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船づくり

 そのアザラシの肉は、やはり高原の民には不人気だった。まあ、食べ慣れない肉なので警戒するのは当然だ。加えて子供が食べ過ぎて鼻血を出したり腹痛を訴えたので、なおさらである。

 落胆しつつも、それでもめげないキビアルだ。

「アザラシが無理ならトドにしましょうっ。皮は船づくりに使えば良いですしねっ」


 トドはアザラシよりも巨大なので、紐を使っての狩りは現実的ではない。そのため、キビアルが群れのボス格のトドを挑発して、毒打根を撃ち込むという戦法になった。

 アララナが心配そうな表情で、できたばかりのトリカブト毒団子をキビアルに渡す。

「ヒグマよりも大きいですよ。毒が回るまで相当な時間がかかるはずです。大丈夫ですか?」


 キビアルが早速毒団子を打根の石刃に塗りつけながら、困ったような笑顔を向けた。

「ガンバリマス」


 実際、ボス格のトドへの攻撃はすんなりと実行できた。投擲器の射程が15メートルほどあるので、ゆっくりと岩陰に潜みながら接近すれば打根をトドの頭に命中させるのは容易い。問題は……

「うひゃー。きたきたー」

 頭に打根が突き刺さり、怒り狂ったトドがキビアルを目ざとく発見して突撃してきた。

 さらに一本の打根を頭へ投射してから、ひたすら逃げ回っていくキビアル。


 アララナはさらに離れた岩の陰から見守っている。彼女もキビアル同様に顔面が蒼白である。

「あわわ……手足が短くて丸々と太っているのに、動きが素早いじゃないですかっ」

 心配になってアララナも打根を投擲器に装填して、助けに向かおうとしたが……泊の男によって引き戻された。彼はキビアルを最初に発見した人だ。心配になって様子を見に来ていたのだろう。

「アララナさん。キビアル君は大丈夫だよ。安全な距離を常に保っている」


 アララナがよく見てみると、確かにトドの突撃攻撃を回避している。かなりギリギリだが。

「そ、そうですね……」

 男も投擲器に毒打根を装填していた。それをアララナに見せて落ち着かせる。

「イザという際には、支援攻撃しますよ。ここはキビアル君の狩人としての腕を信用しましょう」

 と言っても、キビアル君はただ逃げ回っているだけなのだが……



 2時間が経過した。キビアルも疲労困憊になって、時々岩に引っかかって転んでいる。見守っているアララナたちも気が気ではない表情だ。

 それでも、ようやく毒が回り始めた様子でトドの動きが緩慢になってきた。口から白い泡を噴き出し始めている。人であれば、ほぼ即死する強さの毒なのだが……しかも頭に刺さっている。


 アララナの肩を押さえていた男が、投擲器を地面に下ろしていく。まだ警戒したままの表情だが、口調からは緊張の度合いが落ちているのがアララナにも分かった。

「アララナさん。何とか仕留めそうですよ、キビアル君。大したものだ」


 彼の言った通り、さらに十数分ほど経過するとトドがぐったりして動かなくなった。ヒーヒー喘いでいるキビアルが、足をもつれさせながらも石斧を振り上げて突撃する。

 黒曜石の石刃が太陽の光を反射してきらめき、トドの喉元に振り下ろされた。鈍い音がアララナの耳にも届いたが、男が「ぷっ」と吹き出した。

「仕留め損なってるじゃないか。仕方がないな、もう」


 どうやらトドの首が太すぎて、動脈にまで石刃が及んでいなかったようだ。キビアルは力尽きて、その場にへたり込んでいる。それでもトドには毒が回っていたので、反撃は食らっていない。

 アララナが苦笑しながらも安堵して、男に頼んだ。

「すいませんが、トドメを刺してあげて下さいな」



 とにかくも仕留めたボス格のトドはピックアップトラックほどの大きさだった。当然ながらキビアル一人では解体に時間がかかるので、アララナが泊の住人を呼んでくる事になった。

「肉の量はかなり多そうですね。マンモス猟を一回分くらい減らせるかも」

 キビアルが疲労困憊ながらも若ハゲ頭を叩いて照れている。

「高原の民の口に合うと嬉しいですね。あー、そうだ。皮は傷つけずに解体しましょう。船づくりで必要ですからね」


 結局……このトド肉も高原の民には不評で終わったのであった。アララナも苦笑しながらジト目になっている。

「アザラシよりも臭いですよ、これ」

 ガッカリしているキビアルである。

「マジですか……ははは……」


 トド肉をはじめとした海獣は筋肉中に大量の血液を保持しているので、そのままだと血の味が強い。クジラ肉やイルカ肉も同様だ。そのために仕留めた後で、海中に数日間沈めて血が抜けるのを待つ。

 しかし今回はキビアルが皮の入手を最優先にしたため、この血抜き工程がなかった。当然、血の風味がそのまま残っている事になる。高原の民に不評になるのは当然だろう。

 ただ、血抜きをしても生肉にはトド特有の獣臭さが充分に残る。風味はクジラ肉に近いか。アクも非常に強い。脂身と肉も固くてゴム質なので、一口サイズに石刃で切ってから食べるのが基本だ。むしろ脂身の方が肉よりもゴム質だったりするので、より小さく切った方が良いだろう。ちなみに焼いても獣臭い。


 落胆していたキビアルであったが、アララナが目を輝かせて励ましてくれた。

「ですが、これで船づくりができますねっ。ぜひ見たいものです」



 アララナに後押しされるようにして、キビアルがトドの皮張りカヌーを作り始めた。まっすぐで枝の少ない流木を選んで、まず筏を組み上げていく。

「アララナさんの話を聞くと、この南にある島っていうのは俺が石刃の材料を集めた島かも知れませんね。確かに、あの島にはまっすぐなモミの木の森があります」

 実際には、キビアルが訪れた北海道東部ではなくて、さらに南の道南や東北地方から流れてきている杉なのだが……彼には知る由もない。ピリャリュがここに居れば、キビアルに間違いを指摘してくれただろうが……


 アララナも興味津々の表情でまっすぐな流木を見つめている。

「湯池の泊の森には、曲がった木しか生えていません。まっすぐな木があると何かと便利ですね。室や苫づくりでも重宝しそうです」

 海岸沿いなので海風がきつい。そのため木々が曲がりやすく、枝も風下側に多く生えがちだ。


 海岸から新たな流木を引っ張ってきたアララナが、組み立て作業中のキビアルに申し訳なさそうに謝った。

「すいませんキビアルさん。泊の住民が誰も手伝わなくて。トド肉の不味さが決定的でした。アザラシ肉はまだ良かったのですが……」

 今度はキビアルが恐縮しながら答える。

「俺の故郷の泊では人気があるので、うっかりしていました。トナカイの肉と比べるとクセが強すぎますよね、ははは……」


 トナカイも家畜の牛豚と比較すると充分に獣臭い。

 ただトドの名誉のために補足しておくと、充分に血抜きと調理時の下ごしらえとして湯通しを徹底すれば、獣臭さとアクが消えてそれなりの素材になる。しかしまあ、アザラシやセイウチが隣にいるのであれば、そちらを食べた方が良いが……


 キビアルはアララナの石数えを手助けする仕事があるため、皮張りカヌーづくりには日数がかかった。トドの皮を掃除して干す必要があったので、仕方がないと納得している様子である。

 皮に皮下脂肪が付いたままだと腐敗する要因になるためだ。この時代には石鹸が発明されていないので、木灰を混ぜた小便を使って皮を洗うという作業になる。小便が少ない場合は海水を加えているようだ。


 さて、キビアルがそんな仕事とカヌーづくりを続けている間に、本格的な春になった。草原は一面の花畑に変わって、白黄青赤の小さな花で満ちていく。

 蝶も大群となって空中を舞い、カエルの大合唱も聞こえてきた。草の中からはハタネズミやホッキョクジリスが顔を出して、モグモグと口を動かしている。


 それほど寒くなくなってくるので、狩りを行うにも適した季節だ。

 ここ湯池の泊でも、この頃になると住民たちの団結が強まってきていたため族長を選出する事になった。キビアルがトド皮を筏の骨材に貼りつけていきながら、小首をかしげている。

「族長は俺の故郷でも選んでいますけど、ずいぶんと真剣になって選ぶんですね」


 アララナがキビアルの手伝いをしながら、静かにうなずく。

「高原の民はマンモスや馬にトナカイの群れを狩りますから。かなり危険で死者も出るんですよ。族長が強力に指揮する必要があるんです」

 キビアルがマンモスの雄姿を思い起こす。

「以前に、マンモスがヒグマを踏み潰して遊んでいるのを見ました。なるほどー……ああいう死に方はしたくないですね」


 結局、湯池の泊の族長は、キビアルを最初に発見して泊へ案内した壮年の筋骨たくましい男に決まった。年齢は30代くらいか。キビアルも彼を推薦していたりする。

 男の新しい名前は「ラリク」に決まった。高原の民の言葉で「束ね紐」という意味だとアララナが説明する。


 ラリク族長による族長就任演説が始まり、同時に宴会も開始された。室の中は暗いので野外での演説と宴会になる。

 演説は高原の民の言葉なので、キビアルには理解できていない様子だ。それでもじっと聞き入っている泊の住人たちの真剣な表情を眺めて感心している。

(へえ……凄い団結だなあ。やっぱり集団で狩りをする民だからなのかな)

 そう思いつつ、宴会用の肉を見る。外側はカビで真っ黒に覆われていて、それを丁寧に石刃で削ぎ落している。それでも内部の肉の色は暗い赤色だ。かなり乾燥している。


 高原の民は永久凍土層に生じているクレバスの中に、肉を長期保存している。普段食べる肉は比較的浅い場所で冷凍保存しているのだが、こういった宴会用には深い場所で長期間冷凍保存したものを使う。

 冷凍といっても土中なのでそれほど凍てつく事にはならない。低温でも活動する乳酸菌や酵母菌などによって、肉がゆっくりと発酵していく。表面には雑多なカビが生えて、肉の水分が吸われて抜けていく。

 上手く発酵すれば良い風味に仕上がるのだ。湿って柔らかいカツオ節のような状態だ。もちろん、土中の菌をそのまま使っているので失敗する場合もあるが。


 その宴会の手伝いをしながら発酵肉を一切れ口にしたキビアルが、目を白黒させている。

「うは……かなり強い臭いと酸味ですね。肉もかなり固い。でも美味しいです」

 高原の民なので、海鳥や海魚、海獣ではなく普通のトナカイや熊の内臓だ。キビアックのような状態ではない。なお、マンモスは日常食らしい。


 アララナがラリク族長の後で、高原の民の言葉で何か演説してからキビアルの隣に座った。彼女も固い発酵肉を一切れ手にしている。

「宴会の手伝いをしてくれて、ありがとうございました。言葉が聞き取れなくて退屈でしょ」


 キビアルが若ハゲ頭をペチペチ叩いて恐縮した。

「すいません。どうも言葉を覚えるのが苦手で……」

 アララナがクスクス笑って発酵肉を口に放り込んだ。

「高原の民の言葉って発音が厄介なんですよ。気にしないでくださいな」


 そう言ってから、口をモグモグさせながら話題を変える。

「ラリクって名前ですが、実はあたしの父親と同じなんですよ。母はウスチマヤという名前です。高原に氷の暴風が襲ってきた際に別れ別れになって、それっきりですね」

 アララナが食べ終えて、少し遠い視線を西の空へ向けた。

「どこかで生き延びていると嬉しいのですが、恐らくはもう亡くなっているのでしょうね」


 キビアルも一緒に西の空を見上げて、静かに答える。

「俺も一度だけ氷の暴風に遭遇しましたが……とんでもないですね。運よく助かりましたが、冬だったら間違いなく凍っていましたよ」

 アララナの話によると、この泊の住人も氷の暴風に遭遇して逃げ延びてきた者ばかりらしい。


 宴会がたけなわになり、ラリク族長がご機嫌な表情で何か歌い始めたのを聞きながら、キビアルが少し沈んだ表情になった。

(ここまでの道中、人骨が多くあったけれど……その中にアララナさんのご両親も含まれていたかも知れないのか)

 人を襲うヒグマも少なからずいたなあ……と思い起こす。北海道のヒグマだけは、いつも凶暴なようだったが。


 キビアルが話を続けた。ペチペチと若ハゲ頭を叩く。

「両親が健在でも、俺のように追い出される事がありますよ。こんな容姿ですので結婚できなくて。狩りも下手で罠猟しかできませんしね。母親からは旅の間に嫁探ししろって言われてる始末です、ははは……」


 今度はアララナがキョトンとした表情になった。茶色の瞳と癖のあるフワフワ髪が跳ねる。

「え? そうなんですか。あたしは好ましく思っていますよ。高原の民でも石数えできる人って少数なんですよね。話が通じない場面が意外と多くて苦労しています。その点、キビアルさんとはこうして気楽にお話ができます」

 現代でいえばデータベース管理と経理をやってる人が、それを知らない人と仕事の話をする場面に似ている。どちらも一般社員からは畏れ疎まれる存在だ。


 アララナにそう言われても、ちょっとモニョモニョしているキビアルであった。

「俺の石数えの技なんて、初歩の初歩ですよ。あんまり褒めないでくださいね」

 クスクス笑い始めているアララナの横顔を見ながら、薄片捨てとは別の、もう一つの「嫁探し」と言う課題を考えてみる。

(石数えは重要な仕事だから、俺の溢れ水の泊へ呼ぶ事は現実的じゃないよね……それに多分キルデさんが居るだろうし。それに……まだ結婚するには若い年頃だよね、アララナさんって。どう見ても、まだ少女だし)

 そう言っているキビアルも10代後半の少年なのだが。



 ラリク族長になって数日が経過し、泊の住人も新体制に慣れてきた頃。ようやくキビアルがコツコツと合間の時間につくっていたトド皮張りカヌーが完成した。

 最後の点検を終えて、ピンと張ったトド皮を指で弾いて<ボヨヨン>と太鼓のような音を鳴らしたキビアルが、長袖で若ハゲ頭を拭いた。それなりに気温が上がっているので、汗をかいている。

「よーし。やっと完成したあー」


 アララナが素直に喜んで、カヌーの皮を一緒になって指で弾いて音を出している。彼女の他には誰も興味を示してくれなかったため、ここにはキビアルとアララナの二人だけだ。他には離れた海岸にトドやアザラシの群れがいる程度である。

「苦労しましたが、完成して良かったです」


 早速キビアルが試験航海をしようとしたが、慌ててアララナがキビアルの服をつかんで制止した。

「ちょ、ちょっと待ってください。命綱をつけないと溺死しますよっ」

 高原の民は泳げない者ばかりだ。キビアルは黒森の民なので泳ぎは得意なのだが、ここは素直に従う事にしたようだ。

「そうでしたね。指摘してくれて助かりました。ええと……トド皮の余りを紐に加工すればいいかな」

 カヌーの補修用に、あれからもう一頭のボス格トドを狩っていたので、その皮を使う。肉と内蔵はキビアルが今も一人で頑張って毎日食べている。


 かくして……トド皮を細く切ってつくった皮紐を2本用意し、カヌーの後端とキビアルの衣服の腰回りにそれぞれ装着した。2本の皮紐のもう一方の端は、海岸にある大きな岩に結びつけている。皮紐の長さは10メートルほどで2本とも同じだ。


 出港の準備を終えたキビアルが目を輝かせて、海岸に立っているアララナに手を振った。彼女は心配顔で2本の皮紐に触れている。

「では、試験航海に出てみます。上手くいったら、次は一緒に乗ってみましょう」

「気をつけてくださいね、キビアルさん」


 流木を削ってつくったオールを手にして、意気揚々と出港したキビアルであったが……数分もしないうちに白波にひっくり返されて転覆してしまった。夏は海も穏やかなのだが、それでも波は高いものだ。

「げ!」

 悲鳴をあげて海中に投げ出されていくキビアル。


 アララナがジト目になってため息をついた。

「やっぱりこうなりますか……キビアルさーん! 岸に戻ってくださいなーっ」

 波の間から頭を浮かべているキビアルが、若ハゲ頭をかいた。頭上をカモメやウミガラスが旋回していて騒いでいる。

「すいません、お手数かけます。紐を引いてください。あー……海水が塩辛い」


 命綱のおかげでキビアルとカヌーは無事に海岸に引き戻された。海から上がったキビアルが、ずぶ濡れ状態で若ハゲ頭をひたすらペチペチ叩いている。

「海はそれほど冷たくなかったのですが、それでも陸に上がると冷えますね。要改良かあ……残念」

 再びため息をついたアララナが静かに同意した。

「……そうですね。波が容赦なく船の中へ入ってきていましたよ」


 キビアルがアザラシ皮のブーツを履き替えて、軽く呻く。

「うむむ……より大型の船にする必要があるという事ですか。トドの皮一枚では足りそうにないなあ。どうしよう」

 アララナが替えの毛皮服をキビアルに手渡して、小首をかしげる。

「大型化しても波が高いと沈没すると思いますよ。この船は波が立っていない場所限定で使うべきですね」


 大型化すればそれだけ容積が増えるために船が沈みこまなくなるのだが……皮を接着する方法がない。穴の補修程度であれば何とかなるのだが、二頭分のトド皮を防水状態を維持したままで接着させる事は、この時代では不可能である。


 アララナの指摘を受けて、ショボンと肩を落とすキビアルであった。

「ですよねー……南の民のように上手くできないなあ」

 アララナが軽く肩をすくめてから、目元を和らげた。

「川や池であれば使えます。そんなに落胆する事はありませんよ」



 こうしてキビアルの試みは多くが失敗に終わったのだが、例外もあった。海から川へ遡上してきたサケの漁である。

 高原にはサケが遡上してこずに、マスやホッキョクイワナのような淡水魚しかいない。そのため、いきなり川が大量の真っ赤になったサケの大群で埋まったのを見て驚いている。

 キビアルがラリク族長に提案してみた。

「サケという魚です。この時期だけ海から上がってきて、産卵していくんですよ。簡単に獲れて美味しいですよ。保存食にも加工できます」


 川には既にヒグマの群れがいて、サケを捕まえては食べている。ヒグマのメスは贅沢な食べ方をしていて、サケの頭と卵だけ食べて残りは捨てていた。オオカミとキツネが遠巻きに眺めている。

 この頃には子熊も大きくなっているのだが、それでもオスのヒグマに蹴散らされて逃げ惑っていた。そんな子熊たちはオオカミやキツネに八つ当たりしている。

 河口に近い場所ではカモメの群れが乱舞していて、ヒグマの食べ残しをつついて大騒ぎしているのが見えている。


 ラリク族長が慎重にヒグマとカモメの様子を見てから、キビアルの提案に乗った。

「ふむ……毒魚ではなさそうだな。ヒグマがいない場所で試しにサケとやらを獲ってみるか」


 早速キビアルがサケ獲り用の罠をいくつか作った。樹皮を編んで簡易な衝立ついたてを2つ作成して、それを「ハの字」型に川に設置する。こうする事で、遡上していくサケが一点に誘導される。後は、網などでサケをすくい取る……という簡単な仕組みだ。

 もちろんサケの泳ぐスピードはかなりあるので、人が捕まえる事ができる数は大して多くない。それでも、あっという間にサケの山が岸に築かれていく。


 キビアルが山の大きさを見て、ラリク族長に告げた。

「この程度で充分ですよ。この後で加工しないといけないので、あまり多く獲っても腐らせてしまうだけです」


 黒森の民の間では常識なのだが、生のサケの身を食べるのは体に良くないとされている。寄生虫や下痢などを引き起こす病原菌を警戒しての「生活の知恵」だろう。

「生で食べて良いのは卵と白子だけです。他は干してから食べます」


 早速、そのサケの卵巣と精巣を味見したラリク族長が、驚愕の表情になった。

「おおっ。美味いぞ。魚臭さはあるが、この程度なら許容範囲だ」

 得意気な表情になるキビアル。

「そうでしょう、そうでしょう。卵と白子も干して良いんですが、こればかりは新鮮なうちに食べるのが一番なんですよっ」


 黒森の民のサケ干しは単純な方法だ。ウロコを取り除いた後で、石刃で腹を切って内蔵を引き出して洗い、そのまま頭や背骨が付いたままの状態で2枚におろす。ちょうど「魚の開き」に似ている。

 これを横木にかけて、洗濯物を干すような感じで天日乾燥するだけだ。


 横木が足りない場合には、石刃で開いたサケの背を切って尻尾の部分だけでつながる形態にする。尻尾の部分を横木にかけて、頭を下にしてぶら下げるという形になる。ただ、こうすると強度が低下するので、干している途中でサケの身がちぎれて地面に落ちる恐れがあるが。

 今回は横木の量が不足してしまったので、一部でこの縦干しをしている。



 この辺りのヒグマは人肉の味を覚えていない様子で、積極的に泊を襲う事はなかったのだが……サケを天日干しすると話は異なる。サケが干されていくにつれて美味そうな臭いが出てくるので、当然といえば当然だろう。


 そのため、泊の周囲にマンモスの牙や骨製の槍を巡らしていく。ただ、このカムチャッカ半島南端にはそれほど多くのマンモスは生息していないので、不足分は流木を削った槍で代用しているが。

 その発案をしたアララナが、木の槍を製作しているキビアルに声をかけた。

「これもキビアルさんが来てくれたおかげですね。高原にはこんなに真っすぐで長い木って、多くないんですよ。潅木ばかりなんです」


 キビアルが「夏だけの草原」の風景を思い起こしながら照れている。黒曜石の石刃とはいえ、槍への加工には苦労している様子だ。

「お役に立てて良かったです。船をつくる際に集めた流木が結構残っているんですよ」

 そのトド皮張りカヌーは改良に失敗してしまい、最後にはヒグマに見つかって皮を食べられてしまった。今では流木の骨材しか残っていない。


 そんな雑談をアララナと交わしていると、不意に爆発音が鳴り響いた。

「うひゃ! な、ななな何事ですかっ?」

 キビアルが流木の槍を投げ出して、跳びあがった。周囲をキョロキョロしている。


 そんなパニック状態のキビアルを見て、クスクス笑うアララナである。とりあえずキビアルの肩に手をかけて落ち着かせる。

「落ち着いてくださいな。クレバスの掃除をしている音です」


 永久凍土層が夏の間に溶けると、その場所がクレバスになる。クレバスによってはその後、メタンガスや硫化水素ガスなどが溜まってしまう場合がある。また、クレバスの底には枯草などが堆積している事が多い。

 クレバス内で肉などを保存する際には邪魔になる。そこで、定期的に火種をクレバスの中へ投げ入れて、ガスや枯草を燃やして掃除しているのである。


 そのような説明をしながらアララナが、また新たな爆発音に耳を塞いだ。

「今回は、干したサケを保存する場所を確保するためにクレバスの掃除をしているんですよ。槍の壁だけではヒグマを完全に追いやる事は難しいですから。クレバス内での冷凍保存でしたら、外に臭いが漏れにくくなります」


 感心して聞いているキビアルだ。

「はええ……そういう知恵があるんですね。俺の故郷にも伝えておこうかな」

 アララナがいたずらっぽい笑顔を浮かべる。

「行くとしても越冬後ですね。もう夏も終わります。ここでゆっくりして下さいな。キビアルさんのおかげで、干しサケが大量に確保できました。食糧の備蓄が春まで充分あります。石数えの仕事も最近は暇になって仕方がありませんよ」


ヒグマはサケとハイマツの実を夏の間に食いだめします。お気づきかも知れませんが、これって人間の食糧にもなるんですよね。

北海道のヒグマが凶暴だった理由ですね

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