湯池の泊
地震はその後も何度か余震となって発生していた。そのたびに崖からの落石と津波に警戒していたので、疲れ果ててヨレヨレ状態になっている。
(ひええ……気苦労が多すぎませんか、この回廊)
実際に何度か落石や沢の増水に遭遇していたりする。
それでも南下していくにつれて東の山脈が低くなってきた。海岸には多くの海鳥が営巣していて、本当に騒がしい。その中には故郷の溢れ水の泊では見た事が無い種類の鳥もいる。
切り立った崖に巣をつくっている鳥が多いので、小腹がすくと崖登りをして卵やヒナを採集して食べていくキビアルであった。そのおかげで、この一人旅でも体重は減っていない。
今も卵を海水で洗ってから、口をつけてすすっている。
(こんな鳥は初めて見るけど、卵は普通の味だな。可もなく不可もなし……ってところかな)
などと卵泥棒が口走っている。海岸にはトドやアザラシ、オットセイなどの海獣の群れもいるので、追いかけ回されたりしているキビアルであるが。
しばらく南下を続けていくと、ついに東の山脈が途切れた。その南はなだらかな丘陵地になっていて、一面の大草原だった。キビアルと同じく海岸沿いの回廊を通って南下してきたマンモスや野牛、馬にトナカイの群れがいて、のんびりと草を食んでいる。
丘は結構高いのだが、このまま南へ進むと低くなっていくのだろう。丘の上空にはカモメやウミガラスなどの海鳥の群れが乱舞しているのが見える。丘の向こう側は恐らく海だ。
(そろそろ半島の南端に差し掛かったのかな。なるほどね……大きな草原があるから越冬地としては便利なんだな)
これまでの旅で集めて回った溺死した獣の干し肉が、まだ背負い袋の中に充分量ある。そのため、地下水が湧き出ている泉で飲料水を補給するだけに留めた。
海岸沿いや海上で乱舞している海鳥の大群を眺めて、のほほんと寛ぐキビアル。
(良いなあ、ここ。太ってしまいそうだよ)
これら海鳥のほとんどは、冬になると南へ飛び去ってしまうが。
さらに南へ歩いていくと、人の足跡や罠猟の跡がみられるようになってきた。緊張しながらも期待が膨らんでいく。
(ふむふむ。人が住んでいるね。泊があるハズだな、これは)
果たしてキビアルの予想が的中した。翌朝キビアルがモミの木の上で起きると、木の下に数名の男達がいて取り囲んでいた。
(あらら。俺が起きるまで待っててくれたのかな)
フード越しに頭をかいてから、背負い袋と石斧を樹上から地面に落した。戦闘の意思はない、というサインである。
「おはようございます。俺はキビアル。遥か南から一人旅をしてきた黒森の民です」
すると、男たちの一人が笑顔を浮かべた。彼らの服装はキルデたちとよく似ていて、分厚いトナカイの毛皮服を着ている。顔も彫が深めで、癖のある茶髪だ。
「黒森の民の言葉だな。こんな北までご苦労な事だ。ようこそ「湯池の泊」へ。我らは高原の民だが、君の言葉は分かるぞ。泊へ案内しよう、木から下りてこい」
キビアルの荷物は男たちが担いでいく事になったので、手ぶらでついていく。草原を歩いていく間にキビアルが色々と会話をしてみたのだが、予想以上に黒森の民の言葉を話してくれるので面食らっている。キルデの時は、彼以外の高原の民はカタコトだったのだが。
「俺たち黒森の民の言葉って、簡単ですか? 南の民もそうでしたが……」
男たちが顔を見合わせて頬を緩めた。
「氷の暴風が起きる予兆があったんだよ。高原からどこかへ移住する必要が出てね。移住先の民の言葉を勉強したんだ」
「ところが、南は洪水だった。仕方なく、東へ進んでここへ到着したという次第だよ」
深く納得しているキビアルである。
「なるほどー……確かに、あの泥沼を進むのは大変ですよね」
そう同情してから、ふと思い出して小石が入った皮の小袋を袖から取り出す。中に入っている小石を摘まんで出し、男たちに見せた。
「旅の途中で世話になった高原の民の石数えから教えてもらいました。いくつか情報を得ています。せっかくですし、共有しませんか?」
男たちが驚いた表情に変わった。
「ほう……石を数える技を使えるのかね。分かった。泊に石数えがいるから紹介してあげよう」
湯池の泊は、小高い丘の窪地に建てられていた。風を避けるためだろう。室と苫がいくつもあり、意外に大きな泊だ。人口も多く、大勢の子供たちが草原を駆けまわって遊んでいる。
しかし老人の姿は見られなかった。高原からここへ避難してくる間に脱落したらしい。
(あんな危険な回廊を進むんだから、足が弱い人は無理だよね……)
キビアルの荷物は無事に返ってきたので、ここでも慣例に従って全ての保存食を泊の住人に差し出した。これで泊の住人として認知される事になる。
この時代は村や町という概念がまだない。主に家族や知り合い単位で、集合離散を繰り返している時代だ。農耕や牧畜も発明されていないので、獲物や木の実が多い季節と場所に人々が集まり、それが少なくなると去っていくという社会である。
それでもキビアルが持っている黒曜石の打根と石斧は注目される事になった。高原の民の故郷にも石器用の鉱脈地はあるのだが、黒いガラスのような見た目の黒曜石は少ない。
泊の男たちがキビアルに鉱脈地の場所を聞いてきたのだが……泥沼とアムール川、それに海峡があると知り、ガッカリした表情に変わった。
若ハゲ頭をかいて恐縮するキビアルである。
「俺の故郷の泊まで来れば、黒曜石の母石を貯め込んでいます。洪水が引いて、川が凍結したら訪問してみると良いでしょう。多分、他の高原の民が10人ほど住んでいるハズです」
そして、薄片であるが……やはり再び赤い粉が吹いていた。これまでの経緯を話してから、慎重に赤い粉を拭き取る。
「……という事がありまして。毒の石みたいなんですよ。危ないので、コレを捨てに行く旅をしているんです」
ここの高原の民も薄片を見るのは初めてだった様子だ。男たちが慎重に薄片の刃先を指で弾いて、その鋭利さに驚嘆している。
「なるほどな……子供が触れてケガをしたそうだが、この泊でも起こり得るだろう。捨てに行くのが正解だと俺たちも同意するよ」
毒についてはトリカブトの猛毒を日常的に狩りで使用しているため、理解も早かった。
キビアルが石数えの技能を有している点と、薄片問題もあり、この泊の石数えに身柄を預ける事になった。その石数えを紹介されたキビアルが目を点にしている。
(はえ……? 女の子だ)
女の子は10代半ばくらいだった。身長も150センチほどで華奢な体格である。彼女も高原の民の特徴として、赤ら顔でフワフワしたセミロングの茶髪をしている。何よりも目を引くのは見事な団子鼻だろうか。
その女の子が泊の住人からの説明を聞いて、キビアルに振り返り微笑んだ。
「情報を提供してくださるんですね、感謝します。あたしはアララナ。石数えです。ようこそ湯池の泊へ。歓迎しますよキビアルさん」
流ちょうな黒森の民の言葉だったので、さらに面食らうキビアルであった。
「もしかして……アララナさんが、ここの泊の人たちに俺の部族の言葉を教えたのですか?」
穏やかに微笑んでうなずくアララナ。
「はい。移住の準備の一環として教えました。言葉の情報も石などに記録しているんですよ」
かくしてキビアルは、アララナの手伝いをしながら泊に滞在する事になった。泊の住人が見聞きしてきた情報を、石に変換してアララナが記憶していく。その作業の補助をするキビアルだ。
アララナが長期記憶用の内容を骨飾りに石刃で刻みつけながら、嬉しそうな表情をキビアルに向けた。
「キビアルさんが手伝ってくださるので、情報の整理と分析がはかどります」
今はマンモスの群れを追跡しているそうで、その現在位置と地形情報を基にしての移動予測を立てている。マンモスの群れを、追い込み猟の場所へ誘導する工夫をあれこれ行っている段階だ。
キビアルが若ハゲ頭をかいて恐縮している。
「キルデさんに教わったのは、ごく基本的な内容だけなんですよ。それでも役に立っているなら嬉しいですね」
そう言ってから、改めて石の数と配置状況を見た。微妙な表情になる。
「群れのマンモスの数が少ないですね。老いたマンモスと子供マンモスの数も少ないような。やはり氷の暴風や洪水、津波の影響かな?」
アララナが静かに同意した。小腹がすいたようで、トナカイの干し肉をつまみ食いしている。
「そうなんですよね……来年以降の狩りも考えないといけませんね。湯池の泊は豊かな草原に恵まれていますが、火山の噴火や津波被害が起きやすいんですよ。狩り尽してしまうと、困るのはあたしたち……なんですよね」
湯池の泊はカムチャッカ半島の南端に位置する。この半島には活火山が多く、地震や津波の発生もある。山脈は万年雪を抱いているため、雪崩や雪解けの洪水も起こりやすい。
そのため沢沿いや海岸には定住せずに、低い丘の窪地に泊を設けているのだ。
アララナたちもキルデと同様に、元々は高原に住んでいた。しかし氷の暴風に追われてここへ移住してきている。
アララナが石を指先で転がしながら、軽く肩をすくめた。
「見ての通り、石が少ないんですよ。ですので多くの高原の民は湯池の泊に住まずに、黄昏の大地へ移住しています。冬を越せずに全滅する部族ばかりになっていますけどね」
キビアルが経験した氷の暴風を思い起こしながら、聞いてみた。
「高原の民の分厚い服でも越冬は無理なんですね……俺の服装じゃ凍死するしかないかな」
アララナが哀しそうな表情を浮かべて肯定する。一拍子遅れて彼女のフワフワした茶髪が揺れた。
「凍死でしょうね。辛うじて越冬した人もいるのですが、ここへ逃げ帰って来ますね。もう二度と黄昏の大地には行かないと言っています」
素直に納得するキビアルだ。
「でしょうね。氷の暴風の音って、怖いですし。でも、薄片を捨てるには適した場所かな」
キビアルが袋の底から薄片を取り出して、アララナに見せる。まだ薄っすらと赤い粉が付いている。アララナがじっと薄片を見つめてから、静かに同意した。
「そうですね。あたしが持っている石にも、この薄片の情報はありません。途中で脱落してしまった語り部が居たのですが、彼が知っていた歌にも該当する歌詞はありませんね。無人の地に行って捨てるのが最良だと、あたしも思います」
キビアルがふと、アララナの両親や親戚らしき人が見当たらない事に気がついた。10代半ばともなると、この時代では大人として扱われるため、彼女のそばに居なくても不自然ではないのだが……
(聞かない方が良さそうだな)
キビアルも10代半ばで若干アララナよりも年長っぽいのだが、溢れ水の泊では両親に気苦労をかけてばかりだ。今回の一人旅の目的も「嫁探し」という側面がある。自らを省みて若ハゲ頭をかいた。
「分かりました。黄昏の大地へ行って捨てる事にします。ただ、見ての通り髪が薄くて。氷の暴風には充分に気をつけます」
アララナがクスクスと小声で笑いながら、団子鼻の頭を指でかいた。
「あたしは特に気にしていませんよ。高原は夏になると暑くなるんですよ。その間は髪が長いと暑くて苦労します。洗髪も面倒ですしね」
キビアルが少し驚いた表情になる。
「そ、そうなんですか。夏だけの草原の入り口まで行きましたが、とても寒かったですよ。これから暑くなるんですか……不思議な土地ですね」
穏やかに微笑んでいたアララナだったが、ふと小袋から石をいくつか取り出した。それを見ながら、真面目な表情になる。
「実はあたしも黄昏の大地へは行った事がありませんが……収集した石によるとですね、油断ならない大地だと予想できます」
湯池の泊からは、カムチャッカ半島の東岸沿いに北上する事で黄昏の大地へ行ける。アララナがいくつかの小石を手にしながら、残念そうな口調で告げた。
「ですが、少し到着が遅れましたね。今から北上すると雪解け水の洪水に襲われて、海まで流される危険が高いんですよ。次の春先まで待った方が良いでしょう」
半月ほど早く到着していれば、そのまま黄昏の大地へ行けたらしい。少し残念がるキビアルだ。
「そうですか……ですが、洪水の恐ろしさは何度も体験しています。この湯池の泊で越冬しますよ」
その返事を聞いたアララナが、ほっとした表情を浮かべた。年相応な少女の表情になる。キビアルよりも少し年下だという話だが、普段は理知的な印象のため年上に見えがちだ。
「賢明ですね。黄昏の大地は、本当に危険なんですよ。あたしたち高原の民も、多くの部族が移住を試みましたが……石によると全滅しています。越冬できないんですよ」
黄昏の大地へ行った人の情報によると、氷の暴風が何度も起きているらしい。それでも何人もの勇者が探検していて、ある程度の地形情報は得ているとアララナが話す。
「黄昏の大地は海岸線沿いに進むべきですね。内陸に行くと氷の暴風に遭遇する恐れが高まります。海岸沿いに東へ進むと、南東の方向に大地が広がっています。その分だけ暖かくなるのですが……」
アララナの表情が曇った。ある石を手にしている。
「黄昏の大地の東端には大きな河が流れているんですよ。あたしたち高原の民には、この河を渡河する方法がありません。実質上の行き止まりですね」
河の幅は石によると1キロ以上ありそうだ。確かにアムール川に匹敵するような大河である。なお、この情報を持ち帰った勇者は、湯池の泊へ帰還して間もなく凍傷の悪化により死亡したという事だった。
キビアルが腕組みをしながら軽く呻いている。
「そうですか……俺はその勇者ほど鍛えていませんから、まず間違いなく、夏が終わるまでに湯池の泊まで逃げ帰る事はできそうにありませんね。その大河を船で渡る必要があります」
そう言ってから、南の民から教えてもらった皮張りカヌーについて話した。
「大河に到着したら、すぐに作って渡河します。対岸にも黄昏の大地が広がっていれば、南へ走る事で越冬できる可能性も生まれるでしょう」
興味津々の表情で目を輝かせて聞いていたアララナが我に返って、コホンと咳払いをしてから軽くうなずいた。団子鼻のおかげで愛嬌のある美少女という印象になっている。
「大河の向うにも草原が広がっている可能性は高いですね。対岸が見えていて、渡り鳥の大群が川向うからよく飛んできている……という石の情報があります。大河の流れも速くはありません。ですが、それだけですね。他に石はありません」
キビアルも少しだけ目を輝かせた。二重まぶたのせいで、少し眠そうな印象になっているが。
「という事は、大河の向うは無人の大地という事ですね。世界の果てだ。薄片を埋めて捨てるには最適かな」
情報を色々とアララナから得たので、頭の中で整理する必要がある。ここで話を切り上げるキビアルであった。
「すいません、あと一つだけ。湯池の泊には氷の暴風は来ないのでしょうか。来るのであれば、緊急避難用のクレバスの位置を調べておきますよ」
アララナが石を丁寧に個別の小袋に戻しながら、気楽な表情で微笑んだ。
「ここは半島ですから心配無用ですよ。海に囲まれていますから、極端な冷え込みにはなりません。飲料水を汲む泉も凍結しないんですよ。火山の影響でしょうね」
温泉水を飲料用に使用しているのだろう。泊がある土地も地熱があるせいか、雪が積もりにくくて暮らしやすいという話だった。
感心して聞いているキビアルである。
「はええ……よく調べていますね。石数えの技と言い、高原の民って賢いんですね。見習いたいですよ」
アララナが苦笑した。
「そうでもありませんよ。結局は氷の暴風に為す術もなくて、こうして南の端へ逃げていますし」
一緒に外の草原を散歩しながら、アララナが小声で話を続けた。風が吹くたびにフワフワしている茶髪が揺れている。
「湯池の泊へは、あちらこちらの高原の民が避難しています。ですので、互いの意思疎通がまだ上手く機能していません。マンモスやトナカイ狩りをするには団結しないといけませんから、最優先で解決する必要がありますね」
弓矢が発明されていないため、大型獣の狩りは基本的に追い込み猟になる。人数が多く必要になり、しかも追い立て班と待ち伏せ班との密な連携が必要になるのだ。
狩りそれ自体は、トリカブト毒を塗った打根を投射して毒が回って死ぬのを待つという戦術だ。しかし、それまでにマンモスが逃げ回ってしまうと、ヒグマなどに横取りされてしまう。
アララナが少し残念そうにため息をついた。白い息が風に乗って流されていく。丘を包み込んでいる草原は急速に緑色に変わっていた。
「それが為されて、石数えの人数が増えるまでは、あたしはここから離れるわけにはいきません。黄昏の大地をこの目で見てみたいんですけどね……石の情報だけでは、どうもモヤモヤしてしまって」
泊の子供たちを対象にして、石数えや語り部の育成を行っていると話すアララナだ。今は彼女だけらしい。




