すいません、アララナさん。ケガを負わせてしまいました」
アララナはようやくキビアルの手から解放された右手を胸元に引き寄せて、さらに左手を添えていた。顔が真っ赤である。耳と団子鼻まで赤い。
「そ、そそそそそうですか……傷が浅くて良かった。た、対処してくださって、あ、ありがとうございま……」
最後まで言う余裕もない様子で、クルリと背を向けてダッシュで泊へ駆け去っていった。
「ヨモギを貼ってきますねっ、で、ではまたっ」
キビアルが脱力して地面に両膝をつく。猛ダッシュで駆け去っていくアララナの後ろ姿を諦め顔で見送った。
「な……なんてこったい。出発前日に失敗しちゃったよ」
そして、膝をついたまま北の火山を見あげた。特に天候の乱れはなさそうだ。
「……今から出発するか」




